第7話 見逃したこと

 地上にありながら平面上に、コースの上に放物線を描き、ディーボ選手、そしてドレフュス選手が南ループの最終区間を回り込む。

 旋回しつつ、加速している。騒音が再び強まり、腹膜が揺らぐ。

 能村はレーシングカーの加速に目を見張った。

 まだ旋回中でもあるから全力加速ではないだろう。

 そして、コース脇の距離標識と見比べなくても判ることがある。能村の知識と経験の中にはその加速力を比較できるものがある。

 戦闘機だ。

 最新鋭の陸軍91式戦闘機の警急発進スクランブルを模した試験を思い浮かべ、グランプリレーシングカーの加速と見比べる。

 ディーボ選手、ついでドレフュス選手が完全に直進状態になり、全力かどうかは判らないが加速の鋭さを増した。

 耳栓も含み綿もまだ足りないと判った。メモを取る余裕もなく、両手で耳を塞ぐ。歯のことは、今日は諦める。治すか義歯だ。


 なんということだろう……。91式戦闘機の警急発進の滑走開始時と比べても、グランプリレーシングカーの方が加速が速い。


 否、鋭い。


 そのエンジン出力と、車両重量は一体どのくらいなのだろう?


 驚きに、歯の痛みが薄れてゆくのが判った。たぶん、このレースが終わってから苦痛に呻くことになるだろう。


 能村は観察を続けた。

 さらにブラウフィッチュ選手が加速を開始する。ブガッティやマセラティとはまた異なる音質。耳を塞ぐ両手がまだ離せない。

 そして、ドップラー効果で周波数を下げつつディーボ選手とドレフュス選手が遠ざかって行く。

 周波数も、音圧も下がる。

 しかしそれに合わせるかのようにブラウフィッチュ選手が操るメルセデスベンツSSKLなるレーシングカーの騒音が強まり、奥歯が鳴りやまない。

 腹膜が揺れる。呼吸が苦しい。


 登り車線を遠ざかって行く先頭集団を追っていた視線は、下り車線を近づいてくる第2集団を見つけた。

 ようやく耳を塞ぐ手を離せた。

 休憩終わり。


 仕事に戻る。

 幸い、ペンは割れていない。

 万年筆など持ってこなくて正解だった。

 歯が損害を受ける騒音が響くような場所に、帝大合格祝いに郷里の人々がお金を出し合って送ってくれた象牙の万年筆--学位を見せびらかす必要がある時しか使わない--など持ってきていたら、今頃は大変なことになっているだろう。


 第2集団を成す列と、個々のレーシングカーのシルエットが読み取れるようになった。

 青、白、赤、大きな青、白。

 青の1台を除き、ヴォワチュレットほどではないが先頭集団3台よりは小さいレーシングカーで第2集団は構成されているようだ。

 腹膜の揺らぎも先頭集団が近づいてきたときよりも弱いない。

 歯に響く高周波騒音は、先頭集団よりさらに強い。奥歯だけでなく門歯まではっきりと震え出した。

 と言うことは、周波数が高いのだ。回転数の高いエンジンを載せている。

 常識的には、エンジンの行程容積が先頭集団のそれより小さい。

 とすると機体は先頭集団のそれより軽く、ブレーキングの開始点が近いはず。大きな青の1台だけは、どうやらディーボ選手の5000ccブガッティと同じ形式の車のようだ。

 陸橋の少し向こうで青い大きなレーシングカー、パンフレットを読んだときにはブガッティT54と書いてあった車が制動を開始した。白い車がそれを追い越す。

 作戦が違うのか、ブレーキ調整の問題か、それともチェコのロプコヴィッツ王子はディーボ選手に比べて技量が劣るのか?


 一番ありそうなことはブレーキの調整だろう。ドラムブレーキと言うものは軽く作れるが、とにかく調整が難しい。


 かといって一部の飛行機のように「滑走路端までに止まれれば良い」としてディスクブレーキなど使うわけには行かないだろう。

 ディスクブレーキは調整が容易であり操縦者も気楽に踏める。その代わりに重くなるか、寿命が短くなるかの嫌な二者択一を設計者に強いる。


 飛行機のブレーキは自動車用よりずっと短い寿命で足りるが、それでも能村が知る限りではまだ国産の飛行機ではまだディスクブレーキの採用例が無い。


 帝国陸海軍も逓信省も、民間航空会社も「十数回の飛行で交換を要する」ブレーキなど認めない。

 海外の最新事例は先月に国際航空学会で聴いたばかりだが、調整と整備に使える人手と時間が極端に限られる特殊用途の飛行機にしか使われていない。


 それ以外の、能村の知るディスクブレーキと言えば許容重量が飛行機とは桁違いの鉄道車両、それも物凄い過密ダイヤグラムを組んで運行されているロンドンの地下鉄の一部だけである。


