第四十一話 安兵衛は静かに刀を抜き放った
「安兵衛」
「はい」
「コーヒーか紅茶か、どっちが良い?」
「はっ?」
おれの部屋に日本茶は用意してなかった。
コーヒーよりも紅茶の方が日本茶に近いだろう。リプトンのティーバッグを熱めのお湯に入れて、茶菓子としておれの好きなドーナツを出して勧めた。
「これを飲むのですか」
「色はちょっと気になるだろうが、安心せよ、毒ではない」
安兵衛は椅子に腰かけ、赤茶色をした紅茶に見入っている。
「砂糖とミルクも有るからな」
「わたしも頂きます」
トキが砂糖とミルクを入れてスプーンでかき混ぜ始めると、安兵衛も真似をし出した。
「安兵衛」
「はい」
「その刀は外したらどうか?」
「あ、これは失礼しました」
物騒な物は部屋の隅に置かせた。
だが、その直後、ドアのチャイムが鳴った。
「はい」
おれが返事をして外をのぞくと、
「ギエッ」
警察官が来ているではないか!
あのおばさんが通報したのか。
仕方なくドアを開けると、その警官が聞いて来た。
「あの、突然申し訳ないんですが、こちらの方から通報がありまして、どうも刀を持っている人物が居ると――」
「え、あ、いや、その」
だが、振り向くと既に安兵衛は手に刀を携え、身構えているではないか!
――アチャ――
「安兵衛、刀を元の場所に戻せ」
だがもう遅かった。目ざとく見つけた警官が、
「その刀を見せてもらえますか」
――万事休すだ――
銃刀法違反。
刀を受け取った警官が、おもむろに抜いてみた、
「これは」
警官は笑い出し、おばさんの方を向くと、
「奥さん」
おばさんに説明を始めた。
「これはおもちゃの刀ですな」
「おもちゃ!」
おばさんは極まりの悪そうな顔をして、口をもぐもぐさせていた。
「いや、失礼しました」
警官は刀をおれに戻して敬礼し、おばさんと一緒に出て行った。
おれは訳が分からなかったが、振り向きトキを見ると笑っている。
「トキ、何かしたのか?」
「本物の刀ではまずかったでしょ」
とっさに刀を玩具と取り替えてしまったのだった。
だが安兵衛はおもちゃの刀を手に、
「これは!」
「安兵衛、安心せよ」
「…………」
「そなたの刀は無事だ」
本物の刀はトキに預かって置いてもらう事にした。帰る時にまた取り換えれば良い。安兵衛には、この社会では昔刀狩りと言う事が行われ、街中で刀を所持して歩くことなど出来ないんだと説明した。
「しかしこのようなまがい物を腰に差す事など……」
と安兵衛はおもちゃの刀を部屋の隅に置いてしまった。
だがその時だった、
「キャ~」
トキが悲鳴を上げた。
振り返ると床にトキが倒れているではないか。
「トキ、どうした」
急いでおれと安兵衛がトキの側に行くと、背後で、
「ギッギッーー」
「なんだ今の声は!」
安兵衛と二人で見回すが、周囲には何も居ない。
トキも上体を起こして辺りを見回した。
「トキ、大丈夫か?」
「何かが私の背後から襲って来たの」
トキの言葉を聞き、改めて部屋の中を見たが、殺風景な白い壁があるだけだ。
おれは狭い部屋が嫌いでフリーターとしてはかなり身分不相応な住居に住んでいる。リビングルームは細かな物が並んではいるが、大きな家具など置いて無いから、マンションとはいえ空間はたっぷりあるのが自慢なのだ。
しかしこの部屋に戻って来た時すぐ外を見たが、目に付くような変化は何も無かった。普通に人や車が道を往来しているし、服装もごく当たり前のものだ。
だいたいこのマンションの部屋の中に得体の知れない魔物が居るなんて、そんなばかばかしい事――
「ギッギッーー」
まただ!
だが、声のする方を見ても壁があるだけで、何も、
「キャ~」
「ギッギッーー」
「くそ、やられた!」
何かが突然襲って来た。その影からトキをかばったのだが、おれは手をひっ掻かれた。見ると手の甲に鮮血がにじんでいる。
姿は見えない。だが得体の知れないものがこの部屋に居る事は確かなようだ。
隣で安兵衛が顔を上げる。
「トキ殿、拙者の刀を」
うずくまるトキとおれの脇で立ち上がった安兵衛は、腰に刀を帯びていた。
「殿、トキ殿、離れていてくだされ。拙者の傍に居ては危険です」
安兵衛は鯉口を切ると、静かに刀を抜き放った――
「ギッギッーー」
「ん!」
安兵衛の周囲を何かが飛び回っている。
壁に着いたかと思えば、一瞬にして他の壁に移っているではないか。
まったく刀を振るうチャンスが無いように見える。それどころか足を踏み出そうとするたびに黒い影は位置を変えてしまい、近づくこともままならない様子だ。
安兵衛は上段に構えた刀をゆっくり顔の横に移動する。
そのまま薄く目を閉じた――
「ギッギッーー」
一瞬消えたような影が、安兵衛の後ろを横切ったかに見えた次の瞬間、今度は前に、その時、
「イエッーー」
安兵衛の気合と共に、何やら黒い塊が横に吹き飛んだ。
「やった!」
おれは思わず声を出した。
「ギッギッーー」
胴体を真っ二つに切り離されてもまだ動いているではないか。だが床には鮮血が流れ、魔物はそのまま起き上がることが出来ないでいる。
ほっとしたおれは急に手が痛くなってきた。
「ちくしょう、痛っ」
急いで洗面台に行き手の傷を洗うと、消毒をして、包帯なんかなかったからバンドエイドをありったけ貼ると、すぐ戻ってまた魔物を見ようとした。
ところが、
「あっ」
魔物が消えてる。
「何処に行ったのだ?」
「それが……」
トキにも安兵衛にも分からないと言う。
「どう言う事だ。あいつは一体何なんだ?」
死骸どころか、床に流れていたはずの血まで消えている!
