第3話 始まり

 能村は冷めた気分だった。が、心のどこかに何かがある。

 先ほど観戦したヴォワチュレットによるレースを観戦したことで、仕事としての今日の観戦は終わったはずだ。

 東京帝国大学航空研究所の研究生、能村晃彦の今日の仕事はもう終わっている。

 今、グランプリカーとか言うものによるレースを観戦するのは終わったはずの仕事の確認でしかない。

 だが、心のどこかにある何かは……?


 そもそも今日、何のためにここアフスに居るのかを思い出した。

 仕事に専念しよう。


『隊列は長く伸びた様子です。ヒュッテン通りからの様子を聞いてみましょう』

『こちらヒュッテン通りの実況塔。先頭集団は今、次々にヒュッテン通りの上を通過。フォン・モルゲン大きく遅れています、プリンツ・ツ・ライニンゲンも不調の様子。今、ヒュッテン通りを超える前にチェコのロプコヴィッツ王子(チェコの旧王族)のブガッティがモルゲンとライニンゲンを追い越し!』

 スピーカーを通して響く騒音はかなりのドップラーシフトを示している。能村は今聞こえているそれをスタート前の騒音と脳裏で比べて暗算してみた。恐らく今は270km/h程度。

 ……270km/h?スタート前の騒音の周波数を正確に測ったわけではないし、記録もない。

 自分の記憶の間違いだろう。

 日本を発つ前に採用されたばかりの、帝国陸軍の最新鋭戦闘機でさえ320km/hしか出ないというのに。


 しかもアフスの道幅は8mしかない。滑走路より遥かに狭い。

 そんな場所で、現用戦闘機並みの速力で走る?


 そんなわけがない。事実なら狂気の沙汰だ。


 だがそれは近づいてきた。

 かすかに、しかし着実に足裏に音が響き始めた。

 飛行場では聞いたこともない高い音が、数年前に聞いた戦闘機の低空飛行試験並みかそれ以上の速さで近づいてくる。


 陸海軍それぞれの主力戦闘機が低空全速飛行試験を行うときのような速さで接近してくるように感じられた。

 騒音が足首まで這い上がり、骨に響き始めた。


 足裏でもう一度速力を計ってみる。

 こんな狭い場所を自動車が戦闘機並みにあるいはそれ以上に早く走る?


 そんなわけがない。だが足裏へ、足首へ伝わり骨を震わす騒音の近づく速さは、陸海軍の現用戦闘機よりも速いように感じる。


 帝国海軍の最新鋭戦闘機として今年度に採用されたばかりの機体は、先日に所員に聴いたところでは確か292km/h。

 270km/hと言えば陸軍の現用主力戦闘機の最高速力235km/hや、海軍の現用主力戦闘機の最高速力239km/hを大きく超えている。

 さきほど観戦したヴォワチュレットレースでは、速力は戦闘機が低空高速飛行試験を行う場合よりも少し遅い程度、おおよそ200km/hくらいだった。

 国鉄の超特急「燕」の最高速力の倍ではあるが、客も荷物も機関銃も載せられない、一人乗りのレース専用自動車と言うものなら低空を慎重に飛ばす戦闘機くらいの速力は出るだろうと特に気にはしなかった。

 足裏で確かめてみようとして、今近づいてくるのは「良く知った音」ではないことを思い出した。

 であるから、ドップラー効果を用いて精度よく速力を見積もることはまだ出来ない。

 能村はそんな基本も忘れるほど慌てている自分に気づき、内心で自らを叱責した。

 パンフレットに添付されているコース図を見直す。何か、速力を測る助けが無いか?

 そうしている間にスピーカーの音に重なって、空気中を伝わってくる騒音が重なり始めた。

 観客席のざわめきの中で聞こえるほどの音になったのだ。

 マイクロフォンと電線とスピーカーを経由した音と、空気中を直接伝わってくる音の重なりが唸りを生じる。

 これは、未知音源から移動速度を算出するのに使える。だが唸りの周波数を正確に聴くことは難しい。


 よほど近づかない限りはこの種の騒音は点音源として計算できることを思い出した。

 点音源から空気中を伝わる音は、100m離れれば40デシベル下がる。10kmでは80デシベル下がる。

「それ以上の音圧を長時間聞けば聴覚に異常を来たす」と言う限界である100デシベルの騒音も、10km離れれば森林公園を渡ってくる微風の音、木々のざわめきにかき消される20デシベルに下がる。

 この理屈で、背景雑音からグランプリカーなるものの発する騒音が聞き取れるようになった時刻と、その後の変化率を記録してゆけば筆算でそれなりの精度で速力を出せる。

 そこまで考えたところで、時計を使っていなかったことを思い出して悔やんだ。

 ついさきほど、スタートラインから4.5km離れたヒュッテン通りの上を通過したと言うのだ。

 時計で測っていれば、スタートからヒュッテン通りの上を通過するまでの平均速度を精度よく測れた。

 次々に切り替わる場内中継のアナウンサーとマイクの場所も、見ればパンフレットに載っているではないか!


 それを悔やむ自分に気づき、そして能村は脳裏に像を結びつつあるものの正体に気づいた。


 同時に、観客席の上段からどよめきが伝わってきた。高い位置からは、いまやグランプリカーの隊列の先頭が見えるようだ。

 能村の座る席からはまだ見えない。


 脳裏に結ばれつつある存在をどんな搭載機材配置とするか、どの会社のエンジンを載せるべきかはまだ基礎検討も出来ない。


 どよめきを発する観客の割合が増えてゆく。客席の上段からそれは波のように降りてくる。

 主にドイツ語で「グランプリカー」「先頭集団」と言う言葉が次々に聞こえてくる。

 やはり、先頭集団が近づいてくるのだ。もうすぐ、能村の席からも見えるはずだ。

 そこでようやく、検算方法を見出した。観客席上段を振り返り、腕時計の秒針で「先頭集団が見える高さ」の波の降りてくる速さを測る。

 視点の高さと視認可能距離の式が脳裏に展開され、波の降りてくる速さからグランプリカーの先頭集団の速力が判った。


 やはりさきほど足裏で聴いて算出した数値は間違っていた。

 迫ってくる先頭集団の速力はおよそ280km/hから310km/h。もちろん個々の観客の視点の高さについては正確な資料を持っていないから、かなりの誤差を含む。

 どうにも信じがたい速さだが、もうすぐ能村の目を用いて検算できる。

 ストップウォッチを用意しなかったことを悔やみつつ、少しだけ左腕を上げて先頭集団が消失点の向こうから現れるのを待つ。

「先頭集団が見える高さ」の波が確実に降りてくる。

 能村の座っている席にその波が到達するのはもうすぐだ。


 脳裏に像を結びつつあるものの正体と共に、自分がなぜ帰らずに今観戦しているのかが、判った。


 ちょうどその時、消失点から先頭の赤い車が現れた。そして「見える高さ」の波が観客席下段まで降りてゆく。さらには南ループを取り巻く立見席まで降り、数万の群衆が大きくどよめく。

 エンジン音よりも群衆の声が大きくなった。

 周囲に日本語が判るものはまず居ないと判っていた。だが、能村はどよめきが強まるのを待ってから、小さく声に出して呟いた。


 参考にすべき実物は今、迫りつつある。もしも機会があれば自分で、グランプリカーなるものを設計製作してみたい。 

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