行き遅れの私が侯爵様の妹に嫁ぐことになりました。

みづ

はじまり

「では、君には妹のクリスに嫁いでもらうということでよろしく」




 ミシェラは笑顔の美青年とそっぽを向く美少女を前にただ目を瞬かせることしかできなかった。



【1】

 ミシェラはその日、早朝から父であるイルカンド侯爵に呼び出されていた。

 王女殿下に仕える筆頭女官補佐であるミシェラの朝は早い。貴族街の屋敷から王宮へ出仕するため日が昇ると同時に起床するミシェラは、今日はまだ日も昇らぬうちから父の執務室へ赴いていた。いつもより早い時間の起床だからといって身だしなみに乱れはない。薄い茶色の髪をまとめてうっすらと化粧を施している。目鼻立ちはしっかりしているが色の薄いミシェラは薄化粧だと凡庸に見えるが、仕事上はこれが正装だった。

「お父様、今、なんとおっしゃいました?」

 父であるイルカンド侯爵から告げられた言葉を呑み込めず、ミシェラは困惑をただ顔に出してゆっくりと瞬きをした。

「いや、私も混乱していてだな……」

 宮廷への出仕を休むようにと告げられたその後、父の口から放たれた言葉に戸惑うミシェラと同様に父のアルベルトも困惑しているようだった。

「その……お話は確かなのですか?」

「ああ……何度も読み返したが、手紙の文章は変わらなかった」

 父から手渡された手紙。一文目から最後まで見落としのないように目を通す。

「……私が……ビオクステ侯爵様に輿入れ……?」

 信じられない思いで手紙を読み直す。青天の霹靂とはまさにこのことである。

 ミシェラが王女殿下に仕えて五年。侍女として働き出して八年。十八で家政学校を修了したミシェラは今年二十六歳。十代で結婚することが大半を占めるこの国において完全な行き遅れであった。七人いる兄弟姉妹の中でも結婚していないのはミシェラと神官になった末の弟だけだ。

「待ってください、記憶が確かならビオクステ侯爵様は御年二十を超えた辺りの御年であったはず。なかなかご結婚されないことは話題にはなっておりましたが、何も私などを選ばずとも……」

 ビオクステ侯爵が代替わりしたのはここ二年ほど。ビオクステ侯爵家は代々、後継ぎの長男が二十歳を迎えると代替わりとして先代が隠居する。先代侯爵夫人は若くしてご逝去されたため、長男の現ビオクステ侯爵と妹が現在のご家族のはずだ。ビオクステ侯爵は優し気な面立ちと物腰柔らかな佇まいから、貴族令嬢からの人気も高い好青年であると聞いたことがある。しかし結婚はおろか婚約の一つ、浮いた噂一つなく今まで政務に勤しんできた方だ。妹であるご令嬢は美少女であるが、輪をかけて内向的な方らしく、社交界でお見掛けしたこともない。こちらも独身であることしかミシェラにはわからなかった。

「その様子では顔見知りというわけでもないのだな?」

「もちろんです! ビオクステ侯爵様の領地はナシャテ辺境伯領のお隣……まして王都にも殆どお顔を出さないことで有名でございます。私も屋敷と王宮の行き来しかしませんし……」

 ミシェラは幼い頃よりこのサリエ王国に仕えるために女官を志していた。聡明な王が治めるこの国が大好きで、国のために身を尽くしたいと考えていたからだ。兄弟姉妹がたくさんいたこともあり、無理に嫁ぐ必要もなかった。だからミシェラは今まで自分の行く末というものを自分で決めてきたのだ。社交界デビューする歳には家政学校へ入学し、修了後しばらく教鞭を取った後、王宮へ出仕することとなったミシェラは、ついに王女殿下の筆頭女官補佐にまで登りつめた。特に結婚願望もなかったから、このまま独身で生涯を終えるつもりでいたのに……。

「なんてこと……」

「ともかく、お前は今日、ビオクステ侯爵の屋敷を尋ねなさい。王都にいらっしゃっているようだから」

「今日?! 今からですか?」

「王宮へは早馬を出した。暫くはそれどころではないだろうからな……」

「暫くって……」

 ミシェラは来春に筆頭女官になる打診を受けたばかりだった。これから引き継ぎ事項が山ほどあるのだ。一日二日ならまだしも何日かもわからない期間を家庭の都合で休めるものではなかった。

