第一話 邑﨑キコカ(その七)
力任せに引きずり込まれると、叩き付けるような勢いで戸が閉められた。まるで外から来るモノを全て拒むかのような勢いで。
締め切られ閉ざされた途端、ボクはむせ返るような異臭と生臭さに、思わず鼻と口元を覆った。
な、なにこの臭い
鼻腔を直に炙り、脳天に突き抜けるかのような悪臭だ。むせ返って思わずたたらを踏んだ。
明らかな腐臭だった。それも暴力的と言って良いほどの。臭いがキツ過ぎて頭がくらくらした。声を出すことすら憚られ涙すら滲んできた。吐き気を催すどころの話ではない。喉元まで込み上げてきた胃液を堪えるのが精一杯だった。
明かりが無くて自分の靴先すら見えぬほどに暗い。だが、窓から入ってくる星明かりだの路地に立つ街灯から微かに差し込む明かりだの、そういったぼんやりとした光のお陰で、隣に居る委員長のシルエットくらいは見て取ることが出来た。
しかし、この教室の中がどんな状況なのかがさっぱり分からない。
電灯のスイッチは何処かと手探りで壁を撫でるのだが、「見ない方がいいわ」と彼女は小声で囁く。
「ボクに、その何かを見せる為に此処へ呼んだんじゃないのか」
むせながら声を絞り出した。
「きみのことを思っての事よ。ショックを受けずに済むのなら、それに越した事はないからよ」
「委員長、何を言って?」
ボクの問い返しに返事は無くて、その替わりに手首を握る力に圧が増した。とても一介の女子とは思えない剛力で思わず呻き、更にぐいと引き寄せられた。ぐちゃりと何か濡れた肉を持ち上げるような異様な音と共に、委員長のシルエットが変貌を遂げた。
暗がりの中でも窓からの微かな明かりが逆光になっている。タコかイソギンチャクのような触手が手を開くかのように拡がってゆく様が見えた。それがゆっくりとボクの顔目指して覆い被さってくるのだ。ぱたぱたと何かの滴が頬に落ちてきた。酷く生臭い吐息が顔に吹きかかる。
そして、
大きな破裂音と共にボクは突き飛ばされていた。
と同時に、それまでの静寂を突き崩す高らかな笑い声が耳を突く。
「あはははははっ」
底抜けの哄笑だった。
楽しくて楽しくて仕方がないといった風情が在って、それは余りにも場違いだった。異臭と陰鬱な闇にと埋め尽くされた教室へ、それは無遠慮なまでに響き渡るのだ。
げらげらと楽しそうに笑いながらもその声の主は今、ボクと委員長との間に割って入って立ち塞がっている。
「チャチな結界だ。こんな子供のお遊びみたいな代物が、あたし相手に役に立つとでも?」
叩き付ける啖呵に委員長であろうシルエットが惑い、尻込むような気配があった。
まだ真っ暗で何も見えないが、間違いなくコレは邑﨑キコカである。
だが何を言っているのかさっぱり分からない。分かるのは声とシルエットと威勢の良い気迫だけだった。
「君堂くん、トラウマになるかも知れないから目は瞑っておいた方が良いわ」
その台詞が終わるか終わらないか。だん、と壁を叩かれたと思しき音が響いて、いきなり目の前が明るくなった。あまりに唐突だったので、目の前でフラッシュでも焚かれたかと思った。
が、何と言うことは無い。ただ天井の電灯が点けられただけの話だ。眩しさに目を眇めて辺りを見回した。
だが次の瞬間、見なければ良かったと思った。暗いままであった欲しかったと後悔した。此処はあまりにも酷い有様だったからだ。
最初それが何なのか分からなかった。
床一面に茶褐色の染みが無造作に塗りたくられていた。
元が何だったのか判別も付かぬほどに引き裂かれ、千切られたカタマリがあちこちに転がっていた。赤黒くて生々しい色合いもちらほらと見て取れたから、恐らく生き物の死骸なのだろう。だがそれ以上の事は分からない。ただそれらが腐って、この猛烈な臭いを発しているのだろうという事は理解出来た。
