六幕:「発露」

「うん、やろう……沢山の事をもっといろいろ」


 決意を改め、リリムは一度自室に戻った。

 ルーザをベッドに乗せて、引き出しの中にしまってある魔術学の本を取る。


 師匠が言っていた言葉、何度でも覚え直せばいい。

 リリムの場合は寝ていた部分もあるからこそ、全てがそれに当てはまる訳ではないが、師匠を追う資格を改めて自分なりに持つ為にも、うだうだ言っている暇は無い。


「よし! まずは一ページ目……」


 革表紙を捲った。


 魔術の基礎及び、基本的な発動原理について記されたページだ。

 ここも改めて読み直そう、初心者の中級者の魔術だけじゃない、リリムは師匠が扱う様な高位の魔術つまりは高等魔術もいずれ扱えるようにならなければならないのだ。

 この程度理解出来なければ追いつくなど一生不可能だろう。


 不可能……

 不可……能……

 不……可……


「駄目だ、分からない……」


 にらめっこを続けるが、まずい、理解するのにどのくらいかかるのか。

今の段階でのこの無理解にリリムは冷や汗と共に、一度逃避する道を選んだ。


「取り敢えず一回、お菓子食べようかな……」


 一階のキッチンの戸棚にエド手製のクッキーがある筈だ、それを食べてからやろうそうしよう。

 階段を降りて戸棚から状態維持の付与がされた布の被った皿を取り出す。

 リビングのソファに腰を下ろし、布を外す。

 直ぐにほんのりとバニラの香りがするプレーンクッキー、エドレイスの得意な菓子だ。

 それを片手に取りながら付いて来たルーザを膝に乗せる。


「う~ん! うんまぁい!」

「ギャー……」


 バターをふんだんに使った濃厚なクッキー、やはり癖になる味だ。

 ふと、下を見るとルーザが食べたそうにリリムの手を凝視していた。


「欲しいのか?」

「ギャ!」


「欲しい!!」と言う様に口を開いて鳴いているルーザに一欠片ひとかけら砕いてあげる。

 頬が膨らみ鱗の隙間から地肌が見える程に頬張るルーザはとても満足げだった。

 そうして満足したルーザが数日前の様に首に絡まろうと肩に手を掛けた。


「ちょっ……ちょっと待って!」

「ギャア?」

「爪が! 爪がすっごく刺さってる! 痛い痛い痛い!」


 たったの十数日で、既に召喚さうまれたころより二回りほど大きくなっているルーザは、リリムは腕の中はとうに窮屈で、膝の上で丸くなるのが限界の大きさにまで成長していた。

