第4話 広い世界
あやめ池を流れ出た水は、水路を通って田んぼに至る。
きらめく水が、最初の田んぼにちょろちょろと流れ込んでいた。
トンボたちがあやめの谷戸に戻って来た時、カメはその流れに気持ちよさそうに打たれていた。
「行ってきたよ」
「あんだって?」
カメは水の中から首を伸ばし、流れの上へ顔を出すと金色の目をゆっくり開いた。
「オレたちは何も知らなかった」
サキグロが言った。
「なんのことかの?」
カメは穏やかな笑顔でトンボたちを迎えた。
「あの山の向こうさ。なんにもないどころか、ここと同じように森があって、ずっと田んぼが広がっていて、その向こうには連なる山がいくつも見えた」
「ほうほう」
カメは、驚く様子もなくニコニコと応じた。
「知ってたの?」
ハゴロモが言う。
「ほっほっ、わしはこの通り、この池から出られんわい」
カメの答えはとらえどころがない。
「なあ、この世界はここと同じような田んぼが、ずっとずっと続いているのか?」
「どうだかの」
「だって、見渡すがきり田んぼだった。きっとそうなんだ!」
サキグロがこぶしを握ってカメを睨んだ。
「あそこの黒い鳥が見えるかの」
睨みつけるサキグロに、穏やかにカメは答えた。
「え? ああ、あれ?」
だいぶ離れた電線に、背中が黒くて胸が白い、小さな鳥が止まっていた。
「うむ。ツバメという。春になるとやって来て、秋になると行ってしまう」
「え?」
「どこから来るのか、どこへ行くのか、わしには見当もつかん」
カメはそう言ってため息をついた。
「そうか! きっと、もっと広い世界を知ってるんだ!?」
サキグロが叫んだ。
「さあ、それはわからんがの」
トンボたちの視線を感じたのか、ツバメはパッと舞い上がった。
黒い翼をピンと張り、稲の葉先を際どく掠め、青空を横切り、新緑をなで、ひらりひらりと流れるように、あやめの谷戸を舞い始めた。
「なんてスピードなの!」
ハゴロモが感嘆の声をあげた時には、サキグロたちが後を追っていた。
矢のように飛ぶツバメを懸命に追いかけるトンボたち。
追いつくかに見えて、ひらりと身をかわすと、ありえない方向へ加速するツバメ。
曲がりきれずに大きな弧を描き、その差を広げるトンボたち。
懸命に追いすがっても、ひらりひらりと身をかわすツバメ・・・
トンボたちの飛翔がツバメのそれに及ばないのは明らかだった。
ツバメがもといた電線にもどり、羽づくろいを終えるころになってやっと、わらわらとトンボたちが、ようやくそこにたどり着いた。
「あんた、速い!」
サキグロはそれだけ言うと、ハアハアと荒い息を繰り返した。
「まあ、なんなのキミたち?」
ツバメは目を丸くしてトンボたちを見つめた。
「あんたに、聞きたいことがあるんだ」
喘ぐようにサキグロが言った。
「それはいいけど、少し休んだら?」
コロコロとツバメが笑う。
へたり込んだトンボたちは声もなかった。
「こんにちは、ツバメさん」
ハゴロモは空中に止まってツバメに声をかけると、サキグロの隣にトンととまった。
「がんばったよ、みんな」
「なぐさめ、いらない」
ハゴロモの言葉にクロスジが答えた。
「どうしてあんなに小さく回れるのか理解出来ない!」
クロモンが首を振る。
「さあ、どうしてかなぁ?」
ツバメはニコニコと微笑んでいた。
降り注ぐまぶしい日差しが、日なたの色をくっきりと浮かび上がらせ、日陰は黒く見えないようにしてしまう。
さわやかな風がさらさらと渡り、さわさわと森が騒めく。
上の田んぼから下の田んぼへ流れ落ちる水が、ちょろちょろと水音を立て、きらきらと透明なかがやきを放っていた。
サキグロはツバメに、聞きたいことをまっすぐにぶつけた。
「ボクらはこの世界について知りたいんだ」
「ふーん、この世界ねぇ」
ツバメは興味なさそうに、ちょっとだけ持ち上げた翼の内側をつついていた。
「キミたちは春になるとどこからかやって来ると聞いた。遠くから来るのかい?」
真剣な顔でサキグロが聞いた。
「そうねぇ、遠いと言えば遠いかなあ」
ツバメは首を傾げてニコニコしている。
「どんなところなの?」
「やあねぇ、ただの島よ」
「島ってなに?」
「あ、そっか」
ツバメは小さく微笑むと、トンボたちに向き直った。
「あたしはここで生まれたの。でも、あたしたちツバメは秋になると南の島へ行くのよ。ここから川を下り、海を越えて、ずっとずっと飛んで行くの。海の中に山の頂きが突き出したみたい見える陸が島なの」
ツバメはやさしい顔でこう言った。
「海ってなに?」
トンボたちは一斉に首を傾げた。
「海って言うのはね、大きな大きな水たまり」
「水たまり?」
「そう。ものすごく広いんだから」
「あやめ池より?」
「ええ。比べものにならないくらい」
遠くを見るようにツバメが言った。
あの山の向こうには、広がる田んぼと、その先に連なる山しか見えなかった。
海がそれほど大きなものなら、きっと見えたはずだ。
でも、そんな大きな水たまりはどこにもなかった。
海というのは、あの山の先、そのまた向こうにあるのだろうか?
「世界の果てに行ったことある?」
「世界の果てぇ~!?」
ツバメは目を丸くした。
「そんなこと考えたこともなかったわ」
呆れたような、困った顔のツバメだったが、トンボたちの顔を見てニッと笑った。
「いいんじゃない。いろんなところへ行って、いろんなものを見て来ればいい。キミたちには翼がある。世界の果てまでだってきっと行けるわ」
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