第4話 驚異、狂気
能村が見守る間にも先頭集団は点から急激に拡大してその前方から見たシルエットを見せ始めた。猛烈な勢いで接近してくる。
足裏に響いていたエンジン音が足首へ、膝へと昇ってくる。同時に、耳に聞こえる音量が増してゆく。
その音が腹膜を揺らし始めたところで、非効率な過給機の放つ騒音が含み綿を通して奥歯を唸らせ始めた。
能村は手探りで懐からメモ帳をもうひとつ取り出し、膝上のカバンに載せた。こちらには、たった今このスポーツのファンになった能村の個人的所見を記すことにする。
そして航研の研究生としての仕事がまだ終わっていなかったことを痛感しながら、近づいてくるグランプリカーの隊列に目を向け続ける。否、先頭集団と同時に、コース脇の距離標識に目を向ける。
左腕をかざして腕時計の秒針と見比べ、暗算で速力を出してみる。
信じられない……。だが本当に270km/hを超えている!
暗算するまでもなく、何度も試験に立ち会った陸海軍の新鋭戦闘機による低空高速飛行試験より間違いなく、速い。現用の戦闘機など比較にもならない!
今すでに存在している飛行機の離着陸を模擬するなら、それの足回りの改良の参考にするなら、先ほど観戦したヴォワチュレットレースの200km/hの速力で十分である。
今見ている270km/hを超え300km/h程度の速力で離着陸滑走を行うような飛行機というものはおそらくプロペラ機時代には出現しないはずだ。
そして噴流推進すなわちロケットエンジンやジェット推進を用いた飛行機などと言うものは、今のところ空想科学小説の中にしか存在しない。
ジェット推進が蒸気の噴射で行われるのか、発明されてから100年以上になるが未だにスターターの補助なしで動いた事例が無いガスタービンの噴射で行われるのかさえ、まだ判らない。
そういったエンジンを使って、それらがプロペラ推進よりも優位に--今のところ、理論上では700km/hが境界速力と言われる--立つ速力で飛ぶ飛行機。
700km/h以上で飛ぶような飛行機というものが出現するのはおそらく何十年も後のこと。
昨年のシュナイダートロフィーエアレースで記録された、実用機には程遠い設計のスーパーマリンのレース専用機の記録は547.31km/hだ。
そして、レースの半月後にその機体が3kmの直線コースで記録した数字が655.67km/hである。
プロペラ機の速力限界はもう少し上、700km/hと言われている。
それを超える飛行機が出現するのは、能村がこの世を去ってからのことだろう。当然、能村が今夜作成するレポートが誰かの役に立つのはそんな時代が近づいてからだ。
誰かがロケットやジェットで飛ぶ飛行機の設計を開始してからだ。
だがそれでも良い。
今ここでグランプリカーの速力を観察し、そして数秒後に開始するはずの減速を観察し記録し、レポートに残す。
それは、噴流推進の時代の技術者たちが読んでくれるだろう。能村が今夜にも書き始めるレポートは、何十年か後の後輩たちがいくらかなりと参考にしてくれるはずだ。
「飛行機を設計する前にブレーキの所要能力を検討する」ために。
能村の今の職業は航空工学の研究で、所属と肩書は航空研究所の研究生である。
考えている間にも、腹膜の震えが呼吸を阻害し始めた。含み綿の内側で、奥歯が唸りを超えて鳴り出した。
とにかく。
そのレポートが誰かの役に立つのは何十年後でも構わない。航空工学という学問を進歩させることさえできれば能村の仕事は果たされる。このレースを観戦するために使ったお金も航空研究所の経費として認められる。
だから先ほど完成したヴォワチュレットレースでは、レーシングカーの速力を測ることとブレーキングの様子を観察し、記録することに専念した。ブレーキング後の旋回には目も向けなかった。
飛行機は直進状態を保って滑走路上で減速してから一旦停止、ブレーキが十分に冷えるのを待ってから人が歩くような速力で地上滑走を開始する。
静々と転回して誘導路へ、駐機場へ向かうものだ。
レーシングカーの旋回など全く参考にならない。
飛行機設計の参考にならないレーシングカーの旋回を観察することは、明らかに航研の研究生の仕事ではない。
今、ここで行える「航研研究生としての仕事」とはこの世に存在する最良の舗装路面の上での高速走行からのブレーキングを観察してそこから知見を得ることのみだ。
それは現用の飛行機の足回りの改良そして数年先に出現する大型機の足回りを設計することに役立つはずだ。
完全にレーシングカーの前面からのシルエットが見て取れる距離になった。順位も読み取れる。青、赤、白の順で並んで先頭集団が形成されている。
腹膜の震えがいっそう強まる。呼吸が苦しくなってきた。これは予想していなかった。
耳栓の綿は十分なようだが、含み綿は足りていない。日本を発つ前に虫歯を全て治療しておいて正解だった。が、たぶん明日にもベルリンの歯医者に行かないとなるまい。歯の根まで、すでに痛い。
