7. increase or decrease

 午前十時過ぎに病院に着く。とうとう治療の方針を決める日。泌尿器科で名前を呼ばれ、CT検査と骨シンチの結果を聞きに診察室へ。いつもと違い、というかとても大きな変化なのだけれど、夫になった彼が同席していた。変わらず「中川なかがわ怜子さとこさん」と呼ばれた私は、昨日から彼の妻だった。変わらないテンションの先生は、デスク上のスクリーンに私の骨の映像を映し出していた。

「骨に転移は見られませんでした。ただこれを見てください。小さくてわかりにくいですが、これですね。白い部分です。肺に小さな腫瘍が三つあります。ひとつだけではないということは、腫瘍は転移していて悪性である可能性が非常に高いです」

 悪性である可能性が非常に高い。再度聞く「非常に高い」という言葉。

「肺の腫瘍は手術して取り除くほどの大きさではありませんが、腎臓由来の腫瘍は大き過ぎて今すぐ手術という訳にはいきません。そこで薬の治療を行うことをお勧めします。ひとつは点滴ですが、いわゆる抗がん剤です。そこに飲み薬を併用していきます。ぜひやってほしいです」

「まだ、がんとは、わかってないんですよね」

 がんというものは告知され、受け入れ、そして治療をするものだと思っていた。この靄に包まれているような状態はいつまで続くのだろう。

「取り出して生体検査をしないと断言できませんが、これだけ転移が見られるということはほぼ、がんと言えます。今の時点で抗がん剤を始めるのは、とても有効な治療になります。まずは腫瘍を小さくしていきましょう」

 右と左の肺に散らばる小さな白い点を見つめながら、彼の表情を想像するけれど振り向くことはできない。

「やってみます」

「やってみますか。きっと小さくなりますよ。頑張りましょう。点滴治療は入院が必要です。高額療養になりますので、申請してくださいね」

 高額療養。月に一定額以上の医療費を使うと差額が返還される制度があると聞いたことがあるけれど、そのことだろうか。

「どのくらいの入院になりますか?」

「早くて五日です。ただ副作用によっては、ひと月、ふた月になる場合があります」

 肩に手を置かれ、手の持ち主を振り返る。彼の切れ長の二重は、マスクをするとさらに印象的になる。猫さんをお願いねと頼むと、ダークブラウンの瞳が細まった。






 ゴールデンウィーク明けに入院が迫っているけれど、物理的にも精神的にも準備が進まない。それでも、抗がん剤の気になる副作用のひとつ、脱毛について調べてみた。もしも入院が長引くようなことになれば、骨シンチのときに会った女の人が被っていたような帽子が必要になるかもしれない。医療用のウィッグやインナーキャップのことも調べた。脱毛中の敏感な頭皮への負担が少ない医療用ウィッグはかなり高くて手が出なかった。副作用で酷い頭痛になることもあるらしい。柔らかそうなオーガニックコットンのビーニーをネットで買った。自治体によっては医療用ウィッグ購入の助成金が出るところがあるようだけれど、ここも含めてほとんどの自治体で行われていなかった。

 抗がん剤治療を続けている人のブログに、青あざのようになった爪の画像が載っていた。ベージュ系のネイルがほしい気がするけれど、買いに行く気力はなかった。ただ思い返すと、先生がいつもと変わらない高めの声のテンションで説明してくれたおかげで、そこまで落ち込んでいないのかもしれない。それに彼が変わらず笑顔を見せてくれるのが嬉しかった。入院まで日常は続き、洗濯をしたりスーパーマーケットに出かけたり、淡々と進んでいく。猫さんが好きなメーカーのウェットフードを買い込み、カリカリを補充する。猫さんに必要なものが売っている場所を彼に教える。何としてでも五日で帰ってきたい。

「なんで、ひさしぶりなことになんの? 前にも言うたやろ。あまり、ひさしぶりいうことにならんことー」

「早かったら五日で帰ってくるでね。おさむくんも柔らかいのをくれるで大丈夫だよ」

「やらこいの。今くれへん? やらこいのも人間もやけど、増えるのはかまへんえ。せやけど減んのはどやろ」

 インターフォンが鳴り宅配便が届く。猫さんはケージの中に走っていく。届いた封筒からビーニーを取り出し被ってみた。眉毛と睫毛が抜けた自分の顔は想像できなかった。ビーニーを脱いで押し入れの中からスーツケースを取り出す。猫さんのおもちゃにならないように着替えを詰めるのは大変そうだ。この町は観光地だからか、バスの中などでスーツケースを持っている人を見かけることが多い。旅行なのだろうと思っていたけれど、中には入退院する人もいたのかもしれない。彼の車がなく付き添ってくれなければ、私もスーツケースを抱えてバスに乗り病院に向かっていただろう。ゴールデンウィークはずっと仕事をしている彼の帰りを楽しみにしたり、負担になっていないか心配になったり、不安定な気持ちで過ごした。



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