第五の夕
結局、オキシオとの会談は相手の都合によりずれ込み、今日になった。
「昨日は行方不明者、誰もおらんかったんか」
予定を報告した馬場に、範介は聞く。
「はい。幸いなことに」
「そらよかった。昨日、オレの周りにも何も起こらんかった。やっぱ、オレが天照大御神に嫌われるなんてことはあり得へんってことやな」
「……まあ、そうですね」
「なんや、そこはっきり言わんかい」
「そうですね」
「おう」
範介は今日は機嫌がよかった。この時点では。
タクシーに乗って、範介と営業部長・龍造寺は福知山の市街地の方に出た和風料亭へやって来た。
店の前に、ニヤニヤしている新社長の隂山と営業部長の岸梅が立っている。
――自分らの都合で契約切った挙句、一日ずらしてこの顔か。
「おや、やっと来られましたか」
岸梅の気持ち悪い高い声。
「遅刻はしていないはずなんですが……」
「いやぁ、私どもが早く来すぎましてね。もう三十分以上も待ったんですよ」
――ウソつけ!
思わず怒鳴りたくなったが、主力の契約先の一つ。
範介は歯を食いしばった。
「じゃあ、早速食べましょうか?」
大阪なまりの関西弁で、新社長の隂山が初めて口を開いた。
注文を終え、二対二で向かい合う。
「なぜ、うちと契約を切ろうというんですか?」
龍造寺がこの日初めて口を開き、先陣を切る。
「いやぁ、とても魅力的な運送会社を見つけまして。今は我々は京都を基盤としていますが、やがて近畿全域、そして全国、さらには世界へと羽ばたいてゆくことを目標としておりますので、まずは近畿を基盤とするその運送会社にスイッチしようかと思いまして。新興企業なのですが、進化が目覚ましいのです」
「……そのお宅の夢のためにうちは切られると。しかし、うちは近畿圏で多くの仕事を受け持っています」
「……桂さん。足利義昭の話は知ってますか?」
隂山が言った。
「足利……歴史ですか。いやぁ、私、理系なもんで歴史には疎いのですよ」
嘘をついた。実際は経済学を専攻していた。
「そうですか。ではお話いたしましょう。室町幕府の十五代将軍、足利義昭はなかなか将軍の地位に就くことができませんでした。これまでは、福井の一乗谷を本拠とする名門大名、朝倉氏に身を寄せていましたが、朝倉はいくらたっても動こうとはしませんでした。そこで、義昭は大量の書状を書き、その結果、桶狭間の戦いで勝利し、岐阜県も手に入れ、飛ぶ鳥を落とす勢いだった織田信長を頼ったのです。結果、勢いがあるものを頼った義昭は見事将軍となったのです」
「……それとこれとがどう関係あるのでしょう」
「この状況、今に似ていると思いませんか? お宅は朝倉、うちは義昭、そして、通運洲本が信長……いやぁ、ピッタリですね。その通りに行けば、我々は一気に近畿を手中に収め、やがて全国へ……となるわけですね」
グフフフフフフ、と隂山は俯き、満面の笑みで笑っている。
「……だからとは言い、昔からの付き合いです。ここはどうか……」
「龍造寺さん、そんな昔からの付き合いとかないんですよ。前社長があまりにも優しすぎたので契約を結んでいましたが、その前社長が没した今、時は満ちたのです。時代の荒波を乗り越えるにはそんな青臭いことは、ねぇ?」
この岸梅の高笑いを見て、必死に歯を食いしばっていた範介にも限界が来た。
「お前ら!! 人の縁ということを舐めてとんのか! 社長が死んだ瞬間、社長の親戚がイキりやがって、こんな人間のゴミみたいなやつは許せん!」
周りの客がコチラを一斉に見るが、そんなことはお構いなしだ。
「人は多様なつながりを持って生きていく生き物や。そんな時代の荒波がどうのこうの言ってつながりを切ろうという男とは契約は結べん!」
「経営ってのはな、そんな甘ったるいことじゃ生きてけへんねやボケ!」
隂山も立ち上がった。
「社が生き残るためにはこれしかないんや! 元雄氏から引き継ぎ、そこから一気に利益下降線のボンボンには言われたくねぇ!」
「あぁ? 誰がボンボンじゃ!」
「当然のことやろうが。つながりがどうのこうの言って社員の誰にも好かれてねぇやつめ! 決裂や、これは。契約破棄や。行くぞ、岸梅。料金はお前らが払っとけ!」
店内がざわめく中、隂山が席を立ち、ドカドカと店内を出ていく。それを見て、慌てて岸梅もついて行った。
「しゃ、社長……」
龍造寺が慌てふためいてコチラを見るが、それを見返す余力は、乗り越えるにはもう残っていない。
チリンチリン♪
家に向かって、範介は自転車を漕ぎ出す。
今日はさんざんな日だった。これで社の利益は一気に下降することだろう。急いで新しい契約先を見つけなければならない。
だが、そんなときでも趣味のサイクリングというのは良いものだ。
生暖かい風が頬をかすめていく。
「……ケルナ」
「ん?」
と、首筋に冷たい風がスッと入った。
「フザケルナ……」
「は?」
「オマエノコト、ダレガスキダトオモッテイル……」
瀬良の声。
「瀬良! おるんか!」
「……ボンボンノクセニ、ボロシャチョウノクセニ……」
「佐古か?」
「……モウカツラウンソウハ、オワリ……」
「ダメムスコヨ、ムクイノトキ……」
「置塩さん? おかん?」
ふと後ろを振り返る。
と、自分の影に六つの影が連なって付いてきていた。
「なんや……」
体中の穴という穴から冷や汗が噴き出てくる。
低く、響く声はさらに続く。
「ボンボンガチョウシノッテ……」
「ダレモ、アンタガスキナヤツハ、イナカッタ……」
「モトオノムスコトハ、トテモオモエン……」
「や、止めろ! もう止めてくれ!!」
つまり、横暴で、偉い人の親戚で、怒りっぽく、身勝手な人物を呪うことにしたのです――。
幸田の言葉が脳裏をかすめる。
「止めろ! オレが悪かった、全てオレがダメだったんだ、許してくれ、もう……」
必死に自転車を漕ぐ。だが、漕いでも漕いでも影は付いてくる。
そして、夕日が傾くのに連なるように、影はだんだん範介の身体を飲み込もうと迫る。
「アナタノジマンバナシハ、アキレルコトバカリ……」
「おい、望美? 望美か、おい!」
妻までがこんなことを言うか。
「リコンシタカッタ……」
「止めてくれ! 望美!」
と、喉の奥を突き刺すような痛みが走る。その瞬間、範介は自転車から投げ出された。
「クッ……」
痛みは一気に体中を這いずり回る。
「止めろ、止め……」
「パパ、イツモウルサカッタ」
意識が遠ざかってゆく。
「キスケ……き、キスケ……」
影は完全に範介の真下にある。
口の中に鉄の味が染みわたった。
「ア、アァァァァァァァァ……ッ!」
天岩戸神社の近くにあるこの道でも、日は完全に沈み、やがて冷たい夜の闇が空を覆った。
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