008:後ろから
その日、私は理科の授業の為の移動教室で、教室に忘れ物をした事に気づいた。
すぐに教室に戻る。
忘れたのは筆箱だ。理科室にいく途中で、一緒にいた
机の上に置き忘れたのかな、うっかりしたな、そんな事を考えながら早足で教室に戻ると、
「菫川さんはこれから?」
私が自分の机から筆箱を取って菫川さんに声をかけると、菫川さんは長くまっすぐな黒髪をふわりと揺らして振り返った。
美人だけど、どこか迫力を感じるのは、つぶらな瞳が紫色で、常に何かを真剣に見る表情をしているからだと思う。
「うん」
「じゃ、じゃあ一緒にいこうか」
「そうだね」
菫川さんの声は澄んでいて、聞いていて心地いい。ただ、元々そういう人らしいんだけれど、感情の起伏が表にはっきり出るタイプではない。そこもまた、彼女に迫力を感じる要因だと思う。
「この間はごめんね」
二人で教室を出ると、菫川さんはこの間の週末の事を謝ってきた。
「ううん。菫川さんの所為じゃないし」
ちょっと、怖い事に巻き込まれた。でもそれは、別の話。
「あと……」
階段を上がり始めると、菫川さんは憂鬱そうな顔で私を見てきた。
私みたいな身長だけ高いへちゃむくれが菫川さんに見られるとどうなる?
「な、何……?」
たじろぐしかない。
「階段を上っている最中は振り向いちゃダメ」
「え」
何かいる――私は振り向きそうになって、必死に首に力を入れた。
「気をつけてね」
「う、うん……」
菫川さんはどういう感覚なのか、普通に階段を上っている。私も続く。一段と言わず、二段飛ばしで駆け出したかった。
けど、それで『何か』が起こっても困る。
菫川さんは足音を立てずにそっと階段を上がっていく。私も静かになったのは、つられたから? それとも、本能的に『何か』を感じたから?
何か、階段を一段上がるごとに後ろから視線を感じる。
それも、一つや二つではない。
階段を上がる度に、何人も後ろからついてくるように、背後からの視線を感じる。
まるで、肩に少しずつ氷の重りをつけられていくように、寒気と怖気が襲ってきて、体が重くなっていく。
一体、なんなんだ。ヤバいものに憑かれた?
……いやいたな。校舎の中と言わず外と言わず。
これも多分、その類だ。
階段の最後の一段を上る時、私はもう前のめりに倒れそうだった。
「ねえ」
「え――」
後ろから声をかけられて振り返りそうになった私の頭を、菫川さんが右手で捕まえる。
「そのまま上って」
「う、うん……」
菫川さんに頭をつかまれた状態で、私は最後の一段を上った。
その瞬間、私を見ていた『何か』は消えて、寒気も怖気も体が重い感覚も消えていた。
「もう、振り返っても大丈夫」
ゆっくり、菫川さんは私の頭から手を離した。
大丈夫と言われても、怖くて振り向きたくない。
「……なんだったの?」
そっと、階段の方に視線をやらないくらいに菫川さんを見る。
「たまにあるの」
菫川さんは長い黒髪の右側を少し指でかき上げて、歩き出した。私もその後から理科室に向かう。
「振り向いちゃいけないタイミング。階段でも廊下でも。最後のは私にも聞こえたから対処できた」
まったく意味が分からなかった。
「どうして振り向いちゃいけないか分かるの?」
私は予鈴の音を聞きながら、菫川さんに尋ねた。
菫川さんは、虚無の表情で斜め上を見詰めた。
「慣れ……かな。
「え……」
こんな不意打ちがしょっちゅうあるの?
確かに桜来の敷地内だけに不思議な事が起こるわけではない。私は身を以て知っている。
猿黄沢出身だという菫川さんが言うのは、経験があるからに違いない。
「慣れれば、
珍しく、菫川さんは私に向かって微笑みを浮かべた。笑う所をあまり見ないけれど、本当に美人だなと思う。
「そっか……」
ただ、話している内容は心霊現象への対処法……全然心が安らがない。
「そこの二人、もう授業始まりますよ」
後ろから先生の声が聞こえて、私はまた何か『ああいうの』かと思って、心臓が割れるかと思った。
「すみません。今そこに何かいたので」
菫川さんは平然と対応している。地元の民にすればこれくらい日常茶飯事らしい。
……私にはまだ、非日常の断続みたいなものだけど。
その後、二人で理科室に入って、ギリギリ遅刻は免れた。
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