第6話 ゼロ回検討
なぜ旋回操作の開始時にエンジン騒音が高まったのかは、ブラウフィッチュ選手の旋回操作開始を観察して判った。
……だが、何故だ?
レーシングカーも自動車だ。舵輪は前輪に繋がっている。だから船や飛行機の旋回開始と違って、旋回開始時に機体の後ろ側を外に蹴りだす操作など要らないはずだ。
が、ブラウフィッチュ選手のエンジン音、そして巨大なメルセデスベンツSSKLの挙動は後輪を横滑りさせて外へ蹴り出す操作を聞かせ、見せている。
それも、南ループに入る直前、まだ直線走行できるはずの南ループ観客席の正面で。
視線を南ループを通過中のディーボ選手、ドレフュス選手に向け、南ループそのものを今日初めて真面目に観察して、答えの一部が判った。
南ループは飛行場の誘導路や、日本のたいていの自動車道路のような「コンパスと定規だけを使って」作られたような単純な形状はしていない。
飛行機の場合は誘導路の角を曲がる時には一旦停止するか、人が歩くのと変わらない速力で慎重に回る。
よって、誘導路の形状は定規で引いたような直線とコンパスで描いた円弧と言う単純な形状で構わない。
だが実際のところ一時停止せずに直進から旋回に移行するならば、直線と円弧の組み合わせでは走ることができない。
これは人間であろうと競走馬であろうとそしてレーシングカーであろうと同じ物理法則に従う。
自転車やオートバイの旋回が連想の中に閃き、理解が進んだ。
「直線から直接、ある半径の円弧に移る」とは直進状態から旋回状態に瞬時に移行するということを示している。
自転車やオートバイならば「所要時間ゼロで傾斜状態に移行する」ことを示す。
もちろんそんなことはできない。
自転車やオートバイは直進状態では直立し、旋回状態では速力と旋回半径に対応した角度に傾斜する。
この状態変化には時間をいくらかなりと要する。旋回開始時の船が船尾を外へ蹴り出す時間ほどではないが、しかし軽快な自転車やオートバイでもいくらかの時間を要する。
旋回の軌跡は直線から唐突にある一定半径の円弧に移るのではなく、放物線を逆になぞって行くようにしてある半径へ向かって描かれる。
船や飛行機の旋回開始では、船尾や機尾を蹴り出す動きも加わる。
そして、アフスの南ループはまさに放物線を逆になぞった形状で始まる。そのように作られている。
「旋回操作には時間が掛かり、現実の旋回開始は放物線を逆になぞった形になる」ことをこのコースの設計者は知っているのだ。
もっとも。日本帝国の道路技術者が皆、それを知らないわけではない。
日光東照宮に乗合自動車に乗って行ったときのことを思い出した。
自動車でも登れる緩やかな坂道をあの斜面に実現するために、途中で数えるのを止めた回数のカーブを描いて伸びる「いろは坂」の個々のカーブは放物線を逆になぞった形状で始まっていた。
アフスの南ループは下り車線から向かって右へと旋回を行う、放物線を逆になぞった形状の緩やかな右カーブから始まり、まさに放物線のように曲率半径が収縮してゆく。
そして立見席に取り巻かれた楕円形の左カーブへと繋がる。今まさにディーボ選手、ドレフュス選手が通過している左カーブへと。
この左カーブを終えると放物線そのものの形状をした右カーブで曲率半径を増しながら、滑らかに登り車線に繋がってアフスの南ループは終わる。
だが、アフスのコース設計者が想定した速力を超えるのであろう速力で南ループを通過しようとしているブラウフィッチュ選手、今まさに通過中のディーボ選手、ドレフュス選手にはこのコース設計者の配慮と、前輪が作り出す横力だけでは距離も姿勢変化の力も足りないのだ。
あるいは、5000ccエンジンを載せたブガッティやマセラティ、7100ccエンジンを載せたメルセデスベンツSSKLにはこの南ループの曲線に合わせた素早い姿勢変化、素早く軽快な旋回開始操作が不可能なのかもしれない。
いずれにせよ事実として、3選手とも南ループに入る直前で後輪を蹴り出して旋回操作に入った。
私的なメモにその所見を記し、そして書き足す。
「十分に軽快なレーシングカーを作れれば、旋回操作の開始をコースの曲線に合わせうる。直線の終わりまでブレーキングに使えるようになる。そのレーシングカーは、ブレーキングの開始点をカーブに近づけることが出来る。これにより、本当にブレーキングで差を詰めることが出来る」
手元を見ずに走り書きしつつ、視線は3選手、青、赤、白の3台を忙しく観察していた。
能村には手元を見ずにメモを取る経験が十分ある。手元を見ないで書いた文字が、後からでも読める程度には。
しかし、これほど忙しく視線を走らせるのは模擬空戦の見学以来だ。
ディーボ選手、ついでドレフュス選手が南ループの左カーブを回り終えるその「少し前で」右旋回に備えて逆方向に後輪を蹴り出すのと、ブラウフィッチュ選手が南ループの右カーブから左カーブに移る「手前で」後輪を再度蹴り出すのはほとんど同時だった。
盛大な騒音が腹膜を揺さぶり、奥歯を鳴らす。
本当に、含み綿を足して正解だった。視線の先では、立見席で卒倒する観客の姿がいくつも見える。歯が割れる程度で済んでいれば良いのだが。
そして、内心で苦笑する。
どうやらこのスポーツの熱心なファンになってしまったようだ。
さきほど、思わず口走った言葉を思い出して、内心で付け足す。
「機会があれば」ではない。
「機会を、いつの日か作って」本当にレーシングカーを設計し、作ろう。
「これならレースに勝てる」として出資を持ち掛けた相手が納得するような出来の設計書を書き設計図を描いて、そして出資者を探し出せば「機会」は実現する。
ただのファンでは終わらない。
このアフスでのレースか、他所のコースかは判らない。
いつの日か必ず、何十年後になろうともレース後の表彰式に日章旗を一番高く上げるレーシングカーを作る。
定年退職後に航研の非常勤職員になることはしない。そもそも定年まで務められない可能性もある。
なにしろ「航研教授の椅子」は限られているのだから。
……そのためには何が必要か、第2集団がブレーキング開始点に差し掛かるまでは航研の研究生としての仕事を一休みして、「自分の作るレーシングカー」を設計する材料を探すための観察に充てる。
まず改良点。
第一に、適切なタイヤの選定、あるいはタイヤに合わせた基礎設計。
飛行機の経験も少しは活かせる。
第二に、なぜか動きが渋いか、硬すぎるバネを使っているらしいサスペンションの改良。
これは、飛行機のサスペンションの方が遥かに優れている。
第三に、軽快性の向上。
安定性を損ねない範囲で、出来るだけ軽やかに素早く旋回に移れる、そういうレーシングカーを設計すれば、あとは適切なエンジンを得られれば勝てるはずだ。
ヴィークルダイナミクスと言う新しい学問については、時間を作って参考文献を私費で買う。
第四に、空気力学形状の改良。
スリップストリームの強さと形から見てブガッティもマセラティもメルセデスベンツも、あまり良い空力形状ではない。
これの改良は能村の得意分野だ。
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