005:勿忘沼のメヌシ002

 朝ご飯を終えて、外出届を書いて、着替えて、お守りを持って、寮監に外出届を提出して……の流れで琴宝ことほが物凄く弾んだ様子だった。


 それから玄関で菫川すみれかわさんと牡丹座ぼたんざさんの二人と合流して、私達は染井寮そめいりょうを出た。


 染井寮は校舎から少し離れていて、菫川さんは校舎への道を歩き出した。ただ、そこから先、普段はまずいかない道まで歩いた。


 段々、道が狭くなる。木々が増えて、鳥の鳴き声が木霊してくる。菫川さんは迷う事もなく、細い道を通って大きく開けた沼に出た。


「ここが勿忘沼わすれなぬま


 白い半袖のTシャツにジーパンという恰好の菫川さんが私達三人を振り返る。菫川さんはバッグを持っていて、沼の畔にある一つだけのベンチにそれを置いた。


「おー、絶好の釣りスポットだ」


 釣りの経験があるのか、リュックを背負っている牡丹座さんが勿忘沼を見渡して、リュックを下ろした。赤い半袖のTシャツに象牙色のハーフパンツ姿だ。どうやら釣り道具は持っていたらしく、釣竿が入った袋を取り出している。


「釣竿、私も持ってるけど、橘家たちばなやさんか椿谷つばきたにさん使う?」


 菫川さんは釣竿を取り出して、私と琴宝に見せた。


「使う! 美青みお、いいよね!?」


「う、うん……」


 普段は私より大人っぽい琴宝が、いつになくはしゃいでいる。私は釣りとか一度やったくらいだし、琴宝が物凄くはしゃいでいるから、頷いた。


 っていうか琴宝は黒いスキニーに白い長袖のブラウスを合わせてるけど、それ汚れていいのか。


「コブラさん釣りした事あるの?」


「昔何度か! でも久しぶり!」


 琴宝は牡丹座さんと一緒に、釣竿の準備を始めた。


 さてどうしようか。


 菫川さんの言いぶりだと釣竿は一つ、牡丹座さんも多分二つは持ってないだろうし、見ているしかない。見ているだけというのもなんだかつまらない。


 どうせだから、スマホで二人の釣りの様子を撮るか……私はスマホを取り出して、カメラを回した。


 菫川さんの方を見ると、いつもに増して視線を険しくして、辺りを見回していた。


「……ねえ、菫川さん」


 自分の声が動画に入るのもな……でも話しかけないのも違うし、私は気になっていた事を聞く事にした。


「ん?」


 菫川さんは不意を突かれたように目を丸くした。


「どうして……お守りなの?」


 気になるのは、それだけ。


 何か、この沼に昔、血塗られた過去があって……なんて事を考えてしまう。小説の読みすぎだろうか。


「……椿谷さんは、猿黄沢さるきざわをあっちこっち歩いたりしようと思う?」


 何か、とんでもない事を言われる気がする。


「ま、まあ六年間住む所だし、私インドア派だけどそこまで引き籠るわけもないと思う」


 ちょっと、頭が混乱して、何を言いたいのか分からない感じになってしまった。


「お守り、持ってるよね?」


 鋭い顔で聞かれて、私は思わず、たじろいだ。


「持ってるけど……」


「猿黄沢を歩く時には肌身離さず持ってた方がいい。勿忘沼だけじゃなくて、猿黄沢で何があるかなんて、長く住んでる人じゃないと分からないから」


 なんだってまた、桜来おうらいの創設者はそんな所に学園を建てようと思ったんだ。


「それ……待って、入寮案内に『絶対にお守りを持ってきてください』って意味分からない事書いてあったのって……」


 入寮案内の内容は大事だから、覚えていた。意味が分からないと思っていたけれど、菫川さんという『猿黄沢で育った人』の証言があるなら……。


「ないと危な過ぎるからだと思う。校則でもお守りは持ち歩くように書いてあるし」


「……ねえ、なんで桜来って学園として成立してるの?」


 お守りが必須の学園とか、いつ廃校になってもおかしくないだろう。


 まして、桜来には普段からおかしな不思議がはびこっている。寮の私と琴宝の部屋にも、何かが『いる』し。


「それを大人に聞くと怒られる。怒られるだけで済むならいいけど。何かあるみたいだし、気をつけてね」


 菫川さんも、全部分かるわけではないらしい。


「……気をつける」


 ほんの一ヶ月前までは想像しなかった非日常の世界に、私の小さい肝は潰れそうになった。


 私はポーチに入れているお守りをそっと確かめた。お父さんとお母さんがここにくる前に持たせてくれたものだ。


 絶対、なくさないようにしよう。


 そっとポーチを閉じて、私はスマホで琴宝と牡丹座さんを撮影する作業に戻った。


「何が釣れるのかなここ」


「よくいるのだとイワナってカニちゃんが言ってた」


 私と菫川さんのやり取りは聞こえなかったらしく、琴宝と牡丹座さんは二人で楽しそうに釣りをしている。今の所ヒットはない。


 ヒットの瞬間が撮れるといいな……私は何気なく、カメラのズーム機能を使った。沼の対岸……道も何もない、茂みになっている所が映って――私は、悲鳴が出そうになるのをぐっとこらえた。


 誰かが映っている。


 道も足場もない。立とうと思えば立てるだろうけど、茂みに足を取られる。


 そんな場所に、黒い和服を着た、髪の毛の長い女性が映っていた。

 



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