2. kinda taller than you
オスが一匹増えるだけやろ。かまへんえ、と彼女は言った。
「あんたより幾分か大きいなー」
「身長何センチだっけ」
隣にいる彼を見上げる。
「百八十二だよ」
私より二十センチ以上高いのか。
「コーヒーを入れてもいいかな」
彼がキッチンカウンターの上のミルを指差して言う。
「病院に連絡するといいよ」
「マグと軽量スプーン。私はアイスオレにする」
「俺もアイスにする。もうひとつグラスある?」
「うん。氷はこれ。アイスピックで割ってね」
病院に電話するのを後回しにしたいことを見抜かれている。でもこうしてくれなかったら今日は電話しなかっただろう。猫さんが彼の足元で「やらこいの取って」と言っている。彼はミルを回しはじめた。私がいつも一杯を一〇グラムで入れていることも豆を細かく挽いていることも、彼はわかっている気がした。私のことをよく知っていてもらえるのは嬉しい。PCを開いて聖サリエル病院を検索、トップページの電話番号をスマホに入力する。勢いでコールボタンをタップ。呼び出し音が鳴る。
「あの人、全然取ってくれへん」
「
「時間やて。人間の勝手」
ピッチャーにコーヒーが貯まっていく。くるくると円を描きながら細い熱湯をドリッパーに注ぐ彼。コーヒーの滴る音が好きだ。
「月曜日に行くことにしたよ。予約はいらないみたい」
「そう。電話お疲れさま」
「検査とかいろいろあるかもしれないって。一日休みもらっておくね」
私が体調不良でよく休むようになってから、もう一年以上になる。疲れが取れない感じが少しずつ酷くなり、慢性疲労や生理前症候群に効く漢方薬を出してもらっていたのだけれど、腹部の腫れに関しては今月に入ってからやっと病院にかかった。断酒しても、もう手遅れなのかもしれない。胃が悪いのだと思い込み、コーヒーをデカフェに変えたりディルを食事に取り入れたり、腫れの正体から目を逸らしていたのだ。
「どこの病院に行くの」
「山下町の聖サリエル病院」
「俺も行くよ」
「仕事は?」
「大丈夫。運転するから車で行こうよ」
ここから山下町まで、バスと電車を乗り継いで通うのは大変そうだった。それでも入院することになるのであれば、海が見える病院がいいと思ったのだ。見舞いにくる身内もいない筈だった。そう。結婚って、本当に? 今日は病院の後、彼とランチをして病気のことを話し一緒に帰ってきた。途中で区役所に寄って、婚姻届をもらいに行った。今年で四十歳になる彼、
「病院に行く前に籍を入れたいね。怜ちゃんの本籍地は県内?」
「そうだけど、もう結婚するの?」
「できるものなら今すぐ役所に行きたいくらいだよ」
冗談だよとでも言うかのように彼は笑顔になるけれど、あまり冗談に聞こえなかった。
「俺の戸籍に入ると怜ちゃんの手続きが大変になるから、俺が中川姓になってもいい?」
「……よくわからない。まず功くんの両親に挨拶したい」
私の両親も健在だけれど父とは絶縁しているし、生まれ育った町にいる母と妹は反ワクチンなので、コロナ禍以来一度も会っていなかった。私がワクチンを打っていることも、去年 covid-19 に罹ったことも言っていない。
「お腹すいたー」
猫さんが膝に来たのでアイスオレのグラスを奥にずらした。スマホで時間を見る。十六時。陽が長くなった。少し残しておいた猫缶の中身をよそう。後でまたカリカリをあげよう。いきなり知らない人が来たから猫さんも疲れただろう。彼に急かされたわけではないけれど、母には早く連絡したいと思っていた。病気のこと、続けて結婚のことをラインする。かなり長い文。すぐに「ちょっと言葉にならなくて 電話したいんだけど都合はどうかしら」と返ってきた。私から電話をかけ話していると、途中で母は感情的になり「どうして」と怒ったり泣いたりした。私も泣きそうになった。母を宥めていると泣かずにすんだ。なんだか立場が反対のような気もするけれど、諦めのような悲しみのようなものは透明で、感情とは真逆だった。なんとか笑顔のような言葉でお互い電話を終える。何分話していたのだろう。彼と猫さんは仲良さそうにしている。彼が勝手に持ち出した私の本を読むのを、猫さんが邪魔している。中川姓のままでいることで母は安心したように思えた。「中川」は離婚した母の旧姓で私にとっては二つ目の苗字だ。少し「余永」を名乗ってみたい気がするけれど、彼と母がいいと思うなら中川のままでいいか。アイスオレを飲み終わり、二人で婚姻届を書く。県外で妹と暮らす母と、彼の父に証人になってもらうことになり、入籍前に病院に行くことになった。外は暗くなり始めている。室内の照明を点ける。晩ごはんのことを考えた。
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