第10話 恐怖の瓦解
シドゥルグは迷っていた。
ヒュンナグを構成する氏族の中でも最大のものの一つ、オクトルゴイ氏族。その族長である彼は、ボルドゥを憎んでいた。それゆえ、他氏族に嫁いでいた娘・マラルを通じてサラーナが接触してきた時には、消極的ながら味方をすると約束し、バローンに嫁ぐシャルモール妃の随員にサラーナの手の者を紛れ込ませることにも協力したのだ。
しかしその一方で、完全にボルドゥに敵対してしまうことへの
五十の坂を越してなお、戦士として前線に立つ彼は、ズーンの留守部隊が仕掛けた罠に手こずりながら、戦いの
ボルドゥはようやくにして、麾下の部隊のほぼすべてを迷路から脱出させ、体勢を立て直すことに成功した。
こうなってしまえば、数で下回っているズーン軍はいささか分が悪い。
「一気に踏み潰せ!!」
溜まりに溜まった
そして、ヒュンナグ軍の激しい突撃を受けて、ズーン軍は四分五裂した。
が、それは文字通りの軍の解体を意味してはいなかった。バラバラになった部隊は、それぞれの指揮官の
こちらの部隊を追いかけようとすれば、あちらの部隊がちょっかいを掛けてくる。その繰り返しで、全く
「こちらも部隊を分けますか?」
伺いを立ててきた側近を、ボルドゥは阿呆かと怒鳴りつけた。最初からそのつもりで準備していたであろうズーン軍に対し、今即興で同じように部隊を分けて、まともに対抗できるはずがない。
「とにかく、総大将を潰す。おそらくはズーンの王族の誰かだろうが、そいつを討ち取れば、組織的な反撃は出来なくなるはずだ」
しかし、ご丁寧なことに、各部隊の指揮官は皆お揃いの格好――ひときわ目立つ真っ黒な装束を着ていて、誰が総大将なのか区別がつかない。
ボルドゥの心に焦りが生じる。
(落ち着け……。本隊が戻って来るまでに必ずこいつらを潰す。まだ時間はある。あるはずだ)
野生の
「遅いな……。もうそろそろ戻って来てもいいはずなんだが……」
漆黒の装束に身を包み、部隊の一つの指揮を任されていたションホルにも、次第に焦りが生じていた。
土魔法で築いた土塁の迷路にヒュンナグ軍を押し込め、そこから脱出された後も、まともにやり合わずにひたすら時間稼ぎに徹する。ここまでは思惑通り事が運んでいる。
しかし、もうすでに戦闘開始から相当な時間が経過しているが、いまだズーン本隊が戻って来る様子がない。
ヒュンナグ軍には、ズーン本隊を足止めできるような別動隊を
(何か罠でも仕掛けられたのか? いや、それにしても、本隊にそれほど大きな打撃を与えるようなことは、できるとは思えないんだが……)
段々と不安が膨らんでゆく。時間稼ぎの神経戦を仕掛けられているヒュンナグ軍も辛いだろうが、仕掛けているズーン軍にとっても、辛抱強さが求められる戦法だ。
特にズーンの戦士たちの中には、まともにやり合ったのではお前たちはボルドゥには勝てない、と言われたも同然のこの戦い方に、不満を
エルデニ王太子は思った以上に軍才も人望もあるようで、どうにか将兵の不満を抑えてくれていたが、それもいつまで
ズーン軍とヒュンナグ軍、双方の焦りが頂点に達しようとしていたその時、地平線の彼方に砂埃が舞い上がるのが見えた。
ゾリグの奮闘のおかげで混乱を最小限に収めることが出来たズーン本隊が、ようやくにして戻って来たのだ。
ボルドゥの決断は早かった。
ズーン本隊の兵力はヒュンナグ軍を大幅に上回っている。これを打ち破るには、留守部隊を殲滅した上で、迎撃のために周到な布陣をする――それが前提条件だった。その思惑が崩れ去った以上、この地に長居は無用だ。
ズーン王宮の西側半分を大きく包み込むように築かれた土塁群――迷路地帯を大きく南側へと迂回して、戦場からの離脱を図る。