「私がなんとか代わりを調整しよう」

「お父様が王宮の文官だからといって、婚約程度で……」

「何を勘違いしている?」

「え?」

 父は大きなため息とともに大きな爆弾を落とした。

「婚約ではない。結婚だ。すぐにな」

「え、ええええええええええ?!」




**************




 馬車で訪れたビオクステ侯爵家は質素なつくりの中にも剛健さを兼ねそろえた立派な屋敷だった。

「ようこそお越しくださいました。ミシェラ・イルカンド様でございますね。ビオクステ侯爵家執事長のルカリオ・シャルムと申します」

 ルカリオと名乗ったは執事長は、厳かにミシェラを迎えた。後ろに流された栗色の長髪を一括りにした青年は、ミシェラよりかは年下に見えた。当主の代替わりと同時に執事も代替わりするのだろうか。

 ミシェラは疑問を呑み込んで、背筋を伸ばし頭を下げた。

「ミシェラ・イルカンド侯爵令嬢です。このたびは……ええっと……」

「詳しいお話は中で。主人がお待ちしております」

 ビオクステ侯爵と対面するのはこれが始めてだ。これから初対面の男性と、自分の結婚の話をする。昨日の夜までは想像もしなかった展開だ。

 もう決定事項なのかもしれない。それでも、今までミシェラは自分の進む道は自分で決めてきた。

(納得いくまで、話をしましょう……すべては、それから……)

 ミシェラは一度大きく深呼吸してから、覚悟を決めて扉をくぐった。





「はじめまして、ミシェラ・イルカンド侯爵令嬢。ビオクステ家当主のアリジェイル・ビオクステです」

 初めて対面した侯爵を見て、ミシェラは思わず声をなくしてしまった。

 線の細い体躯ではない。霞みがかったプラチナの髪でもない。同じ色の瞳が優し気に細められているのでも、整った優美な面立ちでもなかった。

「ああ、ご存じなかったでしょうか。私はオオカミの獣人ですよ」

 微笑むアリジェイルの頭の上でふさふさの耳がぴこぴこと動く。

 ミシェラは知らないわけではなかった。忘れていただけだ。ビオクステ侯爵家はオオカミの獣人の家系なのだ。

 現在のサリエ王国には二つの種族が暮らしている。ミシェラのような人族と、動物の痕跡を体のどこかに持つ獣人族だ。しかし、サリエ王国では、人族は獣人から派生したものであり、また獣人族は人から派生したものである、との共通認識があり、二つの種族の間に貴賤はなかった。人族と獣人族の婚姻も珍しいことではないため、世代が進むにつれて純粋な獣人族は少しずつ減少しており、現在は見た目が異なるだけで個性として扱われている。隣国では明らかな差別を行う国もあると聞く。サリエ王国のおおらかな国民性もミシェラが国を愛する理由の一つだった。

「存じてはおりましたが、結婚の話に気を取られて、意識の外にあったといいますか……」

「無理もありません。さあ、かけてください」

 ミシェラが通されたのは応接室ではなく当主の執務室だった。執務室に設えられたテーブルセットのソファに向かい合って座る。侯爵家当主を前にしているとは思えないくらい柔らかな空気だった。

「今回は急な申し出にお付き合いいただき感謝します」

「こちらこそお時間を割いていただきありがとうございます」

「本題に入る前に、家族を呼んでも構わないかな」

「もちろんでございます」

 ミシェラが頷くと、アリジェイルは傍らに侍っていたルカリオへ目くばせした。ルカリオはお辞儀を一つすると退出する。遣いに出たようだ。

「ミシェラ嬢、とお呼びしても?」

「構いません。結婚相手として私を選んでいただいたとお聞きしています」

「その話はおいおい。私のことはアリジェイルと。まずミシェラ嬢のことを教えていただきたい」

 初対面なのだからこの流れはまっとうだ。ミシェラは結婚のことはいったん脇において自身のことについて語った。

「王女殿下のもとで筆頭女官の補佐をしております。家政学校を出てからすぐに侍女として働きはじめましたため、お恥ずかしながらこの年までご縁がございませんで、売れ残っておりましたの」

「売れ残ったなどとご自身を辱めることはございません。誇りを持って働いていらしたのでしょう。そのおかげで今回ご縁ができた」

 ミシェルはアリジェイルの言葉にはっと息を飲んだ。誇り、その言葉が胸の中に落ちてくる。自分で覚悟を持って選んだ道とはいえ、正面から肯定されて嬉しくないわけがない。

「家政学校で教鞭を取っていたとき、生徒は必ずしも望んで学びにくるものだけではございませんでした。私は、お屋敷勤めは立派な仕事であると説いていましたが、誇りと称されるとこそばゆいものがありますね」

