第3話
あまりにも長い沈黙の後、その影に気づいたのは私ひとりだった。
マリコはいつの間にか寝息を立てている。体力があるとはいえ、やはり慣れない見張り作業は難しかったらしい。
雨の向こう、てらてらと水を弾くその物体に、私は車から降りて目を凝らす。
夜闇の中で、憑かれたように大輪の花々を食い荒らす、その影は―――
「…B級、ホラー」
思わず小さく声が漏れる。私は畑へと駆け出した。
そこには異様な光景が広がっていた。
美しく咲いた大輪のひまわりに、手当たり次第に齧りついては、獣のように食いちぎる男がひとり。
それは確かに、あの依頼人の男だった。昼間の、誠実でおとなしげな様子からは想像もできない行動を、何度も何度も繰り返している。
だが、それ以上に目を引いたのは、その目から流れる涙だった。
男は激しい雨を受けて、顔中びしょ濡れだったが。確かに、彼は泣いている―――
私にはそれが、はっきりと分かった。
「どうして、ひまわりを食べているんですか」
私はむしろ落ち着いて、男に向かって問いかけた。
彼が「犯人」であることは、なんとなく予想がついていた。
ひまわりは確かに食いちぎられたような凄惨な形状をしていたが、それを彼は「切り取られた」「引き千切られた」とは言わず、最初から「食い荒らされている」と断定していた。
まるでひまわりが「食べられている」ことが、既知の事実であるかのように。
私の声に、男が振り向く。
男もまた、驚くほど落ち着いていた。
昼間に受け答えをした時と変わらぬ声音で、「妻が」と言葉を発する。
「妻が、言ったんです。私が送ったひまわりの写真を眺めて。太陽のようだと。これを食べたら、私の体の中も明るくなるかしら、と」
「奥さんが、ひまわりを食べたがっていたんですか」
「そうです。妻はあの花が好きだった。だから私は育てて写真を送った。…でも、私は、花は送らなかった。今こんなものを食べたら、おなかをこわしてしまうと。せめてもう少し元気になってからにしなさいと。妻は… 妻は、『そうね、元気になったらね』と画面越しに微笑んで… そうして、間もなく死んでしまった」
「奥さんは、ご病気だったんですね」
「そうです。治らない病気だった。私はそれを知っていたのに、そんなことを言ってしまった。ほんの少しでも、体に悪いことはしてほしくなくて。ひまわりぐらい、食べさせてやればよかったのに。それで妻が少しでも明るくなるのなら、そうすべきだったのに」
男は牙を剥かんばかりに大きく口を開け、ひまわりの
ぼたぼたと花の欠片を零すその口から、世界のすべてを呪うような声が吐き出される。
「…ああ、ああ、だから私が代わりに食べるんだ。太陽の光を腹いっぱいに詰め込むんだ。腹いっぱいの光といっしょに私は死んで、私は光を妻に持っていくんだ。そして言ってあげるんだ。これがおまえがほしがっていたひかりだと――――」
「――――あなた」
私は男を、かつてそう呼んでいた呼び方で、呼んだ。
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