第57話 モンツァ(2)

 今年のコース図を思い浮かべる。


 1周は4310m。今年のグランエプルーヴではモンテカルロ市街地コースの次に短い。


 今年のモンツァを全体として見れば、釣り針の形だ。

 ただし糸を繋ぐ側は細く、「針先」は尖っていない。幅広だ。

 今年もホームストレートのピットに近い側から北へ向かってスタートすることは同じ。

 しかし、高速周回路北カーブには入らず分離帯北端に設けられた切れ目を左旋回して観客席側ホームストレートに入る。

 つまり180度の左(西向き)旋回を幅16mのホームストレート終端部で行う。他の箇所と同じくコース幅の中央で曲率半径を計るなら半径4mの180度旋回と言うことになる。

 釣り針で言えば糸を結ぶ箇所にあたる、この180度旋回を終えてから観客席側ホームストレートを南下する。

 高速周回路南カーブを例年とは逆に反時計回りするが、その外周は観客立ち入り禁止で生け垣がある。

 内周には土嚢が積まれ、立見席がまばらに存在している。

 シケインの存在を無視してみれば、南カーブを180度回って高速周回路の東直線を300m北上する。

 そこで左折して「フロリオの連絡路」を西へ進み、再度左折してロードコースのバックストレッチに入る。

 このあたりが、釣り針で言えば針先に相当する。「幅広の針先」だが。

 その後は「クルベッタ」を回り、ピット側ホームストレッチに戻りコントロールラインをに到達すれば1周が終わる。

 

 実際にはシケインが3つある。

「今年の開催要項に添付の図によれば」南カーブを45度回り込んだ位置の内周から第1シケインが始まる。

 これは高速周回路内側の平地の上に、クランク状走路2つと短い直線の組み合わせで構成されている。

 幅8mに渡って土嚢列の切れ目があり、幅8mの第1シケイン入口クランクに入る。

 コース幅の中央で計るなら半径4mの左直角旋回。その直後に右直角旋回。これも同様に幅中央での半径は4m。

 そして、これも新設の短い直線の終わりで第1シケイン出口クランクに入る。

 半径4mで右直角旋回、その直後に同じく半径4mの左直角旋回を経ると周回路南カーブを90度回り込んだ位置に出る。

 と、コース図にはある。


 高速周回路南カーブの残り90度の旋回を終えたところに第2シケイン。

 左直角半径4m、右180度半径4m、左直角半径4m。

 実際には誰もがコース幅いっぱいに用いて回るだろうから半径はもう少し大きくなるが、アウトウニオン「A」が2速を使う珍しい光景を見れるかもしれない。

 94RCの1速は「一応は」このシケインとホームストレート北端ヘアピンに合わせてある。

 ただし予備の変速機には別のスプロケットを組んでいるが。


 そしてロードコースの最終コーナー「クルベッタ」に第3シケインが設置されている。

「クルベッタ」を90度回ったところの8m前からその内周側平地に突き出す体裁で、第2シケインを左右逆にしたように90度右、180度左、90度右。

 と、コース図にはある。

「コース図が正しいなら」第3シケインも1速で回る。


「クルベッタ」の要注意点としてはその外周に観客席があり、もちろんその観客席を守るフェンスがあることだ。

 ホームストレートに面した大観客席を防護している(とコース図には書いてある)鉄筋コンクリートのフェンスではない。

 立ち並べた鋼鉄の柱を横材で結んだフェンスであり、ここで事故を起こせば機体はフェンスに切断されて観客席手前に落ちるか、半端なところまで切り込まれてフェンスに刺さった残骸になることだろう。

