第5話 顔の見えぬ婚姻

「まったく……最低、ね」


 自分の背ほどあるモップと水がたっぷり入ったバケツを持ちながら、思わず本音が零れ落ちた。


 あの日、庭でサボっていたことがバレて以来、母は私に直接やることを言いつけるようになってしまった。しかもその用事は、ほとんどが使用人たちがするようなものばかり。


 今も屋敷の廊下中にすべて水でモップをかけ終わったところだった。


 窓から注ぐ日差しは真上を通り過ぎ、やや傾きかけている。今日もこんな雑用をこなすだけで、一日が終わってしまうわね。


 初めは私に対し同情的だった使用人たちも、母のキツイ言いつけのために誰も庇ってなどくれなくなった。


 廊下ですれ違っても、顔をそむけることさえなく、まるでいない者のように扱われている気がする。

 もっとも、憐れまれるよりかはマシなのかもしれないけど。


 嫁いだらこんなことは当たり前になるのだから花嫁修業の一環だと母は言い張っているけど、貴族の娘がこんなことをするなんて聞いたこともない。


 どんな本を読んだって、いじめられてる娘しかこんなことさせられていないのに。それでも母は『これはあなたのため』の一点張り。


 母の中で私のためと思っている以上、反論も何も出来ないのよね。

 だってそんなことをしようものなら、火に油を注ぐだけだし。他の人からも親不孝者だって余計に責められてしまう。


「もう……逃げたい」


 あれから夜も部屋に明かりを入れてもらえることすらなくなって、本も全く読めていない。

 婚姻先だって決まってもいないのに、こんなことがいつまで続くのかしら。どんなに嫌な嫁ぎ先だって、今よりマシなんじゃないかしら。


「あら、お姉さままだそんなことなさってたの?」


 廊下の角を曲がると、待ち構えていたかのようにフリージアが声をかけてきた。


 口に手を当てわざとらしく驚いた様な顔をするフリージアの眼は、あきらかに私を笑っている。

 まったく、他の者の眼があるから優しい妹のフリだけはしていても、全然そういう風に私には見えないし。わざとらしいにもほどがあるわね。


「言いつけだから仕方ないわ。何か用なの?」

「言いつけって言ったって、お母さまはちょっとお掃除を頼んだだけなのにこんな時間までかかるだなんて」

、ね」


 この屋敷全部の廊下のモップがけがちょっとだなんて、よく言えたものね。それにどうせとっとと終わらせたら終わらせたで、難癖を付けるか別の仕事を言いつけるのだもの。


 早くやるだけ無意味なのよ。


「お姉さまって本当に要領が悪いですわよねー。いっそ、使用人たちに教えてもらったらどうなんです?」

「それは花嫁修業ではなくて、使用人たちと同じことをさせてるって認めるってこと?」

「なにそれー。それはお母さまがお姉さまのことを思って言ってることを否定するってことですの?」

「あなたがそういう風に言ったのでしょう」

「やだやだ。そーいうとこが可愛げがないって言うんですよ」


 言い返したところで同じだって分かっているけど、私だって人間なのよ。反撃されると思ってもいなかったフリージアからは笑みが抜け落ちていた。


「可愛げってそれは必要なの?」

「ないから家族にだって可愛がってもらえないのですよ。それに、ましてや新しい家族は血も繋がってない。そんなんで大丈夫かしら~。アタシ、お姉さまのことが心配で心配で夜も眠れなくなりそうだわ」


 今この子、新しい家族って言ったかしら。どういうこと?

 まさかこの歳で養子に入れだなんていうことはないと思うけど。


「どういうこと? 新しい家族って」

「ふふふ。お姉さまの嫁ぎ先がやーーーっと決まったから、お父さまたちがお姉さまを呼んでこいって。だから、わざわざ探しに来てあげたんですよ? 優しい妹でしょう」


 自分で優しいって言ってしまってるところからして、全然そんなことないって証明してるようなものだって分からないのかしら。

 でも嫁ぎ先がこんなにも急に決まったって。今までどこからも打診すらなかったのに。一体どういうことなのかしら。


 いい予感などまったくしないまま私はフリージアの話を勝手に打ち切ると、父たちが待っているという執務室へと向かった。

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