第2話 過去の大失敗

 前年、1931年(元化6年)12月某日、東京府目黒町駒場(今日の東京都目黒区駒場)、東京帝国大学航空研究所。


 この日、非公式なものだったが東大航研の所員数名が提案した実験機の構想に関する会議が開かれた。


 この実験機は極めて特殊な飛行条件を前提にして長距離飛行記録を樹立することが目的であり、なんら日本の航空機工学には寄与しそうにない。

 それは出席者全員が承知していた。


 能村研究生は真っ先に発言許可を求め、意見を延々と述べた。

 内容は「航研が行う実験はなんらかの成果を日本帝国の航空産業に与えなくてはならない」と言う、誰でも知っている総論と実験機の構想に対する各論だった。

 列席者の全員が頷くのを見渡した航研所長は能村の見識と勇気を讃えてから、告げた。


 航研所長の言葉もまた要約できる。

・能村研究生の言葉は総論も各論も正しい

・今の航研は『目に見える』『判りやすい』成果を必要としている

・それ抜きには今後の予算獲得がおぼつかない

・以降、能村研究生の発言を禁じる


 会議後、同期の木村秀政研究生がこの要約をさらに説明してくれた。

 能村はいかに自分が短慮によって評価を決定的に下げたのかを認識すると共に、学部の頃から「とても敵わない相手」と見ていた木村への評価を上げた。


 翌日、能村はベルリンへの半年近くに及ぶ出張と各種調査の辞令を受け取った。

 国立大学の付属研究所の発する辞令としては珍しいことに、この出張は年度末を跨いでのものだった。


 辞令を読み終え、能村は研究生に割り当てられた部屋で木村に告げた。

「事実上、航研研究生としてはこれでお別れだ。勝手な話だが将来の航研を頼むよ、われらが同期の期待の星」

 木村はあっさりと応じた。

「同期の星たるは三菱に行った堀越君か、川崎に行った土井君の方が相応しいと思いますよ。しかし。10年以内に『現実的な条件で太平洋を無着陸横断する実験機』を作って見せます。その成果を活かした太平洋路線旅客機が出現するのは、20年くらい後になるでしょう」