 成長に応じて背中の石柱は鋭さを増し、その大きさを拡大させ、丸っこかった指先には小さいけれど爪も生え始めた。


 それ故に、それが首元に刺さって地味に痛い。

 それに加え、十分な大きさになったルーザを首に巻いていると、重心が頭に寄ってバランスを取るのが難しいのだ。


「ギャウゥ……」

「ふぅ……ふぅ……」


 なんとか上ろうとするルーザの前足の付け根を支えて抱きかかえる。

 とてもルーザは不満気な顔だが、許せ……お前はもう大きくなったのだ。


「そろそろ、首に巻き付くのはおしまい」

「ギャー、ギュー」


 「何でぇ」と言うかのように鳴くルーザには申し訳ないが、本当にそろそろ巻き付くのだけは勘弁して欲しいものだ。


「膝に乗って丸まるぐらいなら全然いいから、首に巻き付くのは終わり! 良いね!」

「グゥ~……ギャア!」

「うわ!? ちょっと暴れんな!! 俺はお前の主だぞ!?」


 ルーザは駄々をこねる子供の様に身体をくねらせ、尻尾をブンブンと振って何とか手の内からの脱出を図る。

 流石にここまで暴れられると九歳の子供の腕では限界がある。

 とうとう限界を迎えた腕をすり抜け膝に飛び降りると、俺の腕に再び捕まる前に足早に肩に手を掛ける。


「ちょっと待ッ──……」

「ギャ?」


 不意にカランという軽い乾いた音が響いた。

 それと共に動きが止まった主の姿を不思議そうにルーザは見つめ、ルーザの視線は床に落ちた、小さい真珠に移った。

 ルーザ自身が上るときに足を引っ掛けてしまいリリムの首後ろの留め具が外れてしまったようだ。


 勿論、これが何なのか、ルーザは知らない。

 これが、主であるリリム・アィンフロッドの過去を封じる為の物であることも。


「ふぁ……」


 涙が出た。

 分からない、だが何故か途方もない回数、両親の顔がリリムの頭の中を駆けめぐる。

 声が、感触が、香りが、そんな全てが幾百幾千と今までの比でない程に頭の中に張り付いて剥がれない。

 涙が床に一滴……それを引き金にボタボタと滝の様な涙が頬をずぶ濡れにした。


「うぁぁあん!! ああああ!!」


 何故かとても両親に会いたくなった。

 会えないと分かっているのにどうしても何が何でも会いたいと思った。

 そんな感情がリリムの頭を、心を離れない。

 そして、それと同時に何か黒い感情が一部を埋める。

 師匠に対する何か考えてはならない感情。

 そんな分からない感情に頭の中だけでない、身体中を埋め尽くされ、膝から崩れ落ち泣き叫んだ。

 泣いても泣いても止まることの無い涙が床に滴り続ける。


 そんな時、廊下の向こうから扉の開く音が家の中に響く。


「ただいま愛弟──どうした!?」

「お、おい何があった!?」


 師匠とエドレイスの声だ、泣き叫ぶ声に焦る二人が急いでリビングに入ってくる。

 だが、虚空の様に空いた心の中が満たされない、師匠もエドレイスも来てくれたのに、終わるのことの無い気持ちがひたすらに、口から、目から、溢れ出す。


 半開きの引き戸を完全に開いた師匠が俺を見た。

 膝から崩れ落ちて泣くリリムの肩に手を当てる。


「大丈夫だ、愛弟子私はここに居る! どうしたんだい? 一体何があっ──」


 周囲に目を向けた師匠が、本来愛弟子の首から掛けられている筈のそれが床に落ちているのを見つけた。


「これが外れたからか、一体誰が……いや!! 今はそんなことは関係ない!」


 師匠は手早くリリムの首に真珠を掛ける。

 真珠が淡く光り始め、師匠は強くリリムを抱きしめた。


「もう……大丈夫だ、愛弟子いや……大丈夫だリリム」

「うぅ、ししょぉ……今の何……?」


 未だ震える声で師匠に聞く。

 涙は未だ止まらない、今の理解の追い付かない現象は止まったが、それがとにかく怖くなった。

 只、両親を思い出すだけじゃない、同時に浮かび上がる師匠に対する黒い感情……それがとにかく怖かった。


「大丈夫……とにかく今は何も考えないでいい、落ち着くまでそうしていなさい……」

「う、ん……うんッ……」


 ゆっくりと頭を撫でる。師匠の胸の中でリリムはまた泣いた。


 今も胸で淡く光るそれが消した感情に恐怖は含まれていない。

 リリムの涙は今、その恐怖に震えて流され続けた。


 ◇◇◇◇◇


 泣き疲れ、ソファの上で師匠──リエナの膝に頭を預け、未だ僅かに震える呼吸と赤くなった瞼で眠る愛弟子をゆっくりと撫でる。

落ち着かせる様にテーブルには香を焚き、とにかく愛弟子が落ち着ける様に務めた。


「迂闊だった……」


まだ、顔が強張る。

今回の事が事故なのかそれとも愛弟子が故意的にこれを取ったのか、その場に居なかったリエナにはそれは分からない。

だが、それでもリエナかエドレイスが付いていれば防げたはずだ。

既にこの暮らしを始めて四年……油断が生まれたのだ。


「リリ坊の様子……どうだ?」


起こさぬ様に慎重な態度のエドレイスが、珈琲を乗せたソーサーを両手にやって来る。

片方をリエナの前に置いて、ソファに座った。


「なぁ……エド」

「ん? どうした」

「私は……どこで間違えたのだろうか」


愛弟子を守る為に一緒に居たのではないのか、そう自分を責めたくなる。


「成熟した人間ですら、過去の繋がりに一度区切りをつけるのは難しいと聞く。愛弟子であれば尚更だ。だからこそ、常日頃このリリムの母親が渡したという御守りは肩身離さず持つように言っていた」


愛弟子自身が、自分の過去で心を潰してしまう事が無い様に。

だが、この忌物は未だ完全に解明されていない、故に感情の欠落させるその効力が何処までの範囲なのかも、何を拍子に効力を失うのかも不明な点も考慮し、完全に効果を説明することも出来なかった。

だが、それがこうして今の現状を造り上げたのも事実だ。


「私は、どんなに頑張っても、リリムを守る事は出来ないのだろうか?」

「まあ、リエナが怖ぇって思うのも分かるよ、子供を育てるなんてそういうもんだ。右往左往に上下前後、そんな感じに迷って迷ってやっていくしかない、俺が若ぇ時、お袋が言ってたよ、『育児を完璧にこなせる人なんていねぇ、なるようになる事態に対応していくのが育児』だってな。だからよ、そこまで自分を責めようとすんじゃねぇ、さっきからひでぇ顔してるぞ」


言い切ったエドレイスが珈琲を一気に飲み干す。

少し、顔の力が抜けた気がした。


──ハハッ……この男は、毎度毎度行き詰れば助言をくれる。

だが、


「ひどい顔は余計だ、馬鹿者」


少しリエナの中で心が救われた気がした。

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