第8話 遙と莉子(2)

 莉子がもう一件行きたかったお店とは、僕らが中学生のころに行ったカフェだった。このカフェがチェーン店であったことを、僕は高校生になってから知った。もしかしたら莉子は当時から知っていたのかもしれない。日曜日の駅前のカフェは混んでいたが、すぐに窓際の席が空いて僕たちはそこに座った。


「懐かしいよねここ」


注文したコーヒーを飲みながら店内を見回して莉子は言った。昔はカフェラテしか飲めなかった莉子がコーヒーをブラックで飲むことが、僕に5年という月日の長さを感じさせた。


「そうだね」


「あの頃は遙が色々なところ連れて行ってくれたよね、楽しかったな」


その楽しかったが嘘なのはわかった。あの頃の君に楽しむ余裕がなかったことくらい僕は知っている。けれど、そんなことは言えなかった。


「楽しかったね」


結局僕はそう言った。いつだって口をつくのは相手を傷つけないような上部だけの言葉で、僕は何も伝えたいことは言えないままだ。


「あれから彼女できた?」


「いや、できてないよ」


「そっか、嬉しいけど少し悲しいね」


莉子は僕の目を見ない。窓の外、交差点でごった返す人混みを眺めている。この姿は5年前桜さんがいなくなってからの彼女ととてもよく重なった。莉子が僕の目を見なくなったのは、多分桜さんが亡くなってからだ。


「嬉しいんだ」


「うん、まだ好きだから」


心臓がどくんとした。僕はなんて言えばばいい。店内に流れる音楽も隣の女子高生の雑談も聞こえなくなった。まるで店内が静まり返ったように感じた。莉子はまだこっちを見ない。余裕がないことを隠したい僕はなんとか言葉を選んだ。


「ありがとう、僕も好きだよ」


本心かはわからなかった。莉子が大切であることは僕にとって嘘偽りのない本心だ。だが、それは果たして恋愛的な意味なのか今の僕にはもうわからなくなってしまった。自分に言い聞かせるように僕は続けた。


「僕が小学生の頃、塾で勉強を頑張っていたのは君に格好つけるためなんだ。塾に莉子がいるから僕は塾に行っていた。今の僕があるのは全部君のおかげだ」


これは本心だ。僕の心の奥底の嘘偽りのない本音。けれど、だからこそ、好きだとか、愛しているだとかは言えなかった。


「知ってたよ、ありがとう」


莉子は笑ってそう言った。莉子が知っていることを僕は知っていた。莉子とは物心着く前からの付き合いだ。きっと莉子は僕の心の奥底の僕の知らない部分まで見透かしているだろう。僕が莉子の本心をなんとなくだがわかるように。


「なんで急にいなくなったのって思ってるよね?」


それは莉子に僕が聞きたくてもずっと聞けないことだった。僕は手を止めてコーヒーカップをソーサーにおいた。陶器特有の甲高い音が耳に響く。


「あの時私ね、おばあちゃんの家に行くことになったの」


「お父さんとお母さんと一緒に?」


莉子はゆっくりと首を振った。


「お姉ちゃんがいなくなってからすぐはね、お父さんもお母さんも頑張ってくれてたんだ。けど、お姉ちゃんの手紙を見つけて中を見たらまいっちゃったみたいで。どんどんおかしくなっていって、二人とも部屋から出てこなくなっちゃった」


お姉さんが亡くなってからの莉子の両親の状況は僕の父伝いに知っていた。僕のお父さんと莉子のご両親は高校の同級生だ。桜さんが亡くなった後、父は二人を案じていた。ただ、桜さん手紙については僕も初めて聞いた。達規さんもそんなことは言っていなかった。


「それっていわゆる、遺書みたいなもの?」


僕はおそるおそる聞いてみた。莉子はまた首を振った。


「お姉ちゃんがいなくなる前の日に、私がお姉ちゃんに達規君が家に来ていたこと話しちゃったの。それで理由はわかんないんだけどお父さんとお姉ちゃんが大喧嘩しちゃって」


僕はその理由を知っていた。きっと達規さんの転勤の話だ。


「引き出しの中に入ってた手紙には家を出て達規くんのところに行くこととか、今までありがとうとかそんなことが書いてあったの」


桜さんのご両親の気持ちを考えるだけで心臓が締め付けられるような気持ちになった。


「優しいお姉ちゃんがあんなに怒ったの初めてで、びっくりしちゃって何も言えなかった。でも私が話したせいであの日から家族みんなバラバラになっちゃった」


莉子の声が涙でかすれた。自分の大きな誤解に気がついた。僕はずっと莉子はお姉さんが亡くなってしまったこと、そして両親が塞ぎ込んでいることに落ち込んでいるのだと思っていた。でもそれは間違いだった。莉子は責任を感じている。姉の死、そして家族の崩壊の責任を莉子は全て背負っていたのだ。その責任の重さは僕には計り知れない。そして、愚かな僕はそのことに今まで気がつかなかった。