「逃がすか! 絶対にここで討ち取ってやる!」
ションホルは麾下の部隊の先頭を切って、ボルドゥの後を追った。
彼自身の恨みだけでなく、このまま奴をヒュンナグに帰してしまったら、バローン軍を引き入れて挙兵したジムスたちが敗れてしまう可能性も否定できない。
心配し過ぎだとサラーナには笑われるかもしれないが、ボルドゥの強さは痛感させられたばかりだ。
退却していくヒュンナグ軍と、それを追うションホルの部隊。そして、「
しかし、それは下策だった。
その昔、
「
本拠地に逃げ帰ろうとしている部隊の行く手を阻もうとするのは、手痛い反撃を食らいかねないからやめておけ、という意味だ。
しかも、率いているのはボルドゥである。
功を焦ったズーン軍の部隊長は討ち取られ、
が、ションホルにとっては、ボルドゥに追いつくための格好の足止めとなってくれた。
「ボルドゥっ!!!」
「ション、ホル、だと? 何故貴様が生きている!?」
さすがのボルドゥも、驚愕の表情を浮かべる。それでも、矢を放とうとするションホルに対して彼が張り巡らせた防御結界は、完璧なものだった。――ションホルの矢がただの矢であれば、の話だが。
竜神の
「ぐわああああっ!!!」
獣の咆哮にも似た叫び声が、草原に轟き渡る。
「おいおい、嘘だろ!?」
が、恨み重なる仇に苦鳴の叫びを上げさせたションホルも、驚愕と落胆の叫びを上げることとなった。
確実に眉間を捉えたはずの矢を、ボルドゥは信じ
「おのれ……おのれションホル!!」
血に
「くそっ!」
ションホルは土魔法は得意だが、戦場での魔法の撃ち合いでボルドゥと渡り合えるような魔力も技量もない。素早く
ションホルが身を起こし、振り返った時には、ボルドゥとその軍勢の
「くそ、情けない! あとは頼みましたよ、ジムス殿下」
悔しさを
ボルドゥ率いるヒュンナグ軍とズーンの留守部隊の激突に先立って、サラーナの
「ボルドゥの軍、ズーン領内に侵入、か。ご苦労さん」
書状はゾリグが
人間の伝令の何倍もの速さで情報を伝達できる、というのは、サラーナたちの圧倒的な強みの一つである。
サラーナは
「じゃ、もう一っ飛びお願いね」
今度の書状は、バローンにいるドルジに向けたもの。バローン軍の出陣を要請する内容だ。
バローンのアーセマーン王子率いる軍を招き入れ、その後ろ盾においてジムスのヒュンナグ王即位を宣言する。それがサラーナたちの計画だった。
「これでもう、後戻りは出来ぬぞ」
厳しい、しかしどこか心配げな眼差しで自分を見つめる竜神を、ジムスは真っ直ぐに見つめ返し、ゆっくりと頷いた。
「はい。覚悟はできています」
「ふふ、心配する必要はなさそうじゃな。一人前の戦士の顔をしておるわ」
優しく微笑む竜神。まるで実の姉弟のような様子に、微笑ましいやら困惑するやら、いささか複雑なサラーナであったが、旗頭であるジムスの覚悟が決まっているのはもちろん歓迎すべきことだ。
「ズーンでの戦いで奴が討ち取られてくれればいいけど、それほど甘い相手じゃないからね。生きて還って来ることも十分にあり得ると思っておいた方がいい」
サラーナの言葉に、ジムスとツェレンが頷く。それ以外の面々は、すでにそれぞれの配置について活動している。竜神の言うとおり、事はすでに動き出しており、もはや後戻りはできない。あらためてそのことを認識し、覚悟を新たにするのだった。
ヒュンナグからの客将であるドルジを通じて、ボルドゥ動くとの情報を知らされ、アーセマーンはすぐに兵を動員した。
唯一懸念材料だったのは、彼がヒュンナグに兵を出している間の異母弟オストハーンの動向であったのだが、ボルドゥが異母妹と共に送り込んできた
かくして、ボルドゥがバローンに対して打った策は、想定しうる限りの最悪の結果となった。
