第十八話 追撃



 戦にはどうやら勝ったようだが、豊臣側の被害も甚大だという事が次第に分かってくる。

 まず大谷吉継殿が討ち死にされ、兵力は壊滅状態。

 島津忠恒殿は負傷され、兵はほぼ壊滅。

 福島正則殿、負傷。

 島左近、負傷。

 浅野長政、負傷。


 そしてなによりとてつもない総力戦で、豊臣側全兵力が半減してしまったということだ。もっとも戦国時代の戦闘では、実際のところそんなに死傷者は多くないと聞きます。最大でも敵味方合わせて三割程度だと。分が悪いと思えばどんどん逃げてしまうからのようです。確かに刀や槍を使った、殺し合いではそうかもしれません。近代戦の銃砲からでは、簡単に逃げられないからでしょう。


 家臣達の間では追撃するか、それとも一旦大阪に戻り、軍備の再編成をすべきか意見が分かれている。

 敗退しているとはいえ、才蔵配下の者がもたらす情報では、徳川軍の兵力はまだ相当残っていると思われる。


「このまま放置して江戸城に入られてしまえば、後の展開が面倒になるな」


 前回の轍は踏みたくない。ここは何としても決着を付けなくては。

 おれがなかなか決断しなのを見て心配になったのか、


「我が方が大阪に戻っていては、徳川方にも軍備再編の機会を与えることになるだけです」


 そう言い切った幸村は追撃賛成派だ。おれを真正面から見据えた。ウクライナの戦場でもロシア軍が休戦や停戦を呼び掛けたとすると、それは欠乏してきた軍備の再拡充を狙っているに他ならない。中途半端な停戦は敵を利するだけである。


「幸村」

「はっ」

「追撃するぞ、直ちに隊を再編成しろ」

「かしこまりました!」


 幸村の顔が一気に明るくなった。

 忍びの報告通り同程度の兵力でも、家康殿が逃げてしまった今となっては追撃する側に利があるはず。大阪に戻って軍備を整え出直すなどという事は、絶好の機会を逃すことになる。


「行長」

「はっ」

「そなたは大阪に戻り、足りない物資の調達と兵員を至急確保しろ」

「かしこまりました」


 浜松から東京まで約二百六十キロだから、一日三十キロ歩けば八日か九日くらいで着ける。数千を超えるかもしれない兵がぞろぞろ歩いたら、ペースが落ちて二十キロくらいか。やはり十日くらいはかかるだろう。

 徳川軍が時の為政者である豊臣に立ち向かい、敗走したという事なら、逃げている家康殿は落ち武者ということになる。謀反人として法の外に出てしまった者。「落ち武者は薄の穂にも怖おず」と言うほど、周囲の何でもないものにまで恐怖を感ずるほどになってしまったということなのだ。


 史実でも家康は落ち武者となったことが有る。京都へ上洛する途中、本能寺で織田信長が横死したことを知らされた時の家康がそれである。随行していた供廻は、徳川四天王の四人や石川数正、伊賀の服部半蔵などの三十四名しかいない。主君の信長が明智光秀の反乱軍に殺されたのだ。周囲を敵の領地に囲まれたこの状況は、完璧に味方から取り残された落ち武者である。実際の戦闘は行っていないため、負傷者はいないのが幸いだった。ここから家康一行の必死な三河への帰還行が始まる。

 だが供回りの者たちは奮戦し、三河に辿り着くまでに二百人余りの落ち武者狩りの農民や雑兵を討ち取ったと語り継がれている。

 伊賀出身の服部半蔵は、地元の配下を動員して土民に家康を襲わないように圧力を掛けて。さらに伊勢商人の角屋七郎次郎秀持は伊勢から三河大浜までの船を手配と、多くの人の助けを得る事が出来、一行は無事に三河に帰る事が出来た。

 一方で途中まで家康と同伴していた穴山信君(あなやまのぶただ)は戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。甲斐武田氏の家臣で御一門衆の一人。信長への御礼言上のため家康に随行して上洛し、堺を遊覧した翌日明智光秀の謀反と信長の死を知った。家康と共に畿内を脱しようとするが、宇治田原で郷民一揆の襲撃を受けて亡くなる。途中から家康と離れて別行動を取るが、執拗な落ち武者狩りから逃れられずに自刃したとも、首を落とされたとも伝えられている。家康の伊賀越えには余裕などなく、一歩間違えば穴山信君と同じ運命になっていたかもしれなかったのだ。