 大観客席を守る鉄筋コンクリート壁のフェンスに当たる場合には、当たり方次第では広い範囲で浅く潰れるだけで済む可能性がある。

 だが「クルベッタ」のフェンスではそれは望めない。コース図どおりならばの話。なにしろコース図を描いたのはイタリア人だ。


 開催要項の添付コース図には短い注記があった。


「このレイアウトは1934年限り。来年は観客席の防護フェンス工事あるいは立ち入り禁止フェンス工事の進捗に合わせて別レイアウトを用いる」


 来年までに合計10kmのコースのどこまで工事する予定かは書かれていない。

 イタリア人の仕事であるから「それまでに工事が済んだところだけ使う」のだろう。

 ただし、ツクバRTが来年のモンツァを走れるかどうかはまだ決まっていない。


 決勝日の成績とそれによるツクバの知名度向上が本社経営陣の認める水準となれば。

「同額を普通に新聞雑誌広告に出すよりも良い看板」と認められれば「ツクバRTの来年」が得られる。

 経営陣からは判定基準も示されているが、細かな数字を今は思い出さないことにした。


 望ましい成績を得られなかった場合の対応案は今のところ2つある。


 スペイングランプリへの参戦を見送って参加する、チェコグランプリで好成績を挙げる事。

 これが経営陣の判定に合格すれば「来年」を得る。


 合格しなかった場合。

 その場合には能村は辞表を出し、マセラティ社の真似をする。

 市販レーシングカーと言う、技術の精華ではあるが簡素な--走るために必要な機能以外、何もない--車両を製作販売する工房を作り、その収益でグランプリレースを走る。


 先日のドイツグランプリ以降に調べたところによればマセラティ社とはマセラティ兄弟が設立した零細企業で、社員数は社長のマセラティ兄、技師長のマセラティ弟を含めて20人そこら。

 能村に「経営」など出来るかどうか全く分からないが、「ドイツ勢やフェラーリ並みに速く走れるグランプリカー」を作る自信はある。

 限られた人数と設備で2機作る工数は見積もり済、なおかつ経験済みだ。


 いますでに94RCは2機ある。

 実際にフランスグランプリ、ドイツグランプリで走らせた1号機と、予備部品のひと揃えと言うべき2号機が。

 現体制でも「2機中の1機を売りに出す」ことは本社の許可を得れば出来る。

 

「グランプリフォーミュラカーと耐久レース用の高性能乗用車に共通シャシーを用いて、さらに顧客要望次第では豪華内装の乗用車にもなる」マシンを製作販売しているブガッティの真似は出来ないし、しない。

 今年のブガッティを目にして能村は判定している。

「フォーミュラカーと耐久レースマシンのシャシー共通化」は現行フォーミュラでは成立しないと。


 そして「1年落ちのフォーミュラカーの動力系を耐久レース用のシャシーに載せたマシンを売る。顧客の要望次第では乗用車としての豪華内装を設ける」と言うアルファロメオの真似も出来ないし、試みるつもりもない。


 そもそも乗用車の内装外装設計など何から着手するものか、能村は知らない。


 アルファロメオにせよブガッティにせよ、高級乗用車も生産販売している。

 恐らくはブガッティT59のうちただ1台の乗用車、ベルギー国王の「公務には使わない愛車」はブガッティが乗用車部門と共同で製作したものだろう。

 イタリアの政権幹部の何人かが乗っている「豪華な内張り付きの屋根を備えた、超高性能の二人乗り乗用車」も同様のはず。

 その程度しか判らない。


 ここで能村はかすかに首を傾げた。

 建前としては耐久レースは全て、乗用車によるレースだ。

 規定の台数が実際に市販されている量産乗用車部門と、1台だけ公道走行認可を得ていればよい「試作乗用車」部門がある。

 どちらにせよ能村は作るつもりもなく、作れるとも思っていない。

 日中にレース場を走る以外の機能と装備が全くないフォーミュラカーで能村の能力は限界だ。

 耐久レースの競技会に、たとえばルマン24時間レースに参戦して「看板を見せびらかす」ことはいつか、他の会社が行うだろう。

 小型車専業の東京自動車乗用車部門がそれを行うとは思えない。

 最初にルマン24時間レースでセンターポールに日章旗を掲げるのは……保護自動車のシャシーや動力系を転用した大型自動車も作り始めた瓦斯電の本所工場か?

 自動車工業後のいすゞ自動車か?

 それとも三菱水島後の三菱自動車か?

 自動車業界への参入を先日に発表し、キャディラックやロールスロイスに対抗する大型乗用車を作ると言っている豊田織機か?

