第11話 幼馴染として(3)

 どれだけ時間が経っただろう。遙が出してくれたグラスは飲み物緩くなって結露していた。昔から遙の家に行くと必ずカルピスが出てきた。かつては瞬く間に飲み干していたカルピスも、今日はまだどちらのグラスも一口も減っていない。俺はグラスを手に取って一口だけ口に含んだ。生ぬるいカルピスは甘ったるくて俺はすぐにグラスを置いた。

 遙は、何も言わずに俺の目を見ていた。いつもは目に見えて何を考えているかわかる親友の内面が、今日は霧がかかったように不透明だった。それでも、俺はまだ遙に話さないといけないことがある。


「知らなかった、山田が莉子のことを好きだったなんて」


 遙の声が重々しく響く。遙は自分に向けられた好意にも他人が抱いている好意にも鈍感なやつだった。それでいて、葛藤や後悔といった他人の内面の揺れ動きについては敏感だった。傷ついている人にいち早く気づいてその内面に敏感に共感できる。だからこそ、遙は優しい。


「知ってたよ、お前が気づいてないことなんて」


「莉子は気づいていたのか?」


 それは核心をつく質問だった。俺は少し言葉に詰まった。それこそがまさに、今から俺が遙にしないといけない話だ。


「莉子には話したんだ、俺が」


 本当の話だ。決して告げるべきではなかった想いを告げてしまった。それは遙に対する裏切りであると知りながら。そして莉子はこの街からいなくなった。

 話は中学3年の高校に上がるまでの春休みまで遡る。莉子のお姉さんが亡くなってから2週間ほど経ってから、俺はよく莉子と二人で夜中、それも深夜に電話していた。この頃の莉子はよく1時を過ぎた頃に電話をかけてきた。この時間の遙は基本的に寝ていて電話には出ない。そこで莉子は夜型の俺に電話をかけてきていた。


『きっともう遙は私のことを好きじゃない』


 莉子は電話越しによくこう言って泣いていた。この頃の莉子は精神が不安定で電話越しにそううつを繰り返していた。他にも家族に関すること、大好きだったお姉さんの話を話しては泣きじゃくっていた。俺は遙に少し罪悪感を感じたが、泣いている莉子を拒絶することは俺にはできなかった。いや、それすらも言い訳に過ぎない。結局俺は、まだ莉子が好きだったのだから。

 高校に上がる前の春休みの登校日、俺は朝まで莉子と電話して寝不足のまま学校へ向かった。行きの電車ではいつも遙に会うのだが、その日は電車に乗っていなかった。俺は違和感を抱えたまま学校へ向かった。その日、遙は学校にこなかった。俺はその日の夜、連絡事項などを遙に伝えに行った。遙の家がある隣のマンションまで行くと、一階のエントランスに遙がいた。てっきり風邪か何かだと思っていたが、どうもそうではないらしい。その日の黒一色で統一された遙の私服はなんだかいつもよりも気品があり、心なしか纏う雰囲気もどこか違っていた。


「遙、なんで今日学校来なかったんだ?」


「学校? 登校日だったのか。忘れてた」


あの真面目な遙が登校日を忘れる。これは俺の知っている遙からはありえない行動だった。一体、卒業式からの数週間で何があったのだろうか。


「何してたんだ?」


「莉子にあってた、さっきまで」


想像通りの答えだった。ただ、この日の遙は言葉が無愛想でいつもの遙らしくなかった。


「なんかあったのか?」


「なんもないよ」


そんなはずはない。ほとんど毎晩にわたる莉子との会話から遙と莉子の間に何かがあったことくらいは俺でもわかった。


「莉子は元気か?」


「元気だよ、少なくとも僕の前では」


今日初めて遙が俺の方を見た。遙の眼光がいつになく鋭く、遙に全て見透かされているような気持ちになった。俺は慌てて学校の連絡事項だけを伝えて逃げるように帰った。

 その日の1時過ぎ、莉子からまた電話がかかってきた。その晩の莉子はやけに上機嫌だった。


『遙がね、ずっと行きたいって言ってたレストランに連れて行ってくれたの』


『そうなんだ、よかったじゃん』


 今日は、本当は俺たちの高校の登校日だけどなとはいえなかった。俺は莉子に何を求められているか知っていた。ただ、話を聞く。俺はそれだけでいい。それだけで俺は満足だったしきっと莉子はそれ以上のことを俺には求めていない。


