第十六話 遠州平野の決戦
「伊達軍は全てが戦闘に参加していたわけではないようですが、かなりの被害が出たと思われます」
「そうか、幸村達には全軍いったん浜松城まで戻って来るよう伝えろ」
「分かりました」
帰ってきた幸村の話を聞くとこうであった。
伊達政宗軍 被害甚大と思われる。
豊臣軍側
真田幸村隊 被害二百。
毛利勝永隊 被害 百。
後藤又兵衛隊 被害千五百。
又兵衛自身は重傷の為、これ以降戦闘には参加出できなくなる。残された兵二千三百は幸村隊に組み入れられる。
長曾我部盛親隊 被害軽微。
島津忠恒隊 被害軽微。
「数日の内に、今度は徳川方全軍が一気に渡河するようです」
才蔵が報告してきた。
「そう来るか」
「殿、いかがなされますか?」
幸村がおれの顔をじっと見ている。
「待とう」
「待つ?」
「そうだ、ただし二俣城の手前で待ち、囲むなどといった小細工はもう通用しないだろう」
「はい」
「次は総力戦になるな」
「…………」
いよいよ家康殿との全面対決だ。兵力はほぼ拮抗している。信玄公以外に野戦では敗れた相手がいないと言われる老練な戦人に、どれだけ太刀打ち出来るのか。
「才蔵」
「はっ」
「今後も徳川軍の動きをよく見張れ」
「かしこまりました」
才蔵が退室した後、幸村の顔を見ると、おれの気のせいか目を輝かせているように見える。
「幸村」
「はい」
「酒を用意せよ」
「はっ?」
幸村が言葉を詰まらせた。
「酒ですか?」
「そうだ」
「――――!」
目を丸くした幸村が言いにくそうに聞いてきた。
「殿がお飲みになる……」
「そうではない。全軍に行き渡るようにせよ」
「しかし――」
まだ戦はこれからだと言うのに、一体殿は何を考えていらっしゃるといった顔だ。
「この数日の内に、徳川勢は全軍一気に渡河するという」
「…………」
「だとすれば、それまでは仕掛けてこれまい。皆英気を養い、一日ゆっくり休ませろ」
幸村はやっと笑顔になり、
「分かりました」
「それから、下戸を選んで見張り隊を組織しろ。念のためだ」
「かしこまりました」
「ふう、腹が減ったな……」
「…………」
「佐助はどこだろうか」
おれがきょろきょろしていると、
「殿、握りは先ほど召し上がったばかりかと」
「え、そうだったか?」
「はい」
しばらくの沈黙が流れ、
「そうか、じゃあもう少し待つか」
「あの、佐助に何か御用でも?」
「いや、そういうわけでは、ない」
「…………」
おれが一人になった時またトキが現れ、今度は驚かなかったのだが、
「殿」
「あ、トキ、あの、彼女はいい子なんだけど、それだけなんだ」
「…………」
トキがじっとおれを見ている気配がする。
「あ、その、ちょっと腹が減ったなとか思ったから――」
「何をそわそわしているんですか?」
――なんかまずい感じだ。困った。どうしよう――
「いいのよ、佐助さんはいい子なんだから、がんばりなさい」
「えっ」
また消えてしまった……
この年、出陣する前の大阪城では、おれの弟秀頼、幼名は拾丸(ひろいまる)が自分も元服したんだから出陣したいと申し出ていた。だが、さすがにまだ早いとあきらめさせた。
おれ鶴松も同じ十一歳で戦場に出た。それを周囲の者から聞いていたんだろう。まあおれの特殊な事情など知らないのだから無理もない。
「兄上、私も元服したんだから出陣を――」
「まだ言っているのか」
確かに秀頼は年の割に立派な体格をしている。あのじい様の子供とは思えないような……。
「お前はなかなか立派な身体つきをしておるがな、まだ早い」
そう言ったおれの前で、淀殿は微妙な顔をして見つめている。
「兄上も同じ年ごろにはもう活躍されたと、皆から何度も聞いております」