「これは一体……」
残されているのは、おれの手の傷だけだ。
トキや安兵衛の話によると、おれが居ない間に、魔物も床に流れていた血も瞬時にして消えてしまったと言う。
「そんな馬鹿な」
ありえないだろう、ゲームじゃないんだから。それはおれの傷が証明している。この痛さは本物だ。
おれはもう一度窓を開け、外を見た。だが、やはりそこにはごく普通の平和な日常風景が有るだけだ。あのような魔物が街を徘徊しているようには見えない。
「どうなっているんだ」
トキから記憶を残したまま元の時代に戻れば、どんな変化が有るか分からない、リスクが有るんだとは聞いていた。
だがこんな魔物が潜んでいる社会だとは……
「……殿」
「ん?」
トキが遠慮がちに声を掛けて来た。
「もしかすると、これは」
「…………」
「私のせいかもしれない」
「えっ」
トキは説明を始めた。
「殿が銃の開発をした事は、確かに世界を大きく変えてしまったわね。でもこの社会はそれとは違う元のままのはずよ」
「…………」
「だから、あの魔物はおかしいわ」
おれは安兵衛と共にトキの話に聞き入っていた。
「火器の開発と関係など無いはずなの」
「確かにおかしいな」
おれはまた魔物が倒れていた辺りを見た。
「だから、関係が有るとすれば、私の存在しかないの」
「だけどトキだってあんな魔物とは……」
「引き寄せたのよ」
「えっ」
トキの超自然現象を引き起こす行動が、何らかの影響を周囲にも及ぼしている可能性が有るという事だった。
「そうか」
「…………」
安兵衛も考え込んでしまった。
「なんか、腹がへって来たな」
「…………」
この状況下でのおれの発言に、二人は微妙な表情をしておれを見た。
「あ、あの、なんか急に腹がへってきちゃってさ」
おれはときどき能天気になる事がある。世間の一般人と違い、物事を斜めに眺めたりする癖だ。そのせいでIT企業を辞めた後は未だにフリーターをしている。まあこれは一生変わらないだろう。
「魔物は切っちまったんだし、いいじゃないか」
腹ごしらえをしようと提案した。
「トキ、安兵衛、何を食いたい?」
「…………」
おれの問いかけに、二人はまたしても、なんとも言えないと言った感じで互いの顔を見ている。その後、おれのおすすめスペシャルだが、インスタントカレーライスが出来上がった。
「どうだ、旨いだろう」
二人にはカレーライスの味評価を求めた。おれの大好物で唯一こだわりのある食べ物だ。だが、食事が終わると、トキが改まって言って来た。
「やっぱり、私がここに居る事は出来ないわ」
「ええっ」
おれが先ほどから無理やり避けていた話題が出て来てしまった。
「あの魔物はこの社会で仮想空間に生きているものだと思うの」
「…………」
「それを私の存在がリアル空間に引っ張り出してしまったのよ」
それは確かにそうかもしれない。例えばゲームに出てくる魔物だ。おれには良く分かる。もしかするとこのマンションの何処かでやっているゲームの魔物だったかもしれないのだ。
そう考えると、切られた魔物が跡形もなく消えた理由が説明できる。あの動きは生身の生き物ではない。まさにトキとおなじ超常現象と言うか、異世界で生きるもの達なのだ。
「だから私は――」
「トキ」
その先は聞きたくなかった。
聞けばきっと泣き出したくなるじゃないか。
せっかくおれはトキと一緒に、これからと思っていたのに……
だが、トキは言葉を続けた。
「殿」
「…………」
「安兵衛さんも自身の生きる時代に戻った方が良いわ」
それは確かにそうだが、トキは……
「私は安兵衛さんを連れて行く。だから、殿とはこれでお別れなの」
「トキ……」
あまりにもはっきり言うではないか、きっぱりと。
おれは何も言えず、下を向いてしまう。そこには食べ残しのカレーが有る。
次に出たトキの最後の言葉が身に染みた。
「ごめんね」
「…………」
トキとの別れは、消そうと思っても簡単に消える記憶ではなかった。
だから大坂城跡地で開催された例のツアーに、再びやって来たのだった。
だが、
「あっ」
またあのガイドさんだ。歴史が変わると言っても、おれ個人の周囲に関してはさほど変わってはいないようだ。
「今日は」
「えっ」
「前にもお会いしましたでしょ」
なんとガイドさんはツアー客など大勢居るだろうに、おれの事をしっかり覚えていてくれた!
目の前で見ても、やっぱりめちゃくちゃ可愛い方だ。
「あの、あの」
おれは一番肝心な事を聞いてみた。前回はトキが転生していたのだ。
「まさか、貴女は、トキ――」
「えっ、トキって……?」
「あっ、いや、何でもないです、はっはっはっ」
今回は本来のガイドさんだった。季節は早春、うぐいすが盛んに鳴いていた。
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