 鉄道車両でさえ、よほどの事情が無い限り重量の増大を許容できず採用できないくらいにディスクブレーキは--長持ちするディスクブレーキは--重いものになる。

 そんなことを考え、軽いはずの4台の減速開始点を予想しながら視線を一瞬逸らした。

 観客席からの悲鳴で「それ」に気づいた。

 戻した視線の先でチェコ共和国市民、チェコの元王族ロプコヴィッツ王子が乗っているはずのブガッティT54「だったもの」が空を飛んで行く。


 飛行機とは違って、放物線を描いて。その放物線は先頭集団が先ほど地上に描いたものとも違う。

 先頭集団の頭上を、登り車線を飛び越え、その向こうの土手も飛び越えて伸びてゆく。


 破片を撒き散らしながら。


 ほんの少し前までグランプリレーシングカーだった残骸の弾道飛行から目をそらす。


 視線を第2集団へ戻す。

 あれほどの距離と高さを飛行機でもパラシュートでも気球でもないもので飛んだのだ。


 結果は考えたくもない。飛行機事故と同じことになる。


 そしてようやく金属が砕ける嫌な高い音が耳に届いた。

 それに続いて、樹木の砕ける音と、そして何がが地面にめり込む音が足裏に響いた。


 そして、何か金属がぶつかる音が聞こえた。目を向けると登り車線を走り去るディーボ選手のブガッティがまだ小刻みに揺れていた。


 事故だ。恐ろしい速力で跳ねた車が空を飛び、落下した破片がディーボ選手が操るブガッティに当たった。

 破片は相当な運動エネルギーを伴って当たっただろう。選手の身体に当たっていなければ良いのだが。


 白い車が一台、陸橋のこちら側で中央分離帯に乗り入れた。芝生と土が舞う。白い車が横転しそうになりながら、止まった。

 あれが事故の相手だとして、なぜ片方だけ空を飛ぶことになったのか?

 しかも大きく重い方の車が飛んで、小さく軽い方が地上に残った。どんな衝突だったのか?

 ともあれあの白い車に乗っている選手の安否が心配だ。衝突事故だとすれば、その選手にも相当な衝撃が掛かったはずだ。

 グリューネワルトの森の中まで放物線を描いて飛んだロプコヴィッツ王子の生存については、諦めるほかに無いだろう。


 周囲の観衆は騒めいているが、恐ろしいことに嘆きや悲しみ、祈りは聞こえるのだが驚きの声が聴かれない。

 と言うことは、自動車レースにおいては死亡事故が珍しくないらしい。見た目以上に恐ろしいスポーツのファンになってしまった。



『……』


 場内放送が何かを叫んでいるが、迫りくる3台の発する騒音で聞き取れない。

 だが、次々に震えながらブレーキングを開始した。

 標識と見比べてブレーキング開始点を記録する。

 仕事中だ。

 先ほど観戦したヴォワチュレットレースで記録したブレーキング開始点と、先頭集団のブレーキング開始点のそれぞれ平均値を今夜に算出するが、たぶん第2集団3台のブレーキング開始点は先頭集団とヴォワチュレットのちょうど中間あたりだろう。

 ブレーキング開始点に差し掛かるまでの速力も、記録できている。先頭集団ほどには速くはない。

 しかし、現用の戦闘機よりも速い。


 第2集団のブレーキング終了点を能村が記録するまでに歯に被った損傷は、先頭集団のそれほどには酷くはなかった。

 ただ、治すか義歯にするのが奥歯だけではなくなった。ブレーキング終了点は、先頭集団よりもずっと南ループ入口に近かった。ヴォワチュレットとほとんど同じ。


 第2集団のブレーキング終了点を仕事用メモに記録し終えてペンを私的メモの方に移し、旋回開始を待つ。……が、間に合わなかった。

 3台とも、3人とも、ほとんど後輪を蹴り出さずに軽やかに旋回を開始したらしかった。

 そして、明らかに先頭集団よりも高い速力で南ループを回って行く。

 ヴォワチュレットと比べてどうなのだろう?

 先ほどのレースでは旋回など全く見なかったこと。それを、仕事の休憩中である今になって、少しだけ悔やんだ。




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2023年8月18日:旧第3話がスマホで読むには不便な長さのために、分割しました。

旧第3話までお読みの方は、新第5話と第6話まではお読みにならずとも大丈夫と思います。


「ドイツでのレース観戦やレース実況の雰囲気がない」等の批評批判もお待ちしています。

 感想と批判は歓迎します。


 場内放送はドイツ語なのですが筆者がレース実況で聞き慣れた英語混じり日本語で記述しています。

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