 まさかオート3輪専業の東洋工業後にマツダや、小型乗用車専業のダットサン後に日産自動車と言うことはあるまい。


「試作乗用車」が出走できない、量産乗用車しか出走できない国際ラリー競技会となればさらに厳しい。


「揃えるべき数」が大きくなるほど日本帝国は不利になる。


 別のスポーツでも似たものだ。

 たとえば、テニス。

 大正の御代から五輪でメダルを争いウインブルドンでベスト8に進んだ日本人テニス選手は存在している。

 この春に慣れぬ海外生活に苦しんでか自ら命を絶った佐藤次郎は世界ランキング3位にまで登った。

 しかし、多数の大学生や社会人選手を各国から出して「勝ち星合計を争う大会」など行えば故佐藤とダブルスを組んでウインブルドン決勝に出た布井、今年にイギリス人女性選手と混合ダブルスを組んでウインブルドンに優勝した三木がいかに奮戦してもチーム成績は下位に沈むだろう。

 水泳でも陸上競技でも同じく。

 量産乗用車による競技会になぞらえるなら「平均的な競技者を100人揃えて合計タイムを競う」大会が相応しい。

 もしそんなものが開催されれば、テニス、水泳、陸上競技に五輪メダリストを複数抱えているにも関わらず日本帝国は惨敗するだろう。


 野球もたぶん同様だ。

 今年11月、アメリカ大リーグから選抜チームを招き日本の選抜チームが試合をすると言う。

 注目の学生投手、沢村栄治が評判どおりの好投手であれば沢村の投げる試合は勝負の体裁がつくだろう。

 しかしたとえば日米の学生野球部複数が合同リーグ戦を行えば上位半分をアメリカの学生野球部が圧倒的な勝率で占めることは試すまでもない。


 能村が作っているものも同じく。

 94RCは故佐藤や布井、三木や沢村、前畑女史らに相当するものでしかない。

 故佐藤や市井、三木が日本のテニス界の平均水準を示さないように、前畑女史や宮崎、北村が日本水泳界の平均水準を示さないように。

 南部や西田、大島が日本人の平均的な走力を示さないように。

 94RCの出来と日本の自動車工業の水準とは関係がない。


 しかし耐久レースの量産車部門やラリー競技は自動車工業の水準どおりのクルマしか出走できない。

 日本車がそれらに、たとえばモンテカルロラリーやサンレモラリーに勝利するのは、耐久レースで「試作乗用車」が勝つよりもさらに後のことだろう。

 果たして自分が生きているうちにそんなニュースを見れるものか、どうか?


 だがそんな先の話を今考えても意味はない。

 最上はこのイタリアグランプリで好成績を挙げ本社経営陣の合格点と来期予算を得る事。

 次善はチェコグランプリ、以下同文。


 どちらも駄目なら、なんとかして別の初期出資者を探して工房を開く。そして今年と異なり、予備車を売る。

 マセラティがそうしているように。


 そこで「来年」への考えを断ち切りたかったが、区切りとしてひとつ考えることにした。

 今年からグランエプルーブのスターティンググリッドの決め方が変わり始めた。

 昨年まで「モナコのみ」だったタイム順のスターティンググリッドがベルギーでも取り入れられ、グランエプルーヴからは外れたがスイスグランプリでも採用された。

 今のところグランエプルーヴに限らず国際レースでもグリッドの決め方はポールポジションの扱いも含めて国どころか個々のレース主催者ごとに違う。

 だが、長い年月を費やして何らかの方式へと統一されるだろう。


                  *


 能村はこのとき、わずか3年後にはベルギーグランプリ以外の全てのグランエプルーヴがタイム順グリッドになり、ベルギーグランプリは1934年の悲惨な観客動員に懲りて5年後までリバースグリッドに固執することは想像もしなかった。

 そして次の世紀になるまで。グランエプルーヴが「F-1世界選手権」と改名してからもずっと建前上は「練習走行のタイム順グリッド」が世紀の変わり目まで続くことも。

 いつの間にか「公式練習」と書いて「予選」と呼ぶ慣習が生じることも。

 能村は「4輪のグランプリレース」に公式に「予選」が導入される日を目にせずに生涯を終える。


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 この年のモンツァはこの年かぎりの特異なレイアウトを用いました。シケインの形状や数については諸説あります。

追記:下にこの年のモンツァのコースレイアウト図を示します。

https://cdn-static.kakuyomu.jp/image/5CGXsfJa

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