第58話 回想 モンツァ。1934、1967
若者は「能村メモ」を読みながらいくつか疑問点を見つけた。
「嵯峨野さん、よろしいでしょうか」
「この年寄りが答えられることなら」
老人は応じた。
「まず。モンツァのロードコースの最終コーナーが『半径160mで180度回る』ものだったと言うのは、今の最終コーナー『パラボリカ』と合いません」
「今はバックストレッチから半径80mくらいで右旋回開始、半径200mくらいまで放物線状に緩くなってホームストレートに出ますな」
老人はすらすらと答えた。
「はい。バックストレッチとホームストレートは並行で、290m離れています」
「あのころはバックストレッチ自体が今とは違う位置にあったんですよ。今のバックストレッチの雛段型観客席の裏手に、南北に伸びる敷地内連絡路があるでしょう」
「はい」
若者はいぶかしんだ。
「あの連絡路の位置に、私らのころのバックストレッチが通っていたんです。あのころはバックストレッチ観客席は今と同じ位置の立見席で、出店その他は今のバックストレッチのあたりに並んでました」
「……すると、今のバックストレッチとは位置そのものが30mくらい違う?ホームストレートと並行して320mほど離れていたと言うことでしょうか」
初耳だった。
「ええ。ついでに言いますと、今の最終コーナー『パラボリカ』は当時の最終コーナー『クルベッタ』よりも100mくらい南にあります」
「……全く知りませんでした」
「でしょうな。バックストレッチの位置、最終コーナーの位置。この2点を抑えていない『戦間期のモンツァのコース図』と言うものは実に多い。特に雑誌記事に」
老人は静かに嘆いた。
若き自動車ジャーナリストの心に、同業者の仕事の雑さが突き刺さる。
「歴史書を書くときには資料批判の参考にします」
「お役に立てればありがたいことですな。出来れば、私が生きているうちに読ませてほしいものです」
「なんとかします。ところで、モンツァの今は使われていないオーバルコース。北は『能村メモ』の通りに半径320mですが、南は310mでは?直線の長さも1200mではなくおよそ1000m。傾斜も21度ではなく、もっと深い。コース幅もずっと広い」
若者は、今は使われていないモンツァのオーバルコースを見上げたことがある。
「今あるモンツァのオーバルコースは、戦後に再建したものですよ。大戦中、イタリア空軍はモンツァを戦闘機隊の飛行場として使いました。米英軍が『敵の飛行場』に対してどれほど徹底的に空爆するかは、貴方もご存じでしょう」
老人が応じ、若者はラップトップを操作して空撮画像を探した。
「……もしかして、戦間期のコース跡が航空写真で見当たらないのは……レズモの半径も、パドック敷地も違うのは爆撃で全て破壊されたからでしょうか」
若者はラップトップの画面を老人に向けた。
「イタリア人が道路の移築後に、移築前の道路を森や草地に戻すなんて丁寧な仕事をするわけがありません。イギリスやアメリカの爆撃隊の『丁寧な仕事』の結果でしょうな」
偏見も露わに老人は応じた。
「……すると。モンツァは現在使われているサーキットとしてはインディアナポリスの次に古いと言うのは『場所だけ』なのでしょうか?」
「私は戦後のモンツァには1回しか行ったことありませんが、たぶんそうでしょうな。当時の風景で見覚えがあるのは……私が覚えている範囲ではフロリオ連絡路のところから東へ敷地を出たところにある、アイスクリーム屋だけです」
老人は懐かしそうに応じた。
「ああ、そうそう。私が戦後に行ったとき……ホンダさんのF-1がサーティスの操縦でブラバムに勝ったときです。今の『パラボリカ』は『クルベッタ』と呼ばれてました。いつ頃から『パラボリカ』と呼ぶようになったのかは知りません」
老人が付け加えた言葉に、若者は調べることが増えたと知った。
軽い頭痛を無視し、若者はレースジャーナリストとして、あるいはレースファンとして「その日」について聞くことにした。
予定外の、戦間期グランエプルーヴではなく戦後のF-1世界選手権の1レースについて。
「サーティスがモンツァで勝った、ホンダF-1の2勝目。現地観戦して印象はどうでしたか?」
「貴方が生まれるより前ですな。しかし、覚えてますよ。練習走行が始まった途端に『ホンダV12エンジンは根本から間違った設計をしとる』と隣で柿崎技師が評したのも覚えてます。決勝レースで私にも良く判りました」
老人は笑い、若者は無言で頷いて続きを待った。