「国を形作るものは王族や貴族だけではありませんからね。男も女も身分関係なく人がいて国なのです」

「アリジェイル様もこの国が好きですか?」

「もちろんです。愛する人がいるこの国を守りたいと願う一人の人間です」

 その言葉が自分に向けられたものでないことをミシェラはなんとなく察した。

 そしてこれが形ばかりの結婚であることも。

「さて、そろそろ到着するころだろうから、先にこちらの書類にサインをお願いしたい」

「書類にサインですか?」

「ああ、神殿で発行してもらった誓約書と婚姻届けだ」

 早すぎる展開に目を白黒させているミシェラの前に差し出されたのは二枚の書類だった。上質な紙に記されたそれらに目を通す。

「まず、約束してほしい。婚姻後は絶対に離縁しないこと。この家で見聞きしたことはけして口外しないこと。それがご自身の家族でも。その前提で婚姻届けにサインをしてほしい。この後すぐに王宮に送るからね」

「すぐですか?!」

「ああ、すぐだよ。破談になっては困るんだ。婚約ではなく結婚の申し込みとしてお父上にも手紙を書いている」

「その手紙は私も拝見しましたが、こんなに急だとは……」

「事情はサインが終わった後に説明するが、君以外と結婚することは出来ないんだ。申し訳ない……」

 アリジェイルは綺麗に整った眉を下げて、心底申し訳なさそうな顔で微笑んだ。

 ミシェラはここで覚悟を決めなくてはならないらしい。

「……一つ条件がございます」

「飲めない要求以外ならなるべく叶えよう」

「仕事を……続けさせてほしいのです。せめて、王女殿下がデビュタントを迎えるまで……」

 王女殿下は現在十四歳。デビュタントには後二年あった。この家に嫁ぐということは侍女の仕事は辞めねばならないだろう。それでも、五年の月日を共にした王女殿下が大人になるまではせめてお傍にいたかった。

「なるほど……二年か……」

「ええ、二年後には私は二十八になりますが、世継ぎを産むならまだ……」

「世継ぎ?!」

「え?」

 突然響いた驚声は、アリジェイルのものではなかった。背後から聞こえたその声に恐る恐る振り返る。

「な、なんの話をしているんだ……っ」

 振り返った先にいたのはアリジェイルにそっくりな相貌。頭の上に三角の耳を乗せ、白い頬を赤くしている美少女だった。

「クリス、ノックをしなさい」

「お前が変な話をしているからだろう……っ」

 薄い水色のドレスのフレアがふわりと膨らむ。もしかしてしっぽの動きに合わせて揺れたのかもしれない。ルカリオが背後から裾を直している。

「ミシェラ嬢、こちらが妹のクリスティーナ。会ったことは?」

「い、いえ……初めましてクリスティーナ様。ミシェラ・イルカンドと申します」

 ミシェラが迫力に押されて答えると、クリスティーナは不機嫌そうにそっぽを向いて黙った。眉間に皺が寄っていても整った顔だった。腰ほどまでの長さの髪は真っすぐで光を帯びて艶めいている。アリジェイルは髪と揃いの銀目だが、クリスティーナの目は金色に輝いていた。つりあがった眦はきつい印象を与えるが、月の女神のような美貌にミシェラは見惚れてしまった。内向的というよりは……攻撃的に見えるが。

「では、ミシェラ嬢。先程の件であるが、すでに話は付いている」

「え?」

「今は週六日で出仕しているだろう?」

 アリジェイルに問われて条件の会話をしていたことを思い出す。ミシェラは居住まいを正して、アリジェイルに向かい合った。その隣にクリスティーナがどさりと座る。

「ええ。余程のことがなければ休日は週に一日いただいております」

「これから状況が落ち着くまでは出仕は週四日に変更してもらう。その後は週二日。デビュタントが終わったら家の仕事についてもらうよ」

「女官長様はご納得されたのでしょうか?」

 ミシェラからすれば当然の疑問であったが、アリジェイルは意味ありげな微笑みをもらして、隣に視線を向けた。

「クリスが自ら掛け合ってくれた。必死すぎて見ものだったと護衛官から連絡がきたよ」

「うるさい」

「クリスティーナ様が?」

 にわかに信じがたく、ミシェラは驚きを隠さぬままにクリスティーナを見つめた。クリスティーナは唇を尖らせて横を向いたままだ。

「……クリスでいい」

「クリス様とお呼びして構わないのですか?」

「お前にクリスティーナって呼ばれるのは……違う、からな」

 ミシェラはなんだか微笑ましくなって、思わず頬を緩めた。クリスが何を考えているかはわからないが、拗ねた子供のようで可愛らしかったのだ。本人には言わないけれど。

「書類にサインをもらえるかい?」

「……承知いたしました」

 事情はどうあれ提示した条件に相違はない。いずれこの家の女主人として働くことになるのだ。筆頭女官と同じかそれ以上に誇りある仕事ではないか。ミシェラは胸に覚悟を刻んでペンを手に取った。


