第4話
「あなた、もう、そんなことを気に病まないで。私は、ここです。ここにいます」
激しい雨音にかき消されぬよう、声を張り上げて、私はかつて自分の夫だった男に語りかける。
「………君、は」
「あんなの、くだらない冗談だった。いつかみたいに、あなたが少しでも笑ってくれればいいと思って。でも、ごめんなさい。もうあの時には、冗談とも思えなかったのね…」
「――――…ふじ、の?」
「はい、あなた。あなたの妻の、
「……藤乃! ああ、藤乃なのか!? 藤乃! 藤乃! 藤乃! 本当に、藤乃なんだね!?」
狂ったように、彼は私の名を呼ぶ。否、ある意味彼は本当に狂っていた。
脳の病に侵され、正しい記憶も保てず、かつての妻の姿さえ認識できなくなっていたのだ。
私が彼を探す過程で見つけたのは、彼が、そうやって病院を転々としてきた痕跡だった。その痕跡も3年前に―― 彼の母親が亡くなったのと同時期に、途切れた。
おそらくその時、彼は自分が病気であることさえわからなくなったのだろう。近所の人達の話によれば、彼がこの地に住み着き、畑を始めたのが3年前。ぴたりと時期は符合する。
近所の人々は、おそらく薄々勘づいていたのだろう。
彼の病を知っていて、彼をかばったのだろう。
彼は優しかった。
彼は親切だった。
彼は一途だった。
たとえ病が彼を狂わせていたとしても、それだけは変わらなかった。
「あなた」
私は彼を呼ぶ。依頼の電話を受けたのは私だ。声を聞いて息を呑んだ。
近所の人がたまたまうちの事務所を知っていて、教わった番号にかけてきたのだという。
『お前のためにあるような仕事』
私から何を言ったわけでもなかったが、所長はすべて承知していたのだろうか。
―――私がこの仕事に、どんな結末を望むのかも。
「あなた、どうか、こちらに来て… これからは、ずっと一緒にいましょう?」
「…ああ、ああ、藤乃! もちろんだとも!!」
藤乃藤乃藤乃藤乃藤乃と私の名を叫びながら、両手を広げた私のもとに彼が駆け寄ってくる。
私は知っていた。自分の立っている場所が、夕方に休憩したあの崖であることを。
その崖に、柵が取り付けられてないことも。
知っていて、私は、その場所で彼が飛び込んでくるのを待った。
「あなた、ずうっと、私のことを覚えてくれてたんですね」
弾丸のように飛び込んできた彼を受け止めて、その体を両腕できつく抱きしめる。
骨ばった体の感触。肌の温度。ああ、すべてが記憶のままだ。
「私もね、あなたのことを思わない日なんて、一日だってなかった」
彼の重みで体が傾き、私は背中から倒れていく。
「…あなたの幸せを、ずっと、願ってましたよ」
―――そのまま私達は重力の法則にしたがって、崖下の濁流へと落ちて行った。
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