第4話 桜と達規

僕は一体何をしているのだろうか。どうして飲みに行こうだなんて誘ったのか。10歳も歳下の遙に一体何を期待しているのか。自分でも何がしたいのかわからなかった。だけど、公園で再開した遙はどこか僕と同じような雰囲気を感じた。だから、話したくなってしまったのかもしれない。


「それで、今日は何をしていたんですか?」


遙の目の色が変わった。話の本質を遠ざけ昔の話に逃げる僕を責めるかのような眼差しだった。諦めの悪い僕はほんの少しだけ猶予が欲しかった。


「そうだね、少し長くなるけれど聞いてくれる?」


グラスに残るビールを飲み干す。ビールはとうに気が抜けていて、口の中に苦味だけが広がる。度のあっていない丸眼鏡を外した。遙は僕の心の準備を待つかのようにレモンサワーを口に含んだ。酒の力を借りなければ話もできない自分が情けなかったが、例えそうだとしてもここまできて向き合わないことよりはるかにマシだと自分に言い聞かせる。僕はようやく覚悟を決めた。


「僕はね、桜の墓参りに行きたかったんだ。」


桜のお墓は自動搬送式納骨堂といういわゆるマンション型のお墓で、お墓参りには専用のICカードが必要だった。参拝には桜のご両親にICカードを貸してもらうか一緒に来てもらうしか方法がなかった。そして、僕は桜のお墓に行ったことがない。今日、僕は桜のご両親にそのお願いをしにきたのだ。


「なぜ5年経った今更お墓に行こうと思ったんですか」


「特にきっかけがあったわけじゃないよ」


ただ、向き合わないといけないことから逃げ続けるのに疲れてしまっただけだ。だから、覚悟もなかった。その結果がこの居酒屋だ。


「僕はお墓に行って桜に謝りたかったんだ」


 5年前、僕と桜は結婚直前だった。桜が電車に飛び込んだのは、僕が桜にプロポーズしてからちょうど半年が経った日だった。僕と桜は高校の同級生で付き合い始めて、8年の記念日にプロポーズした。あの日、桜は泣き崩れて化粧もぐちゃぐちゃになっていたが僕にとっては8年間で1番の笑顔だった。僕は浮かれていた。彼女と幸せになることを一切疑わなかった。しかし、桜の顔から笑顔が消えたのはその翌月だった。桜は筋萎縮性側索硬化症と診断された。聞いたこともない病気だった。すぐに桜の病気について調べた。ただ、病気のことを調べれば調べるほど、僕は現実を受け入れられなくなった。桜の病気は原因不明で治療法が確立されていない難病であること。桜の体が徐々に動かなくなっていくこと。発症してからの平均予後が3.5年で発症から3ヶ月以内に死亡する例も存在すること。桜との思い描いていた未来が全て閉ざされたような気がした。そんななか、僕に会社から大阪にある本社への転勤の打診がきた。その頃の僕は社会人2年目で、成績も上がってきた頃だった。仕事に生きがいを感じていた。そんななか、本社への転勤は本来願ってもないことだった。しかし、桜の病気のこともあり僕は決めることができなかった。愚かな僕は後先も考えず、桜に転勤のことを相談してしまった。


「大阪の本社に行かないかって打診がきたんだ。」


桜は一瞬驚いて、すぐに喜んでくれた。


「良かったじゃん!前から言ってた、出世コースだね」


「でも君の病気のこともあるし、断ろうと思うんだ」


いつ体が動かなくなるかわからない状態で、頼りのいない大阪へ彼女を連れて行くのは心理的に負担を増やす。僕は桜を連れて行くことは不可能だと分かっていた。


「大丈夫だよ、行っておいで。私は大丈夫。調べたんだけど、発症してから10年経っても元気な人もいるんだから」


僕はすぐに後悔した。また桜に励まされている。本当なら、僕が彼女を励まさなくてはいけないのに。僕は転勤の話を断ろうと思った。高校生の頃から、僕を支えてきてくれた桜を今度は僕が支える番だ。だが、僕はそれを叶えることはできなかった。

 桜に転勤の話をした翌日、僕は彼女のご両親に呼び出された。


「呼び出してしまってすまないね達規くん」


桜のお父さんは、結婚の挨拶の時に一度あっただけで会うのはこの日で2回目だった。一度目はお互い緊張していたのか、桜を介してしかあまり話せなかったがそれでも僕は優しいお父さんという印象を抱いていた。しかし、この日の印象はかなり違っていた。眼鏡の下から覗く眼光は鋭く、怒気さえ帯びているように感じた。


「達規くん、大阪に転勤になるっていうのは本当かい?」


「いえ、僕は断ろうと思っていて」


「そうか。いや、桜がね、君について大阪へ行くと言い出したんだ。理由を尋ねたら、君が大阪の本社に転勤になると聞いてね」


声が出なかった。自らが犯してしまった最大の失敗に気がついた。桜がそう言い出すことも僕は分かっていたはずだったのに。


「君も桜の病気のことは知っているだろう。これ以上あの子に負担をかけないでやってくれないか」


桜のお父さんは、ため息まじりにそういった。僕の浅はかさを見透かされているようだった。そして、僕は何も言い返せなかった。何秒かの沈黙の後、桜の妹の帰宅でその場はお開きになった。その日以来、僕はあまり桜に連絡をしなくなった。仕事が忙しいとか、そういう都合のいい理由を探しては彼女に会いに行くことを避けた。一生そばにいる約束をしたのに肝心な時には役に立たない、それが僕だ。こんな僕と8年も付き合ってしまったことが桜の最大の不幸だと、今となってはそう考えてしまう。

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