『だけどね、遙は楽しそうじゃないんだ。いつもの笑顔じゃない』


始まった。いつもの話だ。いつもは莉子のこの話を聞き流していた。だが、今日直に遙に会った俺は莉子の感じている違和感がわかった。遙と会うのは卒業式以来だったが、今日の遙はなんだか無愛想で少し恐怖すら感じた。


『今日、俺も遙に会ったんだ』


『え、そうなの?どこで』


『多分莉子とレストラン行った帰りの遙の家の下。莉子の言ってる意味わかったよ。なんだか、あいつの様子おかしいな』


いつもは話を聞いて相槌を打つだけだったが、今日は少し踏み込んでみた。莉子ときちんと会話がしたかった。


『多分、私のせいだよ。私に気を使ってくれてるの。遙は優しいから』


そうだ。遙は優しい。だからこそ、あいつは自分を顧みずに莉子にどこまでも尽くしてしまう。それこそ、真面目な遙が学校の登校日すら忘れるほどに。それが遙の良さだとは思う。けれど、同時に遙は致命的に正しいのだ。遙の考えはいつだって理想的で、暗がり一つなくて透き通っている。ただ、その曇りのなさは時に人を傷つける。莉子が直面している辛い状況はどうにかして変えなくてはいけないことで、それを変えることこそ自分の役目だと。遙はきっとそう思っている。けれど、それは傲慢ではないだろうか。悲しい人、辛い人が元気になることはいいことだ。だが、それは元気にならなくてはいけないということではない。悲しい時は悲しめばいい、辛い時は辛くていい。けれど、その感覚が遙には欠落している。だからこそ、莉子は遙の前で悲しめない。俺は今日の遙の鋭い眼光を思い出した。あの目の前では莉子はずっと辛いままだ。遙に対する形容仕様のない思いが込み上げてきた。


『莉子、遙と別れろよ』


やめろ。莉子はそんなことを言ってほしいわけじゃない。莉子が遙のことが好きなことなんて俺が一番知っている。電話越しの莉子は黙ったままだった。もう何も言うべきではないことは俺が一番知っていた。だけど、言葉が溢れて止まらなかった。


『遙といても辛いだろ。あいつは優しいよ。けど、あいつの前じゃ莉子は悲しめないだろ』


『そうだとしても遙がいない方が辛いよ、私にはもう遙しかいないの!』


莉子が電話越しに絶叫した。声は涙に掠れている。こんな莉子は初めてだった。けれど、俺は踏みとどまれなかった。何よりも莉子の視界に遙しかいないという事実を俺は許せなかった。


『俺がいるだろうが』


俺も絶叫した。電話越しの莉子の嗚咽が止まった。深夜の俺の部屋は不気味なほど静まり返ってスマホの明かりだけが暗中の部屋を照らす。


『ふふ、ありがとう。山田はやっぱり優しいね。』


声を涙で震わせながら莉子が言った。違う。俺は優しくなんかない。俺が本当に優しいならば、踏みとどまったはずだ。いつも通り莉子の話を聞いて慰めて、遙の元へ送りだす。それこそが、俺の幼馴染としての役目だったはずだ。どうして俺は役目に徹することができなかった。俺が何かを言う前にすでに電話は切れていた。電話中だったスマホの明かりが消えて俺の部屋は暗転した。

 その翌週、莉子はこの街からいなくなった。遙からそれを聞いた俺は、慌てて莉子に連絡した。


『どこにいるんだ?』


遙から莉子と連絡がつかなくなったと聞いた時には最悪を想定したが、幸い俺が送ったLINEにはすぐに既読がついて、返信がきた。


『引っ越すことになった、おばあちゃんの家』

『遙には黙っててほしい、これ以上遙に負担をかけたくないから』

『山田も今までありがとう、もう大丈夫だから』


俺は莉子が遙から離れるきっかけを作ってしまった。俺は莉子が遙のことをどれだけ大好きか知っていたはずなのに。そして莉子は遙に負担をかけないように自分からいなくなった。それがたとえ莉子にとってどれだけ辛いことだったとしても。お互いのためにどこまでも無理してしまうところが、あの二人はよく似ていた。

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