010:川のせせらぎ

 放課後になると、私は教室を出て、桜来おうらい学園中等部の校舎の、部室棟に向かう。


 私の部活は、文芸部だ。クラスには部活仲間がいるけど、いつも一緒ではない。今日も。


 中学校に入ったら、文芸部に入りたかった。


 だから、小さな夢が叶った事になる。


 木目が綺麗な廊下は古臭いけど、軋んだりはせずにいい音を立てる。文芸部の部室は実際的な理由から、一階にある。教室は四階だから、階段は下りる。


 実際的な理由とは? 本を運ぶ事があって、上の階だと大変だから。らしい。部室には既に本が氾濫していて、これ以上入れるのは無理だろうな。


「ぶちょー」


 引き戸を開けて中に入っても、すぐには人の顔が見えない。


 扉を開けて目の前に本棚。迂回すると、本棚が壁になって迷路みたいになっている。初めてきた時は怖かった。そういうおかしな事が起きているのかと思って。


 本棚でくねくねしている中、カーテンが閉ざされた窓際に、教室にあるような大きさの、けど形が旧式の机が四つ、くっついている。それぞれに椅子が一つずつ。その一つに座っているのが部長の冬青そよご鮎魚あゆな先輩だ。


「部長」

 私が声をかけると、椅子の上に体育座りして文庫本を読んでいた部長は顔を上げた。


 二つ結びにしている赤紫色の髪の毛はどう考えても染めているんだろうけど、聞くのは怖いので確かではない。本人から聞いたのは瞳の色を『柿色』と表現するといいらしいという事だ。柿色の瞳を持つ垂れ目はだるそうな印象を与える。


 私は、部長が朗らかな顔をしている所を見た事がない。


「何かな、椿谷つばきたに部員」


 部長の声は幼い。身長も低いから、油断すると先輩なのを忘れて年下に見えてしまう。


「読書会で読みたい本、案は幾つか書いてきました……ん?」


 私はその時、初めて気づいた。


 静かな部屋の中、僅かに川のせせらぎが聞こえる。


 いや、川のせせらぎか? 素直に物を見られない事は残念だが、この学園で何か不可解な事に出くわすとまず何かしらの不思議を疑うようになってしまった。


「ご苦労。リストは?」


 部長は私の不思議そうな顔(を、していると思うのだが)に気づかず、じとっとした視線で見上げてくる。


「えっと……」


 私はひとまず、切り出した話を進める為に鞄を部長の対面の机に置いた。鞄を開けて、中から読みたい本のリストを出した。


 紙一枚を部長に差し出すと、小さな手がそれを取る。


「なかなかいい趣味をしている」


 流石部長、私が知っている作品くらい分かるらしい。


「あの……それはいいんですけど、なんだか川のせせらぎが聞こえません?」


「今日日『せせらぎ』など人の口から聞く機会はなかなかないな」


 そうなのだろうか。


「この中なら私が気になるのは樒場しきみば六槍むやり先生の『マスカット』だな。桜来の同窓生で数少ない現役のプロ作家だ」


「え、そうなんですか」


「本当に生き残りが少ない」


 あれ?


 急に不穏な話になってないか。


 部長は立ち上がり、すぐそこの本棚にある一冊のノートを取った。


「桜来出身のプロは多い。見る?」


「み、見ます……」


「ほい」


 私は部長からノートを受け取って、開いた。


 名前、(あれば)ペンネーム、生年、デビュー年、デビュー作のタイトル、ここまでは分かる。


 没年が書いてあるのも、桜来の歴史を考えれば分かる。もうお亡くなりになられている先輩がいてもおかしくないくらいの年月は、創立以来経過している。


 ただ、享年の数字はとても怖い。どうして死因が書いてあるのか分からない。『〇〇年引退』などと書いてあるのはまだよくて、『〇〇年失踪』『〇〇年以降入院』などの注意書きもある。『以後、消息不明』。


 読み進めるに連れて、私は一つの疑問を抱いた。


 そして、部長が話題にした樒塲先生(先輩)の名前の前にある先輩の所に『享年20』と書いてあるのを見て、まだ聞こえる川のせせらぎなどどうでもよくなるくらいに背筋が凍った。


「……お返しします」


「ほい。気づいた?」


「えっと……」


 恐らく……。


「桜来文芸部卒で作家デビューした先輩はこのノートが後半にくるくらいいる」


 部長は酷くつまらなさそうな顔で、ノートを開いた。


「引退した作家のその後は分からない。失踪や入院については聞きようもない。ただ――」


 部長は、柿色の瞳で私をじっと見た。


「桜来卒作家の平均寿命は三十六歳。判明している最も長生きした先輩で五十七だ」


 それを聞いて私はどんな気持ちで文芸部にいればいいのだろうか。


「五感による観察は基本だが、聞こえる筈のない川のせせらぎに一々動揺するな。桜来の校舎からこの音が聞こえる事は決してない」


「は、はい……」


「これを六年間耐えた者がどうなるか」


 物凄く聞きたくない。六年間、中等部と高等部を合わせて六年間だけど、あと五年と数か月……。


「私はとても気になっているよ」


 不意に、せせらぎが聞こえなくなった。


「多分、君はとても長生きする」


 え?


 声に出た。


「それは……どうしてですか?」


「死神が肩に手を置いた所で、君は丁重にお断りしそうだからな」


 意味が分からなかった。


 私が長生きするとして……部長は?


 とは聞けなかった。


 ただ、部長がいつもローテンションな理由は、これなのかも知れない。

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