「そんな時にね、遙が来てくれたんだ」


莉子がこっちを見た。今日初めて目があった。彼女の目にはまだ涙が溜まっている。


「遙があのとき私を励まそうとしてくれたの、嬉しかったんだ。いろんなところに遙と行けて本当に嬉しかった。今でも鮮明に覚えてる。ライブハウスとか高いビルの上のレストラン、このカフェだってあの時行ったよね。」


今度は、莉子は楽しかったとは言わなかった。そして、嬉しかったことがきっと本心であることも僕は知っている。


「でも、遙は楽しくなかったでしょ?」


そうかもしれないと思った。あの頃僕は莉子を励ますことに一生懸命だった。彼女を元気付けようと一緒にいる時にずっと気負っていたかもしれない。


「遙の気持ちが日に日に私から離れていくのを感じてそれが辛かった。でも、立ち直らなきゃって思うほど追い詰められていって。遙の優しさが嬉しいのに、遙に無理させてる自分が嫌になって、遙にどう接していいかわかんなくなっちゃった」


「それで、僕から離れたの?」


莉子はゆっくりと頷いた。頭が痺れて、動悸が止まらない。僕にはそんなつもりはなかった。ただ、やっぱり僕のせいだ。僕が莉子をさらに追い詰めた。あの時僕がしなくてはいけなかったのは、無理して莉子を励ますことではない。ただそばに居る。そんなありふれた選択でよかったのに。僕は莉子が以前の莉子に戻ることを無意識に望んでいた。彼女に幸せそうに笑って欲しかった。ただ、それは僕の欲望で僕の自己満足でしかなかった。


「そっか」


僕はようやく返事をして、莉子の顔を見た。泣き腫らして目は赤く腫れ、頬には涙が伝っている。僕はコーヒーカップを手に取った。飲みかけのコーヒーは冷め切っていて苦味が強く、一気に飲み干した。今まで飲んだどのコーヒーよりもそれは苦かった。

 僕たちは、再び混雑してきた店を出て僕らの地元の駅まで歩いて帰ることにした。電車に乗れば20分の道のりを僕たちは2時間かけて歩いた。閑散とした商店街や、名も知らぬ街の住宅地。見たことのない町並みに不思議な親近感を覚えた。道中、僕たちは別れを惜しむように昔の楽しかった思い出について語った。中学受験の塾や、小学校の卒業式や、僕が莉子の身長を抜かしたときについて。僕らには確かに大切な思い出があった。2時間はあっという間に過ぎ去って、地元の駅に着いた。あたりはすっかり暗くなっていて街灯の暖色の灯が僕らを照らす。駅から少し歩いた交差点で僕らの帰路は分かれる。


「じゃあね。元気で」


帰路が分かれる交差点の信号で僕から言った。歩行者信号はなかなか赤のまま変わらない。莉子は前を向いたまま僕の手をした。


「優しいハルくんが好きだよ」


莉子は最後にもう一度僕のことをハルくんと呼んだ。信号はやがて青になって昔の彼女の家とは反対方向へ莉子が歩き始める。僕たちが一緒に歩けるのはここまでだ。


「ありがとう。僕にとって君は一番大切な人だ」


僕はささやくような声で言った。聞こえたかどうかはわからない。だけど、それでいい。きっと莉子はこのことも知っている。伝えたいことは伝えられた。もう悔いはないはずなのに視界が滲んで歩けなかった。信号は青色のまま僕を待っている。足がふらついて、ポケットに入れていたスマートフォンが落ちた。拾い上げようとして僕は信号機の前で座り込んでしまった。画面に映る僕の顔はひどい顔だった。僕の顔を写したスマートフォンが明るく光った。あの日以来、1通も来なかった莉子からのLINEだ。通知画面にはただ一言『ありがとう』とだけ表示されていた。これでよかったんだとそう思えた。僕らの好きは決定的に食い違っている。だからこそ、もう一緒にはいられない。

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