第5話 魅了
腕時計の秒針が目盛りの1つか2つ動いたところで、ドライバーたちがブレーキを踏んだ。
その挙動が見えた。
車体が前のめりに小さくしかし確実に震え、そして前傾姿勢で安定した。一瞬遅れて、ドラムブレーキの盛大な騒音が耳に響く。
これも、飛行場では聞いたことがない周波数だ。
相当に分厚いブレーキドラムと、剛性の高いブレーキシューと硬いライニングを使っているらしいとメモに走り書きする。
飛行機のブレーキはもっと柔らかく、軽い。
滑走路端までに停止出来れば充分で、そしてブレーキが冷えるまで次の移動を制限するから何の問題もない。
だが自動車ではそうは行かない。ましてレーシングカーではなおのことだろう。
それは先ほどのレースでも所見に記した。「この点を考慮してレポートを書く」とも記した覚えがある。
長く伸びていた先頭集団の隊列はブレーキングの開始に伴い、みるみる詰まっている。
だがそれは見た目だけだ。仮に270km/hで30m差だとするなら、そしてブレーキングを終えた後の速力を仮に45km/hとすれば5m差が「同じ差」になる。
これよりも差が縮まっているようであればブレーキング中に本当に差が縮まったことになるし、逆にブレーキングを終えた時の差が10mや15mなら差は広がっている。
エンジン音が下がったおかげで、場内放送がいくらか聞き取れるようになった。
『……南ループ……ドレフュ……ディーボとの差……一挙に……詰めています!』
そう絶叫しているのが聞き取れた。
南ループで実況を担当しているアナウンサーは、あまり優秀ではない。
「時間差が同じならば距離の差は速力に比例する」たったその程度のことが理解できていない。
ここドイツでは自動車レースの歴史は長いらしいがスポーツ実況を行うアナウンサーというものがお粗末な存在であること、優れたアナウンサーは政治経済のラジオ放送を担当することは国を問わないらしい!
能村の見るところ、ゼッケン46番ディーボ選手の真っ青なブガッティとゼッケン40番ドレフュス選手の真っ赤なマセラティの差は全く変化していない。
その後ろ、行程容積5000ccの8気筒エンジンを載せたブガッティや同じく5000ccの16気筒エンジンを載せたマセラティよりもひときわ大きな白いメルセデスベンツとの差とその変化も見える。
ゼッケン31番だから、ブラウフィッチュ選手だ。その行程容積7100ccの6気筒エンジンを載せたベンツの車は、このブレーキングのさなかに前を行く2台との差を広げられている。
ブレーキング開始点もブガッティやマセラティよりも遠かった。すでに記録してある。
『ブラウフィッチュも一挙に差を詰めてきました!』
いくらか音量の下がった--ドライバーたちはスロットルを戻しただけでなく、エンジン回転数も下げていることが音質で判る--観客席に、南ループ実況アナウンサーの絶叫が響く。
今更ながら、もう呆れもしない。
ブラウフィッチュ選手はディーボ、ドレフュス両選手との差をブレーキングの開始前の倍近くにすでに広げられてしまっている。
能村に判る程度のことが、レース実況アナウンサーには本当に判らないのだろうか?
それとも「観客にはそれが判らない」と決め込んでいるのだろうか?
だとすれば、これもまた種目や国を問わないことだ。スポーツ実況を行うアナウンサーが観客を侮り、ひたすら絶叫するのは六大学野球でもうんざりするほど聞いた。
世界金融恐慌の年、あの悪夢の1929年恐慌--元化4年世界恐慌--で解散した職業野球、宝塚運動協会の試合でもそうだった。
そして、先ほどのヴォワチュレットレースでも見聞きしたブレーキング終了寸前での操作を聞き逃さないように身構える。
もうすぐ、各車は、各選手たちは「ブレーキングしながらスロットルを煽り、一瞬で変速機のギヤを落とす」操作を行う。
これは先ほど、生まれて初めて見て、聴いた。
確かに、秒を争う自動車レースなのだからクラッチを踏んで、ギヤを落とし、クラッチをゆっくり丁寧に繋いで回転数が合うのを待つと言う普通の操縦操作は許容されないことは判る。
クラッチを切っている時間を出来るだけ短くして、その時間内にドライバー自身がスロットル操作で回転数を合わせてからクラッチを素早く繋ぐ手段が自動車レースと言うスポーツでは採用されるわけだ。
その操作の音は能村の仕事において重要な、ブレーキング終了点を記録するための絶好の合図になる。先ほどはそうした。
そして気づいて、大急ぎで左手を背広のポケットに下ろして綿をちぎる。含み綿を足す。
ヴォワチュレットでもその操作の音は耳をつんざく--言い換えるなら、耐えられる--ものだった。
グランプリカーのその操作は、準備が無ければ耳を破壊し奥歯を割るような音を発するはずだ。
スリップストリームに乗って焼けたヒマシ油の香りが届く。
同時に、ディーボ、ドレフュス両選手が南ループの直前、観客席最前列から5メートルほど離れたコース上でその操作を行った。
轟。
凄まじい音が頬を、足した含み綿を貫き、奥歯を震わせる。先ほどから頬を抑えてうずくまっていた観客の中には、ついに観客席の通路に倒れ痙攣を始めたものまで見られた。
その代わりに、耳を塞いでうずくまっていた観客のうち幾人かは耳を塞いでいた手を離している。聴覚を喪失したらしい。
前歯や糸切り歯が震えない。門歯がかすかに震えた。ここから、騒音の周波数が分析できると能村はメモに記そうとした。実際の分析は今夜行う。
……エンジンと過給機の騒音を周波数分析することと、そこから回転数を推測することは仕事か?私的な趣味か?
迷った。
だが両選手に続いてブラウフィッチュ選手がその操作を行い、強烈な響きに迷いを忘れた。選手たちが次に行う操作に備え、仕事用のメモの上に手を構える。
ディーボ選手がまずブレーキを離した。その操縦席の足元が見えたわけではない。
だが明白に減速が終わり、5000ccブガッティの前傾していた車体が震えながら姿勢を戻す。
ブガッティの車体が小刻みに震えることに疑念を感じたのも一瞬。
ドレフュス選手もブレーキを離した。5000ccマセラティの車体も、これも何故か震えながら姿勢が戻る。
疑問をよそに、能村の手は仕事用のメモにブレーキング終了点を記入してゆく。そして、耳を壊し奥歯を割る音を南ループ観客席の正面で発しながら能村の視界の隅で旋回操作が始まった。
その旋回操作も不思議なものがあったが、今は仕事中だ。ブラウフィッチュ選手のブレーキング終了点を記録するまでは、旋回操作の観察など行えない。
ディーボ選手、ついでドレフュス選手が観客席正面を通過し、吹き付けるスリップストリームが渦を巻く。それは頬に感じ、埃の流れとして見えた。
巨大なメルセデスベンツが跳ねながらブレーキングを終了した。位置を記録する。
第2集団はまだ、点にしか見えない。
視線を旋回操作を開始したブラウフィッチュ選手に向けて、その操作を追う。すでに南ループに入って旋回中のディーボ選手、ドレフュス選手の青と赤のレーシングカーが視界に入る。
ペンを握る手を私的メモの方に移す。
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旧2話が長すぎたように思われるので、分割してみました。
ヒール&トゥ(実際には当時も今もよほど変則的なペダル配置でない限りローリングトゥですが、慣用表現を用います)のブリッピング音を「轟」と書いたのは、単に作者の好みです。どんな音を想像なさるかは、読者の方々にお任せします。
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