8. blue 10 minutes

 早めに家を出て大好きなカフェのお菓子を買いに行く。病院の敷地内に入るとハナミズキの下のベンチが空いていた。前に座ったときと同じように二本のハナミズキが木陰を作っている。スーツケースを持ってきてくれた彼と一緒に腰を下ろす。カフェにはリネンに包まれた焼き菓子が売られていた。赤いギンガムチェックの包みと、クレヨンで描かれたようなフランス語のプリントの包み。古い木のベンチの上でフランス語の包みを解く。中からクッキーやメレンゲ、先日食べたガレット・ブルトンヌと、もう一種類のお菓子が顔を出した。袋の裏のシールに「有機ラベンダーのブール・ド・ネージュ」と書いてある。この場所で一人で食べたフィナンシェを思い出す。粉砂糖が塗された一口大の丸いお菓子は、名前の通り「雪のボール」のようだ。テイクアウトしたコーヒーを飲みながら、彼とお菓子を分け合った。リネンの上に木漏れ陽が落ちている。

 ブール・ド・ネージュは口に入れると雪のように溶けていった。彼はキャラメルチョコレートを半分纏ったクッキーを気に入っていた。テイクアウトしたコーヒーはお菓子とよく合い、おいしかった。

「じゃあね」

「いってらっしゃい」

 彼は病室のある七階のエレベーターホールまでついて来てくれた。窓側のベッドに案内されて少しほっとする。ブラインドを上げると、窓の向こうにベイブリッジの主塔が並んでいた。スーツケースから日用品などを取り出す。焼き菓子を包んでいたリネンは、財布とスマホと一緒に鍵がかかる引き出しに入れた。一度ブラインドを閉めてスウェットに着替える。海の近くの病院だけれど、入り混じる高速道路に隠れてほとんど海は見えない。それでも海側の病室でよかった。

 明日から抗がん剤治療が始まる。同意書を読んで署名したものの、やはり怖かった。二週間おきのキイトルーダ点滴とインライタ連日内服。何行にも渡って書かれた副作用の数々……。すべての副作用が起こるわけではないのだろうけれど、ひとつも起こらずに乗り切れはしないだろう。持ってきた三冊の長編と短編集と詩集はまだ開く気になれない。手持ち無沙汰にベイブリッジを眺めて過ごしていると、名前を呼ばれてベッド周りのカーテンが開いた。キイトルーダについての冊子を持ってきてくれた看護師さんから副作用の説明を受ける。脱毛のことは何も言われなかったので質問してみた。

「脱毛ですか? えっと、聞いたことがないですね」

 抗がん剤イコール脱毛するというわけではないらしい。抗がん剤には種類があり、それぞれに副作用が違うなんて考えてもいなかった。浅慮だったと思いながらも、事前に教えて欲しかったとも思う。せめて同意書に署名する前に今の説明を受けたかった。採血やバイタルチェックなどのたびにカーテンの向こうから名前を呼ばれるので、イヤホンをして音楽を聴くのも憚られる。仕方なく横になり少しずつ色を変えていく空を見ていた。

 





 通話ができるのはエレベーターホールだけだった。病院での初めての夕食を終え、歯磨きのついでにスマホを持って病室を出る。エレベーターホールからは港が見えた。マリンタワー、ランドマークタワー、コスモクロック。ジオラマのように小さく光っている。窓側の椅子に座りスマホを取り出した。十九時五十分。一度病室に戻り、青く光るベイブリッジの主塔を眺めた。白い主塔の先端部分が青く光るのを見るのは二度目だった。一度目は彼の車でベイブリッジを通ったとき。ダッシュボードの時計を見るように言われて二十時二分だと答えると「その時計は五分くらい進んでいるから、あと数分は青く光っているよ」と前を向いて運転している彼が言った。

 マスクを着けたままでいるのが辛い。軽い頭痛がするのでカーテンに囲まれたベッドのスペースでだけ少しの間外していた。朝までマスクをつけたままでいるつもりだけれど、明日に備えてたくさん眠りたい。ベッドの上でラインの通知が光った。

『ただいま。猫さんにご飯をあげたよ。さとちゃんは夕ご飯を食べた?』

『おかえり。お疲れさま。食べたよ。九時消灯だから、それまでに少し話したいな』

『じゃあ先に話そう』

『電話できるところまで行くから待ってて』

 昼間の暖かい木漏れ日を思い出す。もう一度エレベーターホールに戻り、ラインでビデオ通話をした。カメラを切り替えて港を映す。地元の、砂浜がある海が見たくなった。夜は暗くて江の島の灯台の光くらいしか見えないけれど、どこまでも広がっている海。

「さっきベイブリッジが青く光ってたよ。青くなるのは何時だったっけ」

「二十四時までの毎五十分から〇分までと、毎二十分から三十分までだよ」

「ありがとう。病室から見えるの。またあとで見てみる」

「海側の部屋でよかったね」

「うん。でもエレベーターホールの方がきれいかも」

「俺も帰る前に見たよ。怜ちゃんが体重を測っているのを見届けてから」

「え。見てたんだ」

 二人で笑い合って、猫さんに代わってもらって少し話した。



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