第48話 奪還④

『本当に死んじゃうよ、もうやめて!』


 必死で叫んだが、安心するような言葉を返してはくれない。ただ切なげに、見たことがないほど優しい顔で微笑んでいる。


 彼は、尖った蛇の鼻先を壁に寄せてきた。

 公花もつられて、小豆のような鼻を寄せていく。


 壁越しに互いの鼻先をくっつけて――。


 けれど透明な壁が、直接に触れ合うことを阻んでいる。

 すぐそばにいるのに、触れられないのがもどかしい。ただ、想いが伝わるようにと、見つめ合うだけ――。


(ずっと昔にも、こんなことがあったような気がする……)


 ――ひとりには、ならない。ずっと一緒だ――


 どこかで聞いた声が、頭の中に響いた。


 目を閉じて、心の奥に耳を傾ける。

 一滴のしずくが水面に落ち、弧が広がった。

 わずかな揺れは、やがて大きな波となり、噴き上げる奔流となって――。


 公花の中で、なにかが動いた。


 めくるめく過去の記憶。遥かなる時の中に置いてきた、愛しい日々の思い出の欠片たち――。


「バチバチとうるさいこと。もういいでしょう」


 懐かしくて温かい気持ちに、まだ浸っていたかったのに――。

 不躾な敵の気配が、背後に迫った。


『公花! 逃げ……公花?』


 公花は、まだ目を閉じていた。

 そこだけ音のない、別世界にいるかのように。


 少し微笑んだように見える無垢なハムスターの立ち姿は、見る者に聖獣のような畏敬の念を抱かせたとか、そうでもなかったとか……。


 やがて瞼が開き、まん丸のどんぐり眼が顔を出した。

 前世ハムスターの少女の瞳は、いつかの星空のようにキラキラと輝いていた。


『剣くん。思い出したよ……全部』


 あなたが分けてくれた力を、今、返します――。


 公花に向けて伸ばされた蛙婆女の手は、見えないものに弾かれた。


「? なんだ……?」


 不審げに細められた瞳が、次の瞬間、驚愕に見開かれる。

 釘付けとなっている視線の先――結界の表面には、ひと筋の傷のようなひび割れが生じていた。


「ば、バカな……。ねずみめ、なにをした!?」


 公花を問い詰めようとして、目を焼く光に思わず顔を背ける。


 ドームは強い光を放つ半球状の光源と化し、中の様子は見えない。

 異常なほど大きな力が、その内側で膨れあがっていく。


 次の瞬間、結界の表面にヒビが入り――。

 ついには弾けるように砕け散った。


「ぎゃっ!!」


 吹き飛ばされ、神殿の壁に叩きつけられた蛙婆女は、床に這いつくばりながら顔を上げた。

 そこに立っていたのは、人間の姿を取り戻し、白紫の和装束を身につけた剣。そして、そんな彼に寄り添うのは、紅白の袴を着た人間の女の子、公花だ。


「力を取り戻した……だと? まさか、ハムスターの中にあった力を融通したのか?」


「んっ? あれ? 私、人間の体に戻ってる! わぁ、巫女さんのお洋服、可愛い」


 素っ頓狂に騒ぐ公花が先ほどまで宿していた銀鱗の力は、跡形もなく消えていた。

 一方、彼女を守るように立つ御使いは、畏敬の象徴たる力と威厳を取り戻しているではないか。


 蛙婆女は唇を噛んだ。

 あの回復量は、銀鱗分の霊力を吸収したというだけでは説明がつかない。おそらくは前世のうちに、相方になんらかの力を分け与えていたと考えられる。


(ねずみめ……、ただの無力な塵だと思っていたのに)


 蛙婆女は気を取り直して身構えた。

 少しくらい力を取り戻せたからといって、それがなんだというのだ。龍鱗の力を得た自分ならば、御使いにも引けを取らないはずだと。


 立ち上がろうと床についた手を見て、ぎょっとした。

 滑らかで美しかった手の甲が、皺だらけの老婆のそれに戻っていたのだ。


「な、な、なんで……これは、どういうことだ!?」


 絶叫した声はしわがれて、高い音も出せなくなっている。

 そんな蛙婆女を蔑むように見下ろして、剣が言った。


「龍鱗の力は返してもらった。分け与えた力を回収する、そんな簡単なことが、俺にできないとでも思っていたのか?」


「そんな……そんなバカな」


 老婆は手をかざし、力を発動しようとしたが、それは虚しく「振り」だけで終わる。


「おまえの力も余分に吸収させてもらったよ。利子のようなものだな。どうだ、普通の人間になった気分は?」

「あ……あ……嘘だ……嘘だぁぁぁぁ」

「その霊力だと……寿命も、並みの人間くらいになったんじゃないか。見た目と差異が出なくなってよかったな。せいぜい老後を楽しめ」


 元々、シビアな性格の少年は、お年寄りにも容赦がない。

 若干引き気味の公花だったが、それくらい酷いことをされたのだから、自業自得といったところだろうか。


「お、お許しください。私は、私は若さを取り戻したかっただけなのです……」


 床に崩れ落ち、顔を覆って泣きじゃくる老婆を見た公花は、やっぱり気の毒になって、隣に立つ少年を見上げた。


「剣くん……」

「お灸をすえただけだ。力を返してやるかどうかは、後で考える」


 にっと笑った金色の瞳にはまだ凶悪な力が満ち満ちていて、ちょっぴり背筋が寒くなった。

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