5. gonna be nice to you
検査を受けるごとに、腹部の腫れと痛みが増す気がした。通院していても治療が始まったわけではないので当たり前かもしれない。今まで両手を当てて労っていた腫れが悪性腫瘍かもしれないと思っていることも、原因のひとつではないだろうか。座っていても痛くなることがあり、ベッドに横になって休むことが増えた。大切な体の一部、一緒に頑張っていこうと思っていた部分は、実は切除しなければ生死に関わるものなのかもしれない。それでもすぐに気もちは切り替わらず、今でも手を当て心の中で話しかける。胃さん、いつもありがとう。そして君。迷いながら。君も、いつもありがとう。
ミルを挽くとき腹筋を使うらしく、腫れているところが痛くて休み休み時間をかけてコーヒーを入れていた。同じ場所に立ち続けるのが辛いので、料理をするときも座って野菜や肉を切っていた。彼がきてくれるようになってから、とても助かっているけれど、そんな理由で結婚していいのだろうか。彼のことは大好きだけれど、自暴自棄だったのは確かだ。彼の両親の前でも、腹部に手を当ててしまうかもしれない。それ以前に、結婚してもいいのかわからないのに両親に会ってもいいのだろうか。彼はその場で証人欄のサインと印鑑をもらうつもりでいる。それから切手を貼った返送用封筒と一緒に、母のところへ婚姻届を送るのだ。
「最近な、優ししたろーと思てる」
横になっている私の肩に猫さんが寄り添う。
「猫さん、いつもありがとう」
腹部に重ねていた手を猫さんの背中に載せた。
「今日は
「ペアレンツホームねー。やらこいの、今でもえーねんけど」
「あとで。出かける前やないとお腹すくよ」
「少しだけ今、食べよう思うんやけどなー」
猫さんは私の腕に頭をぐりぐり擦り付けてくる。少し痛くて温かい。さっきまで聞こえていた雨音が止んだ。
丘の上に建つ彼の家は平屋建てで、古民家を改築したものらしかった。彼のお父さんはマンション経営をしていると聞いていたので、勝手に高層マンションの一室を想像していた。樹々に囲まれた庭のスペースに車を入れると、いつもそうしているように縁側から家に上がる彼。彼に続いて脱いだ靴を揃え、持ち歩いているジェルで手を消毒する。あまり人前で神経質なところを見せたくないけれど、今は仕方がない。開いている掃き出し窓から室内に入り彼の姿を見つける前に、大柄の年配の女の人にハグされた。ようこそ。確かにウェルカムと聞こえた。腕から解放され、自己紹介する。
「アイムエミリー、アンドアイムフロムステイツ。サトコのことはオサムから聞きました。会えてとてもうれしい」
彼は彫りが深く日本人離れしているとは思っていたけれど、アメリカにルーツがあることは知らなかった。日本人のようなダークブラウンの瞳が、彼とよく似ている。お父さんも背が高く物静かだけれど少し威圧的だった。料理の用意をしているというお母さんが「トシオはシャイだからいつもより無口になってしまった」と笑う。お父さんも彼に似た笑顔を見せた。洗面所を借りて料理を手伝うと申し出たのだけれど「今日は座っていてください、座り心地の良いソファですよ」と言われる。縁側のある部屋に戻ってきた彼の腕に二匹の猫。人見知りの子と、人懐こい子。彼のお父さんとお母さんのよう。
「お二人ともコーヒーがお好きだと伺ったので、どうぞお使いください」
地元の大好きなロースタリーカフェの豆をトシオさんにお渡しする。
「ありがとう。すてきな箱ですね。楽しみです」
黒地に黒でプリントされたコーヒーを運ぶ悪魔のロゴを見ながら、トシオさんは微笑んだ。
「まあ。ありがとうサトコ! ダークアーツコーヒーじゃない! さっそく入れたいのだけれど、もう家の豆を挽いてしまったわ」
料理の皿を運んできたエミリーも笑顔を見せてくれた。彼は器用に二枚の皿と二本のコロナを両手で運んでいる。二人は数回往復してさまざまな皿をローテーブルに並べていく。四人と二匹が座り、食事が始まった。彼はトシオさんと話し、エミリーが私に話しかけることが多かった。エミリーはトシオさんにも彼にも英語で話しかけるけれど、日本語も使えるらしい。
「サトコは英語が話せるから楽しいわ」
「それほど得意ではないです」
「十分よ。具合が良くなくなったらすぐに教えて。今日は泊まっていくんでしょ」
「いいえ。うちにも猫がいるんです」
「それはとても残念ね。なんて名前の猫なの? 猫種は?」
「猫さんというシルバータビーです」
「ミズキャット? 女の子なのね。うちのブルーベリーとブラックベリーも女の子よ。ブルーのほうがお姉さんで二匹とも保護猫なの」
「猫さんも三年前にうちに来た保護猫です」
猫さんよりもかなり早口なエミリーの英語をなんとか聞き取るのだけれど、私も楽しかった。トルティーヤにそれぞれ好きなものを挟んでタコスを作り、口に運ぶ。エミリーとトシオさんはコロナの瓶にライムを絞り入れて飲んでいる。彼と私はアイスコーヒー。アイスカフェオレをお代わりする。おいしすぎる。
「
まさに自分の実家だったら、と思っていたところだった。うれしくて泣きそうだった。
「鼻が赤いわ」
「エミリーこそ」
エミリーの大きな瞳から、ひと粒の涙が溢れた。
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