第7話 遙と莉子(1)

 目を覚ますと8時半だった。昨日莉子とした駅前に10時の待ち合わせにはまだ少し時間がある。スマートフォンを開くと、山田からの不在着信がきていた。昨日は電話をすると言っていたことをすっかり忘れて寝てしまった。だが、山田に電話をする時間はなかった。僕はスマートフォンを閉じて顔を洗った。リビングへ行くと、日曜日にもかかわらず仕事に出ている母が今日も律儀に朝ごはんを置いておいてくれた。厚切りのベーコンエッグ、カットトマトとトースト。テーブルの上に無造作に置かれたそれは、母がいつも作り置きしておいてくれるメニューだ。代わり映えのしない朝食だが、今日はいつもより美味しく感じた。朝ごはんを食べ終えると家を出る時間になっていた。

 僕は時間ぴったりについた。週末の駅前は待ち合わせの人に溢れていた。大学へ向かうときはいつも人群れをすり抜ける僕も今日はその群れに加わった。怒るほどでもない遅刻をする悪癖は健在で莉子が駅前に現れたのは10時10分のことだった。ただ、この駅の前で莉子を待つこの感覚すら懐かしく、心地よさすら感じた。ただ、昔と同じでないこともあった。黒のワンピースにグレージュのショートブルゾンを羽織った莉子はまるで人形のような儚さと綺麗さを纏っていた。服には無頓着で制服以外でほとんどスカートすら持っていなかった中学生の莉子とは全く別人の印象だった。

 水族館まではこの駅から在来線を2回乗り換えて30分でついた。莉子が前日にオンラインでチケットを買っておいてくれたらしく、チケット売り場に並ばずに入館できた。


「すごい!いっぱい魚泳いでる!」


莉子は子供のようにはしゃいで水槽から水槽へ次々歩いていった。一通り回ってから、目玉展示であるシャチがお気に召したらしく、シャチの骨格標本や生体の説明文を読んではしきりに写真を撮っていた。


「シャチって怖いね、自分の何倍も大きいくじらも食べちゃうんだって」


「うーん、小さい群れで世界中を泳ぎ回るシャチは獰猛で人も襲うんだけど。大きな群れを作ってるシャチは基本的に温厚で魚やイカしか食べないんだ」


 シャチには大きく回遊型と定住型のシャチがいて、回遊型のシャチは獰猛で世界中の海を泳ぎ回り鯨などの大型の哺乳類を餌とするのだといつかのテレビの特集でやっていた。僕はこれを見た時、人とは真逆の生態だという感想を抱いた。人間は群れれば群れるほど態度が大きくなる。そして同時に同調圧力のようなものにひどく怯える。数の少ない人間はいつだって大人しくしなければならなくて、ただ多数派の目に見えない圧力に背かないように生きていかなくてはならない。僕はこうした目に見えない圧力のようなものがひどく嫌いだった。ただ、もしかすると回遊型のシャチも閉塞的な群れが嫌になって抜け出したのかもしれないと思うとどこか親近感が湧いた。だが、僕は彼らのように獰猛にはなれない。


「ねぇ、聞いてる?」


莉子が不機嫌そうに僕の肩を小突いた。僕はシャチの水槽の前でぼんやりとしてしまっていたらしい。


「ごめん、ぼーっとしてた」


「シャチのショー始まるよ!行こ!」


シャチのショーは人気らしく前の方の席は既にいっぱいになってしまっていて、莉子がやや不機嫌になってしまったがショーが始まると莉子の機嫌はなおっていた。シャチは前の浅い台の上で芸をしたり、飼育員さんを乗せて泳いだりしたのち大ジャンプを決めて見せた。シャチのジャンプで盛大に上がった水飛沫は前列に降り注ぎ、真ん中くらいの僕たちの席まで届こうかという勢いだった。


「こればっかりは遙に感謝!この服お気に入りだから、あぶなかったー」


 莉子は水飛沫に大袈裟に飛びのいて、僕の後ろに隠れながらそう言った確かに前列の惨状を見ると、あと3列前に座っていたら着替えが必要になること間違いなしだった。


「僕に感謝というか、空いてたら前に座るつもりだったのかよ。水濡れ注意って書いてあるじゃん」


僕は半分呆れて莉子に言うと、莉子の目が泳ぎ始めた。昔と同じ、何も考えていない時の顔をしていた。

 シャチのショーは大盛況のうちに終わった。シャチは最後にステージの上に登って、やり切ったという感じでまた奥の展示用の水槽に戻って行った。その後、水族館のレストランでお昼を食べた。水族館のレストランは水族館だからか海鮮系のメニューが多く、僕は鯨カツなるものを注文した。


「それ鯨?」


「そうだよ」


「ええ、鯨ってさっきまで見てたシャチの仲間みたいなもんだよ」


 莉子は咎めるような目で僕の鯨カツを見て言った。確かに水族館で海鮮系のメニューが豊富なのは不謹慎かもしれないなと思った。僕は鯨のカツを一口齧り莉子を真っ直ぐに見据えた。


「一口食べる?」


冗談でそう聞いてみた。


「うーん、食べる」


 いや、食べるのかよ。というか、莉子の手元をよく見ると鯛の刺身だった。ある意味、鯨カツよりタチが悪いのではないだろうか。僕は、笑いながら鯨のカツを一切れ差し出した。

 昼食を食べた後、1時間ほど時間を潰してその後のイルカショーを見た。イルカショーは1匹のみのシャチのショーとは違い、何匹かのイルカが飛び回る形でシャチのショーとは異なる凄みがあった。


「この後なにか予定ある?」


 莉子が僕の袖を引っ張って聞いてきた。


「今日は特にないよ」


「もう一件、行きたいところあるんだけど、いい?」


「もちろん」


僕が莉子に行き先を聞かなかったのは、きっとどこだろうと行くと答えるからだ。

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