 今回はもちろん遠州平野での合戦後である。いまだ豊臣側と同程度の兵力を有しているのなら話は別だ。逃げているとは言っても、世に言う落ち武者などとはレベルが違う。

 いずれにせよ、家康殿が江戸城に入る前に捕らえなければ……

 しかし、戦闘が終わってからさほど時は経っていないようだ。すると退却中の徳川軍は、まだ二俣城にまでたどり着いていないのかもしれない。念のため聞いてみた。


「才蔵、徳川軍はもう東に渡河したのか?」

「先頭の早い集団は二俣城前を通り始めているようです」


 ―― しめた! ――


 この機会を逃がしてなるものか。頭を槍でぶん殴られた後の痛みも忘れて叫んだ。


「幸村、急げ、まだ間に合う。徳川軍が渡り終える前に叩くんだ!」

「はっ」

「編成なんかどうでもいい。全軍で追うぞ!」

「かしこまりました」


 今すぐ追いかけないでどうするんだ。

 おれはこの時代に来てからずっと感じていたんだが、なんなんだこの間延びした時間の流れは。

 百姓がのんびりしているのは分かる。田植えをして、稲が伸びて、刈り取りの時を待つ。植物が成長する時間に合わせた生活のリズムが全てを支配している。ところがそれが侍にも商人にも言えるのだった。

 信長の活躍する辺りからやっと職業軍人が出てきたようだが、まだまだ農民兵が主力の時代。稲刈りだの田植えだのと、戦以外に気の散る事も多く、とにかく現代の感覚からしたらのんびりした時間の流れなのだ。


「走れ、走れ、走れ!」


 なべかまなんか放り出して走るんだと、家臣や兵隊どもに叫び続け、おれ自身も走り続けた。軽装でただランニングしているのとは状況が違う。戦装束のうえに刀を持っている。股ずれやら兜ずれやらをおこして走りにくい事おびただしい。絶対この服装と装備は走る事に適していない。それでも豊臣全軍が走り出した。



 ここで訂正です。追撃軍が向かう先の二俣城の前には天竜川とそこに流れ込む二俣川があります。この地点には大小二つの橋が渡されている、と勝手に思い込み前回までは書いていましたが、大変な間違いでした。江戸時代までは長い間舟渡しだったのですが、明治になり、やっといくつかの橋が架けられたようです。ですからこの時代は渡船です。徳川軍も二俣城を無視すればもっと下流を渡る事も出来て、二俣川は関係なくなりますが、そうもいきません。武田信玄も二俣城の戦いから三方ヶ原の戦いに移る時は天竜川を渡っているはずですが、三万近い大軍がどのようにして渡ったのか、そのような記述は何処にも見当たりません。

 その武田軍の二俣城攻撃は十月から開始されたが、唯一の攻め口は急な坂道になっており、攻めあぐんだまま十二月に入る。力攻めは無理と判断した信玄は、水の手を絶つ方法を考えた。二俣城には井戸が無く、天竜川から水を汲み上げていた。そこで大量の筏を上流から流して井楼の柱に激突させて破壊するという策略を実行に移す。この作戦は成功し、井楼の柱はへし折れて崩れ落ちてしまい、水の手を絶たれた城兵の千二百人は降伏・開城してしている。


 現在の天竜川橋は一キロ強ほどもありますが、上流の二俣城前あたりになると川幅は急に狭くなり、そこに渡されている鹿島橋は約二百メートルです。しかし実際に水の流れているところの幅は三十メートルほどしかありません。暴れ天龍と名がつくほどの洪水の被害に悩まされる川なんですが、普段はとても穏やかな流れとなっています。江戸時代を通して幕府に保護されながらここには渡船業を営んでいる人々が居たわけです。徒では無理ですが、船で渡る事は容易で時間もそんなにかからない。だからこの地点に木造の橋を架けることはこの幅と水量を見る限り、そんなに難しい事ではなかったはずです。ところがこの川はいったん大雨が降ると大洪水になり、川下の住民は戦場よりも悲惨な状況に追い込まれたようです。木造の橋などひとたまりもなく流されたでしょう。

