第2話 竜神の里

 ションホルの騎竜きりゅうに相乗りして、サラーナは生まれ育った竜神の里に辿り着いた。


 天の山とも称される、真夏でもいただきに雪をかんした険峻けんしゅん峰々みねみねに囲まれた、小さな里。大地のそこかしこを縦横に走る竜脈りゅうみゃくを通じて集積する、ひときわ濃密な魔素マナに満ちたこの聖地には、太古から一頭の竜神がまい、里の人々を守護してきた。


 二人から事情を聞かされた里の長老たちは困惑の表情を浮かべたが、そんな彼らも、決して逆らうことが出来ないの一喝で、渋々ながらもサラーナを里でかくまうことに同意した。

 もちろん彼らとしても、王太子との縁を深めようと差し出した里の娘を理不尽に殺されかけたことに対するいきどおりは、確かにあったので。


「じゃから、わしはお前をあのような男のもとるのは反対だったのじゃ。人間どものことに口出しすべきではないなどと、柄にもない配慮をしてしまったことが悔やまれる」


 里からさらに谷間たにあいに分け入った先。“御座みくら”と呼ばれる聖地中の聖地にて、サラーナは、里の誰も逆らえない存在――守り神たる竜神と、およそ一年ぶりに再会した。

 竜神は、サラーナと久しぶりに会えた喜びと、彼女の身に起きたことに対する憤りで、感情が行ったり来たりしているようだった。成人男性の背丈を上回るほどの頭部を揺らし、宙に浮かんだまま長大な体をくねらせながら、竜神は何度もぼやく。そのたびに、全身を覆う瑠璃色の鱗がキラキラと光を放つ。


「いやでも、竜神様に頂いた身代わりの護符のおかげで、死なずに済んだわけだしね。ほんと、ありがとうございました。――まあできることなら、もう少し痛くない方がよかったんですけど」


 サラーナがぽろりと漏らした本音に、竜神は少々鼻白はなじろんだ様子で、


「仕方なかろう。さすがにそれほどの目にわされるとは想定しておらなんだわ。まったく、あの腐れ外道めが!!」


 段々怒りが込み上げてきたのか、竜神の体はぷるぷると震え、その琥珀こはく色の瞳が真紅に染まる。

 幼い頃から竜神に慣れ親しんできたサラーナも、さすがにこれほど怒りをあらわにした様子は見たことがない。


 サラーナに恐怖の色が現れたことに気付いたのか、竜神は少しばかり気持ちを落ち着かせ、静かな声で尋ねた。


「で、これからどうするつもりなのじゃ?」


「もちろん、あの野郎ヤローに復讐してやるつもりです!」


「そうか。まあ当然じゃろうな。……じゃが、残念ながらわしは力を貸してやれんぞ? できることならば、やつの頭に雷霆らいていを叩き込んでやりたいところじゃが。人界に過度の干渉をするのは、ことわりに背くことになるからのぅ」


 心底残念そうに、竜神はぼやいた。


「いえいえ、竜神様のお手をわずらわすつもりはありませんよ。ね?」


 そう言ってサラーナは、傍らで焚火をおこしていたションホルに目を向ける。


「ええ。復讐は俺たちの手で成し遂げるつもりです」


 石を積んで簡易かまどを組み、その上に大きな平たい石を置いて、焚火で熱しながら、ションホルは言った。彼としても、愛する幼馴染を取り上げられた上、無惨に殺されかけた恨みは深い。しかし、それはそれとして――。


「これ、わざわざ神聖な御座みくらで焼かなくてもよくないか?」


「だって焼きたての方が美味しいじゃんか。竜神様にも食べていただきたいしさ」


 悪びれる様子もなく、サラーナはころころと笑う。


 熱を伝えにくい上にそこそこ厚みもある石板を焚火の炎だけで熱するのは、本来かなり時間がかかるのだが、竜神が一睨ひとにらみしただけで、水を垂らせばたちまち沸騰するほどの温度になった。


