風の河-スリップストリーム-
@TFR_BIGMOSA
第1章 始動
第1話 1932年アフスレンネン 始まりの日
1932年(元化7年)5月22日。
この日、全てが始まった。彼らがそう気づいたのは後のことである。
ドイツ、ベルリン郊外。
グリューネワルト森林公園内、アフス("AVUS"= Automobil Verkehrs und Übungs Strasseの頭文字。「自動車交通(実験)と練習用テストコース」の意)、南ループ観客席。
『各車、エンジンを始動します』
灰色の空の下。
ラウドスピーカーがそう告げた直後、足裏にかすかにしかし確実に、遠雷のような響きが伝わってきた。
観客席が騒めく。
これからレースに出走する各車がエンジンを始動しているのは地平線の向こう、おおよそ10km離れた場所だ。
能村が座っている観客席中段の正面には視界を横切って左手へと延々と伸びる2本の直線舗装道路が見える。右手にはその2本を結ぶ、半径40mほどのループ線がある。
ループ線から目を正面に戻す。
まず8m幅の直線道路、その向こうには8m幅の芝生の中央分離帯、そしてもう1本の8m幅の直線道路が平行して伸びており、そのさらに向こうには土手がある。
土手の向こうには鉄道線路があるが、この席からは見えない。
舗装道路は日本でも東京府内であれば見かけるアスファルト舗装だが、黒一色ではない。灰色を帯びている。
周囲を取り巻くのはグリューネワルト森林公園の鬱蒼とした森。
観客席の背後にも公園散策路を隔てて森が広がっている。
おおよそ40mの幅でまっすぐに森を切り開き、そこにコースと鉄道が敷設されている。
もし同じ施設が満州やシベリアの平原にあるのなら、能村が今座っている席の高さからスタートラインまで見渡せる計算だ。
エンジンの騒音も空気中を直接伝わってくることだろう。
しかし現実には左に目を転じると森の中に開かれた帯が視界の中で狭まって行き、消失点に収束してしまう。無論、2本の舗装道路も土手も森の中に消えてしまう。
その向こうで今エンジンを始動した各車の放つ騒音は、もちろん耳に聞こえはしない。
だが地面を通して伝わっている。ということは、重爆撃機か大型旅客機並みの音量だ。
実際、さきほど出走する16機のエンジン行程容積をパンフレットを見て足し算したところ重爆撃機や大型旅客機に使うエンジン並みの数字になった。
しかし、まだ耳を保護するには間に合う。
能村は生涯で二度目になる自動車レース観戦に備えて、耳栓に使う綿をほぐしていた。
さきほど観戦した、ヴォワチュレットによるアフスレンネン(アフス国際レースの意)ではとてつもない騒音に何度も耳を覆った。
初めて自動車レースを見たさきほどの経験から騒音を思い出し簡単に計算しつつ、ほぐした綿を丸める。
音量自体は飛行場で、駐機場で、風洞実験室で何度も経験したものと大差なかったが音質が全く違う。
耳栓だけでなく、歯を保護するために頬に綿を含むことにしていた。
他にもいくつか知見を得た。
たとえば自動車レースと言うものにおいて、エンジン出力の優劣は順位を争う上でいくらかの優劣ではあるが、絶対ではない。
さきほど観戦したヴォワチュレットによるレースで優勝したイギリスのハウ伯爵の車は1500ccエンジンを載せたものだったが、2位は750ccで3位は1100ccだった。
*
当時の
*
4位以下は全て周回遅れだったが、その中には1500ccが2台も居た。
750ccや1100ccの車の方が1周分、およそ20kmも多く同じ時間内に走っているのだ。
周囲の観客席を埋めた観衆はそんな能村を特に気にしてはいないようだが、同じように綿をほぐしている人も混じっている。
能村と同じく、先ほどのレース後に観客席裏手の売店で綿を買ってきたのだろう。そうでない観衆は、自動車レースと言う恐ろしいスポーツを観戦することに慣れているのだ。
『スタートラインの模様を中継開始いたします』
ラウドスピーカーが告げ、飛行場では絶対に耳にしない類の音を流し始めた。
遥か離れたスタートラインの様子を、電線を介して伝えてくれるとは。
レースを楽しみに来ている人にとっては良いサービスだ。周囲の観衆は大いに盛り上がっているが、レース観戦を楽しむつもりのない能村は顔をしかめた。
なんと迷惑な。