 信玄も二俣城攻略から三日後の十二月二十二日に二俣城を出発すると、遠州平野内を西進するとあります。静岡県の年間降雨量は十二月から一月にかけて非常に雨の少ない時期になり、渇水期となります。この時期なら渡河も容易だったでしょう。



 家康殿は逃げた先の状況を見通していなかったのか。統率を無くして逃げる大軍が一度に集中すれば、川の手前は大混乱となり身動き出来なくなっているはず。天竜川で討ち取れなければ、次は大井川の手前だ。日が落ちるまでには決着をつけたい。

 鉄砲を担いで走っていく先の者を夢中で追い駆けて行くのだが、息が切れて来た。おれはランニングなんぞは得意でない。こんなに走ったのは初めてだ。兜や刀がめちゃくちゃ重たく感じて、汗だくとなり、鎧の隙間から湯気が出て来た。刀は多分大小合わせて十二キロはある。それに甲冑の重みを加えると全部で三十キロ以上はあるのではないか。三十キロのバーベルを持ち上げることを想像してみてほしい。その状態でなおかつ十キロ近く走るのだ。これはもう苦行だろう。


「くそ、川はまだか」


 もうそうとう走ったが、まだ残り五キロくらいあるのではないか。

 だめだ、よこっ腹が痛くなってきた。もうほとんど歩いていると言っていい。

 周囲を見回すと一緒に歩いているのは、家臣団と佐助に才蔵、あとは三好清海入道らの四人だ。


 だが、やっと川に近づくと、豊臣軍の旗指物の先には徳川軍の旗が無数に見えてくる。なにしろ大軍が狭い渡船場で押し合っているのだから、先に進めないどころか、ほとんど止まっている。




 川には何艘もの渡し船がつながれて、その上に山から切り出した細い杉の丸太が渡されて固定され、急造の橋になっている。岸と中州の間、本流の深いところだけに架けられた舟橋である。浅いところは徒でよい。もちろんこれは東から徳川軍が渡河した際に設置された仮設の橋が、そのままになっていたのだ。ところが大軍が一気に押し寄せた橋では、溢れて川に落ちる者が続出している。

 そこに南から殺到した豊臣軍。もうこうなったら命令も何もない。獲物に群がる野獣だ。銃弾が乱れ飛ぶ中で、統制の取れていない兵卒が次々に倒れていく。それでも徳川軍の中にも撃ち返そうと、片膝を折って鉄砲を構える強者も居たが、逃げ惑う味方の兵に突き倒され、踏みつぶされる始末。

 それは殺戮以外のなにものでもなかった。

 天竜川の河岸や広大な河原を埋め尽くした徳川軍兵の屍を乗り越え、川を渡って二キロほど行くと、さらに二俣川が見えてくる。ここでも同じ状況が展開した。

 昼前後の戦闘で徳川軍兵の半数が倒れたとすれば、これでさらに半数ほどになったのではないか。

 二俣川を渡ったところで、やっと豊臣軍の動きが止まった。日没となり兵を一晩休ませることにしたのだ。夜間の攻撃は危険だ。同士討ちにもなりかねない。


「この寺は?」

「清瀧寺で御座います」


 今夜の宿として利用させてもらう事にした二俣城近くにある寺の住職が答えてきた。徳川家康の嫡男でありながら、織徳同盟の時代に家康の命により切腹させられた松平信康の廟所として、家康によって一五八一年に建立された寺である。その寺に家康を追っているおれが泊まるのだ。皮肉な話である。


 信長に信康問題の始末を要求された家康はやむをえず、築山殿を護送中、佐鳴湖畔で徳川家臣に殺害させる。さらに二俣城に幽閉されていた信康に切腹を命じた。

 この話も原因には諸説あるようですが、信康だけではなく築山殿も殺害の対象になっている。築山殿は徳川家臣の岡本時仲と野中重政によって自害をせまられ、拒んだ事から首をはねられたといいます。場所は浜松城に着く直前の佐鳴湖で、その北端に位置する今の冨塚町ということです。

 江戸幕府も徳川家の名誉を守るため都合の悪い話は残したくなかったでしょう。家康が主導したのかは謎のままです。





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