ジムスの
その数は決して多いとは言えなかったが、バローンからの援軍を得てジムスが挙兵した時、ヒュンナグにはそれを阻むような戦力はほとんど残されていなかった。
フレルノムの死を知っていてなお、留守部隊に兵を
中途半端に兵を
ズーンに対して打った策がことごとく外れて空しく撤退に追い込まれ、また一方でバローンがあり得ない迅速さで介入してくるなどとは、さすがに想定できるものではない。
そんな中、ボルドゥのために尽くそうという
名はエルウェヘー。アルタントヤーに代わって、ボルドゥの寵愛を受けるようになった娘である。
彼女はボルドゥに急を告げようと、
「サラーナ! あなたボルドゥ様の恩を
憤怒の形相でサラーナに食って掛かるが、サラーナの心には一向に響かない。
「恩? あの男に? そんなもんあってたまるか。て言うか、あんたまさか、あいつに愛されてるだとか本気で思ってるの?」
その言葉に、エルウェヘーはかすかな動揺を見せた。ボルドゥが本当に自分を愛してくれているのか、全く疑問に思わなかったわけではないらしい。
「き、決まっているでしょ! あたしはあなたやアルタントヤーとは違う! ボルドゥ様はあたしのことを心から愛してくださっているのよ!」
「ああ、はいそうですか。良かったね」
どうやら話は通じなさそうだ。そう見切りをつけて、サラーナはジムスの方を窺う。
何だか憐れむような眼差しでエルウェヘーを見ていたジムスは、悲しげに首を振り、
エルウェヘーは捕らえられたが、無事にボルドゥの
ズーン軍の追撃を振り払い、ズーン領を抜けて「
そこへ追い打ちをかけるように本国での変を知らされて、ボルドゥはしばし絶句した。
「ジムスが……生きているだと!?」
ようやく絞り出すように、そう口にする。
「何が……一体何がどうなっているのだ?」
ズーン征服は成らず、そしてバローンに対する工作も不発に終わって、ヒュンナグ本国に兵を送り込んできたという。
もはや、最悪という言葉ですら言い表せないほどの事態だ。
いや――。ボルドゥにはさらなる最悪が待ち受けていた。
「今度は何だ、騒がしい」
兵の一人が息せき切ってボルドゥに駆け寄り、事態を告げる。
「オ、オクトルゴイ氏族が……、シドゥルグ殿が、叛旗を翻しました! さらに他の氏族からも呼応する者が出てきているようです!」
残された右目の視界を闇に閉ざされたような錯覚に陥り、ボルドゥは今度こそ言葉を失った。
(オヨンチメグ、
シドゥルグは心の中でそう呟いた。
他氏族に嫁いだ娘のマラルがもうけた娘。
嫁入り先はウンデス氏族の若者で、勇敢で人柄も良く、シドゥルグも一度会ってみてすっかり気に入った。
そんな孫娘の幸せは、ボルドゥのウンデス氏族殲滅により踏みにじられた。
知らせを聞いてシドゥルグは怒り狂ったが、一族のことを思えばボルドゥには逆らえない。
心の奥に押し込めてきた憎しみを、今ようやく解放する時が訪れたのだ。
ズーンでの敗北、本国での謀反とバローンの参戦、そして最大の氏族であるオクトルゴイの造反。
相次ぐ凶報により、ボルドゥが恐怖で縛り上げてきた支配の
---------------------------------------------------------------------------------
余談ですが、作中の時代、草原の民は自分たちの文字は持っていません。
いわば「万葉仮名」ですね。
通常、読み書きができるのは各氏族の長老クラスや他地域との交易に携わっている一部の人間くらいで、ジムス王子の側近として英才教育を受けたオル・ツェ姉妹や、竜神が
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます