(4) 余韻

 人生で初めて(多分)任意で女子に名前を呼ばれた気がする。もうそれだけで有頂天になれた。こんなに楽しくなったのはいつぶりだろう。

 夕食を食べ終えて幾分か冷静になってきた。それで今日のことを整理しようとした時だった。

〈ピロン〉

 と軽快な音が響く。

 逸る心臓をそっちのけでスマホを点けると……。

『今日は来てくれてありがとうね』

 その文字を見た瞬間思わず声が出そうになった。

 こんな気分になったのは初めてだった。震える指で文字を打つ。

『こちらこそありがとうございます』

 そんな定型文しか思い浮かばなかった。会話もある程度本を読んで理解していたつもりなのだが、緊張しすぎて頭に霧がかかったみたいになって何も思い浮かばなかった。

『いえいえ。じゃあ、また明日よろしくね』

 それと同時におやすみスタンプが送られてきて、なんとも言えない喜びがこみ上げてきた。

 こんなにラインが楽しいものだなんて初めて知った。翼とはラインを余りしていなかったからかもしれないけど。

 翼とはほとんど直接会って話していた。本人の希望だ。彼はできれば面と向かって話したいと言っていた。だが学年が変わり少し疎遠になってきていた。彼は陸上部で放課後は日々練習に励んでいた。去年彼はよく帰ったら時間がないとぼやいていた。だからぼくからはラインをしなかった。絶対に迷惑をかけたくないし負担にもなりたくなかった。そうすると必然的に会話をする機会も一年の時と比べがくんと減っていく。

 そんな中、疎遠になりたくない思いと迷惑をかけたくない思いで葛藤して無意識にコミュニケーションツールであるラインを嫌い遠ざけていた。

 でも、そんなぼくが、こんなに楽しく思えるなんて、夢のようだ。

 彼女のお陰で何かが変わろうとしていた……気がした。


 風呂に入りながら今日あったことを思い返していた。

 どうして彼女はぼくを選んだのだろうか。結局訊けないままだった。

 彼女は「死」についての小説を書きたいと言っていた。ならなぜぼくなんだ? ぼくが死にそうに見えたのか。でもそれはあながち間違えではない。だって教室では目が死んでいたと思うから。楽しくないし退屈だし、むしろ苛立ちを覚えてくるあの環境で笑えって方が無理だ。

でも、まてよ、だとしたらぼくが「死ねますよ」って言った時なんであんなに動揺していたんだろう。それを考えると死にそうとは思っていなかったのか。だとしたら、なぜぼく? いや、動揺したのは、ぼくが本当に死ぬとは言わないと高を括っていたのかもしれない。

 ……それについては考えるだけ無駄だ。次だ、次。

 そういえば、翼と彼女は何か接点があるのだろうか。翼は何も言ってなかったのにな。もしそうだとしたら秘密を隠されていたみたいで悲しい。いつか会ったら確認してみよう。

 今日で一番嬉しかったこと、それは名前を呼んでくれたことだ。もうそれだけでぼくは死ねる。覚えててくれた上に呼んでもらえるってもう罰が当たるぞ、これ。

 ふと彼女の姿が浮かんできた。あの時は感じなかった髪の香りがなぜか今匂ってきた。きっと記憶のせいだろう。実際にするはずがない。でも、確かにいい匂いだったな。でも、それだけだ。他には何もない。もちろん、邪な気持ちも――

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