先ほどのヴォワチュレットによるレースでは行われなかったこのサービスがレース中ずっと続くのだとすると、耳で各車が南ループに近づき通過し離れてゆく時の音を分析する妨げになる。
そんな事を考えながら何度か耳に綿を詰めては取り出し、耳栓の調整を終えて頬に綿を含み、そしてメモ帳と鉛筆を取り出したところでラウドスピーカーの音量が高まった。
周囲の観衆が息を呑む。しかし、声を潜めての会話はあちこちから聞こえる。
飛行機には危なくて絶対に使わない類の、超高回転エンジンの天に抜けるような騒音。
そして、飛行機には効率が悪すぎて使わないルーツ式の「過給機」が放つなんとも嫌な、歯にまで響くカン高い騒音。
ルーツ式送風機を空気圧縮機の代わりに、この場合はエンジンの過給機として使う場合の理論上の最良効率は49パーセントでしかない。
実際には30パーセントにも届くまい。空気圧縮機としての働きよりも、空気加熱機とサイレンとしての働きの方がずっと大きい。
各車のルーツ式「過給機」がサイレンとしてなしている仕事の一部は、遥か離れたスタートライン周囲の空気を震わせてその一部がマイクロフォンに拾われ、そしてこの南ループ観客席に電送されている。
観衆は声を潜めてスタートを待ちつつ、興奮を強めているようだ。
先ほどのヴォワチュレットレースを観戦した時にも思ったことだが……。
もしかしてルーツ式の非効率な過給機装備が自動車レースの決まり事なのだろうか?
観衆へのサービスとして。
そんなことを考えているうちに、ラウドスピーカーがレースの開始を伝え始めた。
マイクロフォンを実況席の方に向けてくれたのか、いくらかスピーカーの放つ騒音が減った。
『競技長がスタート旗を手にスタートラインに歩み寄ります』
スピーカーの音量が増す。
エンジンの騒音が強くなった。
スタートライン周辺の観衆のどよめきが伝わり、それは南ループ観客席を埋め尽くした観衆にも波及する。
『競技長がスタート旗を広げます……広げました』
騒音がさらに強まり、そして高くシフトしてゆく。
各車、エンジンの運転回転数を上げているらしい。2秒ほど遅れて、足裏に感じる低音も強くなった。そして、周囲の観衆が静かになってゆく。
囁きさえも減って行く。
光の速度と音の速度の違いを体感したことは数えきれないが、飛行場以外の場所で「地中の音速」を感じるのは珍しい経験だ。
腕時計での計測だが10kmを2秒。
5000m/sと言うことは、この下には土の層はごく薄く、岩盤が広がっているようだ。
『旗が上がります……上がりました』
騒音がさらに強まる。周囲の観衆が完全に静まり返る。
能村は念のためにメモ帳と鉛筆を確認した。
聞こえるのはスピーカーが伝えるスタートライン周辺の騒音と、グリューネワルトの森を抜けてくる微風が運ぶ木々のざわめきだけになった。
恐らくスタートライン周辺の観衆も息を呑んで旗が降りるのを待っているのだろう、スピーカーが伝える騒音がエンジン音だけになった。
『旗が降りました!全車一斉にスタート!』
スピーカーを通してどよめきと轟音が響く。周囲の観衆が放つ歓声と共に。
足裏で聴いていた低周波に唸りが乗った。各車、もはや静止状態ではない。
まだ耳にはエンジン音は聞こえてこない。
だが、足裏で各車の加速が感じ取れる。足裏で聴く唸りの周波数がシフトしている。
スタート前に聴いた騒音を思い出してみる。ほんの数秒で100km/hを超えた様子だ。
まだ時計は見ない。この南ループ観客席から見えるようになってから時計を使う。
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第1話あとがき
この時代のAVUSについて興味を持たれた方向け:モータースポーツマガジン社のサイトからhttps://www.motorsportmagazine.com/database/circuits/avus/を開き「1921-1936」を選択なさると説明文つきでコース図が表示されます。
2023年8月18日追記:旧第1話がスマホで読まれる方に対してあまりに不親切な長さだったので分割しました。すでに旧第1話をお読みの方は、新第1話と新第2話はお読みになる必要ありません。
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