「先ほども言いましたが、最近のフェラーリと同じでしたね。各コーナーの立ち上がり加速でブラバムに引き離されては、コントロールラインを過ぎて大カーブ手前で辛うじて追い付く。その繰り返しでした」
老人が語るのと似た光景は、ここ数年のF-1中継であるいは現地取材で若者も何度も見たものに近い。
フェラーリはウィリアムズやベネトン、マクラーレンやロータスにコーナー立ち上がりで引き離されてはストレート終わりでなんとか追いつく。
「しかもホンダさんの若手は『ブラバムは300馬力を号しているが、実際には
老人の評は実に容赦がない。
「柿崎技師の意見はどうだったのでしょう?ブラバムが載せていたエンジンの実際のパワーについて何か見解はあったでしょうか?」
若者は聞いてみた。
「ええと……これです」
老人は手文庫からメモを取り出した。
「ブラバムが載せていたレプコV8エンジンのシリンダーブロックはGMが開発販売し、故障続発ですぐに生産終了した超軽量のオールズモビルV8。これにレプコ社のシリンダーヘッドを組み付けたもの」
若者は読み上げた。そこまでは知っているとおりの内容である。
「市販乗用車に使う場合でさえ強度不足のオールズモビルV8のシリンダーブロックが耐えうる出力は甘く見ても、ブラバムが言うとおり300馬力」
これは初見で、そして初耳だった。
「しかしコーナーからの立ち上がり時に使う回転数で発揮するパワーは、明らかにホンダやフェラーリよりもブラバムのレプコV8が勝る。あれこそレースに勝つためのエンジンである」
そして、付記があった。
「レプコV8が現行の無過給3000ccレギュレーションに最適とは思われない。ロータスが載せているフォード・コスワースV8の改良が進めば最適最良のエンジンとなろう。BRMのH16は論外として、フェラーリ以外のV12勢はピークパワーを下げての軽量化と低速性能の向上を要する。ホンダV12は根本から再設計を要する」
若者は目をしばたいた。
その年1967年にはフォード・コスワースDFVは出現したばかり。その後、ほとんどのF-1チームがDFVを載せることを見越したような記述だ。
「フェラーリV12については記述がありませんが……」
「それは、私が見ても判ったからです。『単に高回転まで回るだけで全域で非力。V12にした意味がない』と」
老人は実に手厳しく評した。
「が、それでもここ数年のフェラーリよりはマシですな。当時、レース成績を見るとフェラーリは改良方針が明快でした。さて、昔話に戻りますか?」
老人に逆に問われ、若者は少し思案した。
「昔話を……1967年のモンツァの話をお願いします」
若者の言葉に老人は頷いた。
「実に短く言えますな。サーティスは『コントロールラインを過ぎてからブラバムに追いつき追い越すのが限界』だと見せていた。そして最終ラップ、今でいうパラボリカをブラバムの後ろに付けて入り、旋回中のシフトアップを遅らせて追い抜いた。たぶん4速のままゴールまで走った」
老人は笑い、付け加えた。
「高回転でのパワーしか取り柄のないホンダV12でどうやって勝つか。サーティスには決勝前から作戦があったんでしょう。最終ラップ最終コーナーまでついて行って、エンジンをオーバーレブさせ完全破壊までの数秒に発生するパワーに賭けると」
「サーティス個人で考えたものでしょうか?」
「さて?ただ言えることがあります。練習走行最終日のホンダさんの若手技師のコメントがその作戦にブラバムを吊り込むためのものだったなら。第1期ホンダF-1の『チーム性能』は、一時的にブラバムを超えていたことになります」
応じて、老人は目を閉じた。
オーバーレブし、エンジンが自らを破壊しながら出ないはずのパワーを発揮したホンダがブラバムを追い抜く光景があるいはその音が記憶に蘇っているのかもしれない。
だとすれば、再び紙の資料に基づく聞き取りに戻るべきだ。
人間の記憶は、たやすく自身にも嘘をつく。
たとえば老人の今の言葉。
その日その時、その周にブラバムがオイル処理跡を踏んで遅れた事実や、最終ラップまで首位争いしていたロータス・フォードDFVのクラークの存在が欠落している。
言及を省いたにしてもいささか不自然だ。
ただ、いつか確かめる方法はある。
クラークもホンダ第1期の上位スタッフの多くもすでに死去しているが、当時の監督も、そしてサーティスもブラバムも、さらに「ホンダの若手技師」たちも健在だ。
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