 木村は何の気負いもなくとてつもない宣言をやってのけ、すでにスケジュールを引いていることを示した。

 能村は苦笑して出張の準備にかかった。

 博士号を得るのは木村より能村の方が早かったが、今は判る。

 木村秀政ほどの天才には、箔付けを焦る必要がないのだと。


                  *


 一介の研究生の海外赴任において、客船の乗船券の予算など用意されるはずもない。

 むろん自費で払えるなら別だが、能村にはそんな持ち合わせはなかった。三等客室の乗船券さえ能村が買えるものではなかった。

 だから能村は航研の事務員が作ってくれた表に従って移動した。

 国鉄を乗り継いで下関まで移動し、連絡船で朝鮮に渡り再び鉄道を乗り継ぐ。

 その中には酷い乗り心地と酷い客扱いのシベリア横断鉄道でソビエトロシアを横断することまで含まれた。

 航研の事務員は良い仕事をしてくれて、一度も乗り継ぎに失敗せずに1月の末にベルリンに到着した。


 この旅の間にさまざまな知見が得られた。

 そして4月の国際航空学会を前に航研所員である帝大教授が乗った客船をハンブルグ港に出迎えるまでにも能村は知見を積み上げることができた。


 航空工学の知見は特に得られなかったが、鉄道工学と建築学の実例から構造学、機械工学についていくらか学んだ。


 それよりも大きな知見を得たのは、ベルリンでの下宿生活だった。


 洋行帰りの日本人の多くが「欧州諸国は紳士淑女ばかりの国だ」と証言するが、それは大間違いだと理解できた。


 他にもいろいろと知見を得た。


 例えば単なる研究員と名乗るのか、博士であると名乗るのかによって態度を露骨に変えるものが多いこと。


 衛生観念においても意外な知見が得られた。


 毎年夏になるとコレラがあちこちで流行する日本と比べても遥かに酷いのだ。恐らくは気候のおかげで疫病の蔓延が防がれている、といったことなど。

 これらの知見はドイツに限らず、視察予定のすべての欧州各国で同じだった。


 特に、研究員と名乗るのか博士と名乗るのかによって露骨に態度が変わる事実は視察旅行の手配を行う上で大いに役立った。

 今後、活かす機会がまた来るものかどうかはわからない。


 1932年4月の国際航空学会では能村は一言も発言せず、発表もしなかった。それは所員の役目である。

 しかし実に多くの航空工学の知見が得られた。

 学会の終了後、所員を案内して欧州各地の航空機会社や研究所を視察する旅行があった。

 木村の予見どおり、その現地手配と案内が能村の今回の出張の主な仕事となっていた。

 所員に随行した能村も視察によって大いに航空工学の知見を得た。これこそが、この出張の最大の報酬だろう。


 しかし1ヶ月に及んだ視察旅行を終え、所員を見送ってからも能村の仕事は残っていた。

 その最後となるものが「将来に実現しうる最良の滑走路」に関する調査である。

 今、この世に存在するもっとも優れた舗装路面とはどこの滑走路でもない。

 ここベルリンのグリューネワルト森林公園に設けられたアフスと言う自動車試験場か、アメリカのインディアナポリスとか言う自動車競走競技場だと言われている。

 であるから能村はアフス運営公社に見学を申し込み、そしてレース観戦を勧められた。

 国際電報を打って観戦費用を官費処理できるか問い合わせるか、それとも自費で処理するかは悩む必要も余裕も無かった。


 国際電報の費用よりもレースの観戦券の方が安かった。


 そして今。

 このAVUS南ループ観客席に座っている。

 さきほど観戦したヴォワチュレットのレースを見終えたら帰るつもりでいたが、なぜかグランプリレースも見るつもりになった。


 ともあれ、グランプリフォーミュラカーとか言う区分の競争自動車によるレースを今こうして観戦している。

 アフスとは「高速道路」と言う日本帝国ではいつ実現するのか見当もつかない高級な道路の試作品であり、レース場として使う場合には一周19.573kmとなる。


 そのほとんどが直線区間の上下線で、ベルリン市街地に近い北ループが上、今能村が座っているポツダム市に近い南ループが下と言うことになるだろう。

 直線区間は完全な直線と言うわけではなく、南ループから1kmほど離れたところにS字路とかクランク路とか言うほどではないが1車線程度、横にズレる箇所がある。


 コースを跨ぐ陸橋の向こうで能村の席からは見えない。

 先日にアフス運営公社に見学を申し込んだときに教わった話では、高速走行中の車線変更を模した実験を行うためのものだと言う。


『最前列から飛び出したのは5リッターブガッティのディーボ、そして3列目から16気筒マセラティのドレフュスが一挙に順位を上げてディーボに並んでいます!その後ろにはウィリアムズ、ファジオリ。最前列スタートのカラツィオラは現在5位、同じく最前列スタートのフォン・モルゲンが6位に続いています』


 ラウドスピーカーが伝えるスタートライン周辺の観衆のどよめきと歓声、そして猛烈な騒音に重なって実況アナウンサーが告げると周囲の南ループ観客席が大きく沸いた。




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2023年8月20日:後のエピソードに回せる事を切り落として、いくらか可読性を上げました。


>戦闘機より速い自動車

「戦闘機としてはあまり速くない『ゼロ戦』でも500km/hを超えていたのでは?」と感じた人もおいでと思いますが、この時点では各国の戦闘機は300km/hを超えるかどうかでした。

飛行機はこの数年後から(戦火が近づいて)急激に進化し、ゼロ戦が登場するころには「戦闘機はレーシングカーより遥かに速くて当たり前」の時代となります。


>三菱に行った堀越君:東京帝大航空学科1期生のひとり。

 この頃は失敗作になると覚悟の上で「元化7年度試作艦上戦闘機」を開発中。

 この失敗から大きな知見を得て「元化9年度試作単座戦闘機」「元化12年度試作艦上戦闘機」の開発に成功する。

 特に12試はいわゆる「ゼロ戦」として伝説となる。


>川崎に行った土井君:東京帝大航空学科1期生のひとり。

 この頃は川崎が招いたお雇い外国人技師の元で実地研修中。

 後に陸軍戦闘機「飛燕」「屠龍」「五式戦」の設計者として不動の名声を得る。

 さらに後には「YS-11」旅客機と「C-1」輸送機の開発に苦闘する若手技術者を指導して教育者としての名声も得る。



>木村秀政

 東京帝大航空学科1期生のひとり。

 この時点ではその才能に気づいている人は少ないが航空工学の教育者、研究者としての実績はWW2前からの日本の航空工学者ではNo.1。


2023年8月18日:旧第1話がスマホで読むには不便すぎる長さのため、分割しました。


「時代を超えた視点変更」は避けたいのですが、いくらなんでも主人公の1人の学生時代から話を始めるのは書く側としてもあまりに退屈なので半年遡る視点変更、そして学生時代を思い出すと言う視点変更を行ってしまいました。

 このような視点変更は私の筆力では避けることが困難で、今後も残念ながら生じます。

 ご容赦ください。

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