だがその程度だった。とてもではないが此処が自分の通っている学校、その一角とは到底思えなかった。
そして目の前に居る、多分委員長であったのであろう異形の生き物の事もだ。
それはもう人じゃ無かった。
ジーンズやパーカーは確かに彼女が着ていた衣服であったが、首から上がまるで違う。エビだかカニだかよく分からない足みたいなモノが飛び出し、或いはぎざぎざのハサミだのイソギンチャクみたいな触手だのがデタラメに生えた悪趣味なオブジェ。今までボクが見たことが無い何かだった。
そしてその片腕が千切れているという事も含め、その姿は痛々しいというべきなのか、それともおぞましいというべきなのか。傷口から赤黒いドロドロとした体液が糸引き、床に滴るさまは見ていて気持ちのいいものじゃない。
「こ、この有様っていったい・・・・」
「あーあー、見ない方がいいって言ったのに。それはそうとそこな女生徒だったモノ、これだけのことやっといて只で帰れるとは思ってないよね」
「わたしの邪魔をしてふざけた物言い。只では済まないのはそっちでしょ」
止めてくれと思った。触手の中央部がねちねちと蠢いて、出てきた声は委員長の声そのものだったからだ。
次の瞬間、ボクの視界は横殴りに吹っ飛んでひっくり返った。腰が生暖かいが力強い何かに締め付けられたまま振り回されて、両足が宙ぶらりんに浮いていた。
自分の身体が邑﨑キコカに腰だめで抱え上げられていると知ったのは、大丈夫かと彼女に声を掛けられてからのことだった。
慌てて周囲を見る。ここはさっきまで立って居た場所じゃない。教室の反対側の片隅だ。
どうやら彼女はボクを抱えたまま、瞬時にここまで移動したらしい。
一瞬のことで何が何だか分からなかったけれど、どうやら彼女が助けてくれたらしい。何しろつい今し方までボクが居た場所には、何本もの触手だのハサミだのが突き立てられていたからだ。
あのまま彼処に立って居たら、間違いなくアレで串刺しだった。
「それからお気に入りなのかもしれないけれど、その左腕にくっついてる手首は外した方がいいわね。腐ってきたら結構臭うわよ」
言われて初めて自分の左腕を見て、今度こそ絶句した。千切れた委員長の手が、今もボクの手首を握ったままだったからだ。
そしてそこで初めて、どうやって彼女がこの教室に入って来たのかも知った。扉が吹っ飛んでいて大きな開口部が空いていたからだ。
「コレを片付けるからちょっと待っててね。なに大して時間は掛からない、すぐにお家へ帰れるわ」
そう言って、にっと笑いかける彼女の顔には、手術の跡と思しき幾つもの縫合線が浮かび上がっていた。そしてボクを床に下ろすと相手に向き合い、「いらっしゃい」と言った。
「あんたみたいな雑魚じゃあちょっと物足りないけれど、まぁ遊んであげるわ」
お気楽で面白がっている風情があった。
挑発されて触手がうねる。全体が膨らみ上がって二回りは大きく見えた。
多分ソレは叫び声を上げたかったに違いない。でも声は聞こえず、何も響いてはこなかった。代わりに聞こえたのは何か潰れるような音だけ。見れば顔の中央に棒状の何かが生えていた。
え、モップ?
それはつい今し方まで邑﨑キコカの左手にあったモノだ。
深々と突き刺さっていて先端が頭の反対側に跳び出していた。打ち込まれた反動で仰け反ってたたらを踏み、必死に抜こうとしている。だが抜くことが出来ず、ただ苦しげに身悶えしているだけだった。
彼女が投げたモノに間違いない。
だけどいつの間に。
まるで見えなかった。ボクはほんの真横に居たというのに。
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