「いや、あらためて見ると本当ホントすごいね。さすが竜神様」


「この程度で褒めるな。こそばゆいわ」


 サラーナと竜神がそんなやり取りをしている間に、ションホルは水で練ったそば粉を石板の上に薄く広げ、火が通ったところでひっくり返して、山羊乳のチーズを乗せる。すぐにとろけ始めたチーズをそば粉のピンで手早く包む。焼き上がったものを木皿に乗せて、ションホルはサラーナに手渡した。


「それじゃあいただきま~す。はい、竜神様もおひとつどうぞ」


「うむ、遠慮なく」


 そう言って竜神は、細長いひげを触手のように操り、ピンを一つまんで口に放り込む。

 竜種りゅうしゅは本来、魔素マナさえあれば一般的な生き物のような食餌しょくじは必要ないのだが、竜神は嗜好品として人間と同じものを飲み食いすることを好んでいた。


「そうだ、竜神様。食屍鬼グールから取り出した魔石ませきもありますけど、召し上がります?」


 ションホルが腰の袋から魔石を取り出す。ああ、それもいただこうか、と言って竜神は、もう一本の髭を伸ばし、魔石を絡め取った。


「ふむふむ、どちらも美味じゃの。……しかし、ボルドゥめを破滅させるだけならば、トゥマン王に叛意はんいを告発すればよいのではないか?」


 じっくりと時間をかけて味わいながら食べていた竜神が、思い出したように話を戻す。


「いえ、それが……」


 苦い表情で、サラーナとションホルは顔を見合せる。


「何しろトゥマン陛下は、ボルドゥを一度は亡き者にしようとしたこともころっと忘れて、弟を立てる態度に徹してみせる奴のことをすっかり信用してしまっている上に、ラムナルの口からも、ボルドゥを称賛する言葉を吹き込まれているもんですから……」


「ラムナルじゃと? そやつはボルドゥを追い落として我が子を王位にけようと目論んでいる張本人ではないのか?」


「そうなんですけどね。ボルドゥと密通して、すっかり篭絡ろうらくされちゃってるんですよ、あの淫売」


「はぁ!? 義理の息子とか!? ……呆れて物も言えんわ」


「まあ、ラムナル妃もまだ三十前、ボルドゥとは五つほどしか離れていませんからね」


 陛下ももういいお歳ですし、という言葉はかろうじて飲み込んだションホル。一方、サラーナは憤慨収まらぬ様子で、


「にしても、あんな女を物としか思ってないような冷酷野郎のどこがいいんだか、あたしにはさっぱりわかりませんけど。あ、でもあいつ、ああ見えて女をたらし込もうって時には、甘い言葉の一つもささやいたりするらしいんだよね」


 まったく想像できないや、と首を振ったサラーナだったが、ションホルが複雑な表情を浮かべていることに気付き、慌ててびた。


「ご、ごめん。こんな話あんまり聞きたくないよね」


「ああ、進んで聞きたい話じゃあないけどな」


 苦いものを噛みしめるようにそう言った後、ションホルは小声でぼそりと呟いた。


「でもまあ、良かったと言われるよりかはまだマシかもな」


 それを耳にしたサラーナは、さすがに顔を真っ赤にして、


「ば、馬鹿!」


 幼馴染の恋人を怒鳴りつけた後、こちらも小声で呟いた。


「良いわけないに決まってるでしょ、本当ホント馬鹿」


 二人の甘くて苦くて酸っぱいやり取りを、無の表情で聞いていた竜神が、今一度話を戻した。


「そのような状況じゃと、ボルドゥへの復讐も容易ではないの」


「そうですね……。上手い具合に、謀反を起こさせた上で寸前で阻止、みたいな展開に持っていければ、さすがの陛下も奴の首をねてくださるんでしょうけど、中々難しいだろうなぁ」


