第2話 月の光から逃れたい


「ゆ、ゆめみ通り……」

「はい。夢見通りですよ。なにか?」


 思わずおうむ返しをしたぼくの顔はきっと間抜けだったろうと思います。

 彼女の話す状況と、実際にぼくの目の前にある通りを何度も何度も見比べるほかにどうしろというのでしょうか。


『ゆめみ通り』なんて通りは、ぼくの地元に無いのに。


 けれど。

 ぼくはこの通りを知っています。

 それは、決してここには存在するはずのない通りであることもむかしからよーく理解しています。……なぜ、なんてそれは。


「どうして、絵本のなかにしかないはずの通りが、こんなとこにあるの」

「どうしてでしょうね」


 自問自答の形式にすらならず、ただのつぶやきにしかなかった、その言葉。

 意外なことに彼女はそれに律儀に返答をよこしました。

 そんなもの求めているとどうして感じられたんでしょうか。


 目の前の光景をいつも通りに見つめようと目を凝らして。


「なんで」


 なんどもなんども、僕の記憶と、むわっとして肌にから身つくような風を感じて。

 目の奥で、帰りの電車で見た数字の羅列が走り去っていくのを、止められません。


 寒くない、むしろ暑いし背中にへんな汗がつたっている。

 それにもかかわらず、僕は両腕をさすり続けます。風邪をひいた時のように、何を求めているのかがわからないままに。



 大きな薄紅色の衣をまとったような『それ』の異常さがたまらなく恐ろしくて。

 そしてそれはきっと。



 頭の中ではクエスチョンマークだけがもくもくと浮かび続けていて、まともに言葉を組み立てられないのです。それなのに、油でも挿したかのように口はつぶやきを漏らし続けるのが、奇妙でした。

 その『奇妙』という単語は今のぼくの心境と、パズルのピースみたく上手くつながってしまって。なんだかとても怖くてそっとまぶたを閉じました。


 ああ、ここは一体どこなのでしょうか。


 その、直後。ぼくがまぶたを閉じたその、とき。

 強い光が当てられてぼくはぎゅっと、まぶたをきつく閉じます。きつくきつく。

 誰もはいってこないように。誰にも傷つけられないように。


「吉野さん、それは時間の無駄ですよ」



 その声はやはり月の光のようにぼくの耳に入り込んできました。


 ああ、聞こえるのが悪いんだ。ならば耳を塞いでしまおう。

 ぼくはそう悟って、両手を両耳に押し付けます。

 簡易的でひどくお粗末な対応でしょう。

 それでも、ぼくはこの方法以外、問題と向き合うことができないのです。だって。それしか、知らないから。


「今まで、そんな風に耳を塞いで何か変わりました?」


 真っ暗い部屋。

 そこにある窓のカーテンをぴったりと締めて、窓に張り付いて夜が明けるのをまつ。

 小さな子供のようだ、なんて思いました。

 ぼくはそのとき、忘れていました。



 むこうにいたのは大きすぎる身体を持つ月ではなかったことを。

 同年代である女子高校生。

 笑った顔はぼくよりも年下に見える、意志を持って走るような人でした。

 そして彼女はぼくの右手を右耳からひき剥がしていくのを、温もりが遠ざかることで感じていました。




「さぁ、一緒に踊りましょう」


 彼女はぼくの右手を引いて走り出します。

 見た目に合わず腕力のある彼女は、ぼくをぐいぐい引っ張って、偽物の月の下に、スポットライトの下に誘いました。

 そして、最初のように礼儀正しく頭を垂れ、一言。



「遅れましたが、わたくし。ここ『ゆめみ通り』の管理人をしております。

 楽しい時間をお送り頂くことを切に願っております」


「……普通だったらそこで名前をなのるものなのでは?」


「ふふ、名乗る名前なんて持ち合わせがございませんしね。

 よろしければ吉野さんが命名なさってくださいな」



 くるりと管理人の彼女が回る。


 それに合わせて膝上の紺色のスカートが広がり、まるで花のようでした。


 青いカッターシャツに紺色ベースに白いラインの入ったリボン。

 管理人の彼女のカッターシャツは季節ハズレにも長袖。……踊るのに邪魔じゃないのかな、なんて。

 優雅に踊る管理人の彼女と対照的に、僕は余計なことに意識を回しつつ、おぼつかない足取りで管理人の彼女を追いかけます。


「そんなこと、を。いわれてもわからなかったり思わないのが一般的なひとですよ」


 そうですか。そうセンターに踊りでた管理人の彼女はわらいます。

 先ほどどうって変わって無邪気に。



「踊りましょう、せっかくですし」


「……ぼくは踊った、こと」



 大丈夫ですよ、と管理人の彼女はぼくの言葉を遮って、軽やかにステップを踏み始めました。

 ひらり、とひとつだけ薄紅色をしたかけらが落ちて行くのを、目の端っこで捉えます。

 大きな大きな『それ』から落ちていくのも、目撃しました。


 もういいよ、と諦めるように呟いた気がして左右を見やったけれど誰もいませでした。


 ただ、そのかわりと言ってはなんでしょうが。



 僕の、足元に1枚の桜の花びら。

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