「うん、綺麗な字だ」

「ありがとうございます」

 アリジェイルはミシェルが記入した誓約書と婚姻届けを満足げに確認すると、くるくると丸めて封蝋を押した。

「ルカリオ」

「お預かりします」

 ルカリオはティーセットをテーブルに置く代わりにアリジェイルから封書を受け取ると執務室から颯爽と退出した。

「ではやっと話が進められるね」

 アリジェイルの言葉にミシェルは一段と背筋を伸ばした。


「では、君には妹のクリスに嫁いでもらうということでよろしく」


 そして冒頭に戻る。





**************





「ど、どういった意味でしょうか」

「そのままの意味だよ。ミシェラ嬢は私と婚姻する。だが、結婚生活はクリスと送って欲しいんだ」

「クリス……様と……?」

「表向きは私と夫婦だが、本質的にはクリスと夫婦ってことだね」

 ミシェラは混乱で目が回りそうだった。

「順を追って話すよ。私はこの歳まで婚約一つしていなかったから、親戚知人から早く結婚しろと言われ続けていてね。当主になったから尚更だ。しかし、私は分け合って結婚することはできないんだ」

 貴族ならわからないでもない話だ。貴族の婚姻は政略的な意味も含めて重要視されている。当主たるもの未婚のまま過ごすことは親類としても看過できないだろう。ましてやアリジェイルはまだ二十一だ。

「先月クリスが二十歳になったからね。丁度いい機会に結婚をと思って。君と」

 そこがつながらないのだ。ミシェラは頭を抱えそうになった。気分を切り替えようとティーポットからカップにお茶を注ぐ。砂時計の時間はぴったりだ。丁度いい蒸し具合だった。

 何か事情があって当主が結婚できないからと他の家族に嫁ぐというのは政略結婚でない話ではない。しかし、それが妹で。さらに年齢の離れたミシェラでなければならない理由がない。

「……どうして、私だったんでしょうか」

 ミシェラのその問いにアリジェイルは紅茶を一口飲むばかりで答えなかった。クリスは相変わらずこちらを見ようとせず茶菓子を頬張っている。その手が汚れているのを見てミシェラは手拭きで指先を拭っていた。

「なっ」

「?」

 クリスは顔を真っ赤にしてミシェラの顔と包まれたままの手を交互に見つめた。王女殿下の世話になれているミシェラはその意味がわからずに首を傾げる。

 その様子を見ていたアリジェイルはふっと声を上げて息を吐いた。

「一つ言えるのは、君じゃなきゃ駄目だったってことかな」

(私にそんな価値があるとは思えないけれど)

 ミシェラは首を傾げて自らの手のひらを見つめた。クリスもその向こうで自らの手を見つめ続けているが、それには気が付かなかった。

「ああ、そうだ。一つお願いしたいことがあってね」

「なんでしょうか?」

 これ以上混乱することはないだろう、と半ば諦めてミシェラはアリジェイルに向き直った。

「このクリスなんだけど、少々面倒くさがりでね。身の回りのことが自分で出来ないんだ。君はとても面倒見が良いようだし、王女殿下と同じくらい見てやってくれるかい?」

「まあ!」

「お前!」

 ミシェラが声を上げたのとクリスが声を上げたのは同時だった。ミシェラからすれば出仕先が変わっただけとも言える。もともと世話好きなミシェラはなんと幸せな環境だろう、と思った。

「なんだ、構わないだろう?」

「と、とにかく!」

 クリスは勢いよく立ち上がると扉に向かってずかずかと歩き、ミシェラを指差して振り向いた。

「ミシェラは俺の妻が仕事なんだからな!」

 そう言い残して扉を出ていくクリスの顔はかわいそうなくらいに真っ赤だった。

「あらあら。ふふふ」

 ミシェラは出会った頃の王女殿下の癇癪を思い出して、これからの楽しい生活を思い描いた。

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