 ため息をくサラーナ。竜神は少し真剣な眼差しになって、二人に言った。


「じゃが、そうなるとションホルは選択せねばならぬの。ボルドゥにこのまま仕え続けるか、奴のもとを離れるか。奴の側におる方が、復讐の機会もうかがいやすかろうし、すでに奴の目的に薄々気付いているであろう配下を、そう簡単に離れさせてもくれぬじゃろう。じゃが、このままではお前、王殺しに加担させられることになるぞ」


 言われるまでもなく、ションホルもそのことは承知していたし、先ほどから頭を悩ませているところだった。


「草原のおきては単純明快。強くて賢明な者でなければ、王たる資格無し。ふさわしくない王を討って新たな王が立つことも珍しくはないけれど……」


 若い後妻にねだられるままに、幼い息子を後継者に立てるため王太子を謀殺しようとし、その王太子が危地を脱して帰還すれば、一転してこれを重用するという節操のなさに対し、ヒュンナグを構成する氏族たちの間からも、トゥマン王の器量を疑問視する声が上がっている、というのが現在の状況だ。

 知勇兼備との誉れも高いボルドゥが父王を討ったとしても、非難よりも歓迎の声の方が大きいだろうと思われる。しかし――。


「そいつが新たな王にふさわしいと思っていないにもかかわらず、今の王を討つ、というのはただの不忠でしかない――」


 ションホルの心情的には、到底許容しがたいことだった。


「けど……。奴の側にいれば、いずれ機会も巡ってくるだろう。自分の命よりも大切な人にすら矢を向けたんだ。今さら、躊躇うことなんて何もないさ」


 若干の自嘲も込めて、ションホルはそううそぶいた。

 そんなションホルに、サラーナは気遣きづかわしげな面持ちで声を掛ける。


「ションホル、くれぐれも早まったことはするんじゃないよ」


「早まったことって何だよ」


「そりゃあ、ボルドゥと刺し違えてやろう、だとかさ」


 押し黙るションホル。サラーナは一つため息をき、


「馬鹿なことをしでかしたら、里の皆にも迷惑が及ぶことにもなりかねないからさ。くれぐれも行動は慎重にね」


「わかってるよ」


 自分自身をなだめるように、ションホルはうなずいた。


「では、方針を整理しようかの。ボルドゥの謀反は、阻止可能ならば阻止するが、無理はしない」


「そうですね。奴が謀反を成功させて王になっちゃったら、ますます手が出しにくくなるけど、かといって焦ってみてもろくなことにはなりゃしない。まあそもそも、揉め事の種をいたのは陛下なんだし、こっちの命を懸けてまで救って差し上げる義理も無いよね」


 忠義という徳目を重んじる中原ちゅうげんの者たちが聞けば目をきそうな台詞せりふを、涼しい顔で言い放つサラーナ。しかし、ふっと表情を曇らせて、


「陛下やラムナル妃が討たれるのはまあ仕方ないとして、ジムス王子まで殺されちゃったら、ちょっと気の毒だね」


 ジムス王子――。ラムナルが生んだ王子であり、トゥマンがこの子を後継者にしようと考えたことが、そもそもの発端。ボルドゥにとってみれば、ある意味トゥマン王以上に生かしておくわけにはいかない存在である。

 歳はまだ十一歳ながら、あの両親から生まれてきたとは思えないほど聡明で、性根も真っ直ぐな少年だ。


「とはいえ、無理は禁物。助けることが出来なくても、気にむのはそう」


 異母兄ボルドゥの側室だったサラーナのことも、「ねえさま」と呼んで慕っていた少年を、死なせたくないというのが彼女の本音だ。しかし、自分たちにできることは限られている。


「まあ、ボルドゥの手勢もそれほど余裕があるわけじゃからな。まずは陛下を確実に仕留めることに全力を注ぐはず。返す刀でラムナル妃やジムス王子を討とうとした時、何とか出し抜くことができれば……ってとこかな。助けて味方になっていただけば、こちらの切り札にもできるだろうし」


 ションホルの言葉が慰めに過ぎないことはわかっていたが、彼の気遣いが嬉しくて、サラーナは微笑んでみせた。

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