場内放送はもう全く、聞こえない。
すぐ隣の観客が何か叫んでいるようだがそれさえ聞こえない。
耳栓をしていなかったなら今頃、鼓膜が破けていたかもしれない。それどころか鼓膜の奥にまでダメージが入っていたかもしれない。
視野の隅に、観客席のあちらこちらで、初観戦らしき観客が耳を抑えてうずくまっているのが映った。
ともあれこのレースではブレーキングを終えてから行われるはずの旋回操作を観察して所見を私的メモに残すことにした。しかし、私的メモはまだ手元に準備するだけにしておく。今は仕事中だ。
いや旋回だけではない。
これも先ほどは目もくれなかったが、旋回を終えてから行う加速も観察して私的所見を残す。
これは明らかに、航研の研究生の仕事ではない。
今の飛行機はプロペラを用いて、未来の飛行機はロケットやジェットで加速するのだ。
エンジンの出力を車輪に伝えて行う加速など、飛行機技術には何の関係もない。
考えつつ能村の手は半ば自動的に動いて、レーシングカーが距離標識を通過する時刻を仕事用のメモに記してゆく。
速力を暗算することは止めた。今夜、下宿で落ち着いて筆算する。
それ以前の問題として、この呼吸さえ困難な騒音の中で暗算など出来ない。
先頭集団は真っ青な「5リットルブガッティ」を先頭とし、それに赤と白のレーシングカーが続いて形成されている。
能村は仕事を続ける。
グリューネワルト森林公園の森に囲まれて、観客席はほぼ無風。
そのはずだが、近づいてくるレーシングカーが押しのける空気の流れが見える。
コース上に漂う埃とヒマシ油の霧が、南ループへ向かって流れてくる。飛行機のそれとは異なる形で風の河が、スリップストリームが生じ始めている。
観客席から見て左手にある陸橋の下をくぐったところで先頭集団はエンジン音を下げた。
能村は手を止め、ドライバーたちがブレーキを踏むのを目を見開いて待つ。即座に比較結果が脳裏に出た。
明らかにさきほどのヴォワチュレットよりもブレーキングの開始点が遠い。
それは速力が高いからだけではない。重いのだろう。先ほどのヴォワチュレットよりも遥かに遠くでブレーキを踏むのはそれが理由だ。
アモントンの第1法則も第2法則も、クーロンの法則もゴムと言う特殊な物質では成り立たない。
アモントンとクーロンがそれぞれ論文で言及している。
たとえば「摩擦係数は単に摩擦する二つの物質の素材組み合わせのみで決定され、荷重の大小に関わらず一定である」なる法則がもしゴムタイヤにも適用できるなら、重い車も軽い車も同じ摩擦係数を前提にして制動操作、減速操作を行える。
だがそんなことはゴムにおいては成り立たない。
過剰な面荷重が、つまりは過大な圧力が掛かっているときにはゴムと路面との摩擦係数は小さくなる。滑りやすくなる。
……と言うことは、今見ているレーシングカーはどれも、車重に合っていないタイヤを履いているのだ。
もっと大きな接地面の広いタイヤを特注しないといけないのだが、なぜそうしないのかは判らない。
強いて言えば、迫りくる白い車。パンフレットによればメルセデスベンツSSKLなる車が履いているタイヤは青のブガッティや赤のマセラティが履いているタイヤよりもいくらか大きいように見える。
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2023年8月18日追記
旧第2話がスマホで読むには不便すぎるので、分割しました。
旧第2話をお読みの方は、新第3話と新第4話をお読みにならなくても大丈夫だと思います。
あとがき
1932年のアフスの動画、録音は今のところ発見できていません。また1周目南ループに入った順番や距離も残念ですがまだ発見できていません。
「観客の中には歯が割れたものがいた」なる証言はいくつか見つけましたが、これも真偽は定かでありません。
「スリップストリーム」この言葉はモータースポーツ関係者やファンと、航空関係者とでは全く異なる意味を持ちます。
航空関係者は狭義にはプロペラ後流、広義には飛行機が発する乱流全て、および乱流によって誘導されて生じる風の流れ全てを指します。
実際には広義のスリップストリームは今日ではもはや死語で、乱流の発生原因ごとに個別に用語がありますのでそちらを使います。
しかし本作はモータースポーツ小説ですから、飛行機の発生する個々の乱流をどう呼ぶかは後のエピソードでいくつか触れるのみとします。
いずれにせよ、本作は「元化」と言う元号にも示すとおり全くフィクションであり、史実を原作とする2次創作「架空戦記」の一種です。
ただ、当時のアフスの南ループ観客席中段で観戦している気分をほんの少しでも読者の方々に味わっていただけたならば嬉しいのですが。
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