ゆめわらう。
入相
第1話 青との遭遇
あお。
混じりっけのない青。純粋で綺麗な感じ。
だけれど偽物のように温度が、鼓動の感じられない明らかにいつもと違う色。
そして通るは湿気を多く含んだ夏の風。
ぼくは口を薄く開けぽかんとしていたでしょう。
それは、鏡を見ずとも検討がつきます。
はたから見れば、ぼくは空を見つめたまま動かない、おかしな高校生に見えると思います。
わかっています、それを十二分に理解しています。
それでもぼくは、この場から離れることができそうにも無いのです。
自宅の最寄り駅の改札口を出て数歩いったところにぼくはいました。
普段ならこんなところで止まらずに自宅に帰るのに。
今日は、今日だけは違いました。
動けず、声も出せず。
ぼくの心臓はどうしよう、ぼくはどうかしてしまったんじゃないのかって焦るし、暴れます。
けれど、頭の片隅ではひどく冷静に『ああこれが金縛りってやつかぁ』なんて思ってしまうのです。
それに、あのあおを見つめるたびに焦りはゆめのように消えていくようで。
これもまた、いつもとは違うことでした。
あのあおを見つめるたびに、ぼくの思考は深く深く深く沈んでいくような、そんなくらくらがやってきます。
そのくらくらのおかげで、何がどうなっているのやら……。もうわかりません。
見ない方がいいって思うのに、頭の中があのあおに染められていくのです。
なんだかそれは、身体が眠りに入る直前の、浮遊感と急降下の感覚によく似ていました。
そんな時でした。
「こんばんは。
月の光みたいなその声は、くらくらしていたぼくの足もとを通常運転に戻してしまいました。
そして、ぼくはその声の持ち主を見やります。
一面にもやがぼぅっとかかったようだった景色も、ようやく音と厚みと真っ黒な影が戻ってきてぼくの目にその姿が映り込みます。
その姿は女の人、でした。
ぼくの右手側の、斜め前に立つその人は一見するとぼくと同い年のように見えます。
だけれど、ぼくよりもずっと年上な気もしてくる。……そんな女の人でした。
なにも言えなくて彼女の黒目がちの大きな目を見つめてしまいます。
別に疑問が浮かばないわけじゃないのに、ぼくの口からは声は生まれる予兆もありません。
______どうしてぼくの名前を知ってるの?
このあおい、生きていない感じの、作り物みたいな感じがする空はなんなの?
ここはほんとにぼくの住んでる世界で合ってるの?君は一体なんなの?
いくつものクエスチョンマークがひしめいてぼくの頭がこんがらがる一方でした。
それなのに数学Aで習った『!』は『階乗』と読む、なんてロクでもないセンテンスが浮かんできて困ってしまいます。
ぼくがいま持っているのは『?』だというのに。
ほんとしょうもない。
これで数学Aの成績はギリギリだったのですから嫌になります。数学Bからは逃げの一手よりほかに手はあるでしょうか。
彼女は、ぼくににこりと微笑んだあと風のようにと走りだしました。
格別に速いというわけじゃなくて、モーションの問題でしょう。脚を回す、というよりもするする流れる、そんな印象。
その彼女の背中はぼくについてこい、とでもいうかのようで。
草船のごとく流れるぼくの心持ちが足にも伝染ってしまったよう……いいえ。もともとそんな気質が身体全体にあったのでしょう。
ああ、それでも重要なことはただ一つ。
ぼくはいま衝動的に足を動かしているのです。彼女と違って脚をくるくる回転させて。
一歩踏み出すたびに体は心なしか揺れるのです。
名も知らない彼女。
それなのにこちらの名前は知られている。
どうにもあおが偽物のような空。
ひとっこひとり通りすがらない、寂しい駅前。
電灯の人工的だけれど暖かなオレンジもなし。
なんていう不思議な状況下でも、ぼくには足を止めることを決められませんでした。
荒い呼吸なんどもなんども繰り返しながら、ぼくは彼女の背中を見つめました。
ぼくは息を呑みました。
彼女の先に広がる色が、あまりにも現実と、季節と、温度とかけ離れすぎていて。
ぼくには
だって今は元気な太陽と黄色のコントラストが目玉なのに。なのに。なぜ。
くるりと彼女が振り向きました。
紺色の折り目正しいプリーツスカートが揺れてます。それは彼女の服だとやっと気付きました。
そしておそばせながら、ぼくはそこで初めて彼女の全身を見たのです。
どこからどう見ても、女子高校生にしか見えない彼女はぼくが戸惑っているのを見て、心底楽しそうに笑います。彼女には笑うとえくぼが出来て、ぼくよりもひとつふたつほど年下のように見えます。
そしてその幼い表情を保ったまま、彼女はうやうやしく
それの不釣り合いなことと言ったら!
思わずおかしくて顔を歪めている時に、彼女はそのまま口を開きました。
さて、そんな小さなお星様のような呟きのあと
「ようこそ、『ゆめみ通りへ』
どうか素敵な夢をご覧下さい」
と。
そう、彼女は月光のような声音で、はっきりと言いました。
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