「うん、それはそうなんだがな、お前にはまだちょっと早い。もう少し待て」
「なぜですか?」
秀頼が食い下がって来た。
「それは、まあ、なんだ、その」
「私だって刀くらい扱えます」
「だからあ、戦場ではそれだけではないんだってばあ」
「…………」
確かに幼くして出陣した例は有るようです。もちろん後方で馬に乗り見ていただけなんでしょうが。初陣の例を調べてみました。
十一歳 吉川元春
十三歳 源頼朝
上杉謙信
十四歳 織田信長
十五歳 北条氏康
伊達政宗
十六歳 武田信玄
十七歳 徳川家康
二十歳 毛利元就
二十二歳 長宗我部元親
石田三成
島津義久
吉川元春は天文九年、出雲国の尼子晴久が侵攻した際に行なわれた吉田郡山城の戦いにおいて、元服前ながら父の反対を押し切って出陣し、見事に初陣を飾った。と書かれています。
だけど十一歳というと小学五年から六年生だから、いくら早熟の時代でも無理でしょう。実際は後ろの方に居たというだけではないだろうか。それでも負け戦ともなれば命は無いのだから、覚悟は必要だったでしょう。
ちなみに今回の出陣でおれは十五歳、中学から高校生になる辺りだ。ぎりぎり刀を振るう実戦に参加出来る年齢だろう。
二俣城方面での戦闘があったちょうど三日後、ついに徳川全軍が渡河したという連絡が、才蔵配下の者よりもたらされた。浜松城から北北東に約二十キロ、遠州平野の端で標高四十メートルほどの小山に二俣城が築かれている。史実では家康の長男・信康の切腹で知られる城だ。
浜松城からその二俣城に向かう道筋東側の天竜川までは三キロから五キロほど。何処までも平坦な地で、視界を遮るような障害物はあまり無い。南北なら日差しも関係なく、先に陣取りをするような意味のある場所など無いのだ。
「殿、全軍定位置に付きました」
「よし」
豊臣方は浜松城から離れ、北に向かって陣を敷いた。多分家康殿もわが軍と同じような陣形をとるだろう。
徳川・伊達同盟軍
島津忠恒 宇喜多秀家 加藤清正 真田幸村 黒田長政 長曾我部盛親
千六百 二万 六千 一万七千百 七千 八千六百
大谷吉継 福島正則 豊臣秀矩 細川忠興 小西行長
三千六百 七千 六万七千九百 五千 六千
三方ヶ原の戦いでは、二俣城の前から西に向かう武田軍の情報を知った家康は三十三歳。家臣の反対を押し切って、籠城策を三方ヶ原から祝田の坂を下る武田軍を背後から襲う策に変更した。織田からの援軍を加えた連合軍を率いて浜松城から追撃に出る。そして鶴翼の陣形をとり、武田信玄・魚鱗の陣形と戦闘し、惨敗してしまったということです。
大軍の武田勢に対してなぜそのような陣形をとったのか。それに対し数に勝る武田軍が魚鱗と、双方逆のような感じです。
いずれにせよ、その後の関ケ原では自信の表れか、それとも地形でそうなってしまったのか、鶴翼に近い陣形の西軍に対し、家康はオーソドックスな陣構えで臨んでいます。
家康が三方原で信玄と戦い惨敗したという話なんですが、敗因は諸説あってどれももっともらしく、本当のところは分かりません。
だけど、家康は戦うつもりなど無かったが、物見に出ていた部下が小競り合いを始めてしまい、彼らを城に戻そうとしている内に戦闘に巻き込まれてしまった、という説。
私はこれも案外ありそうな話ではという気がします。
ただ遠州浜松には「やらまいか」という言葉があります。やってやろうじゃないかといった意味です。遠州の方言だということですが、あれこれ考え悩むより、まず行動しようという進取の精神だという事のようです。
浜松城主だった家康にも、若い頃にはそんな気質があったんでしょうか。後の世に言われる「鳴くまで待とう時鳥」とはイメージが違います。
目の前を悠然と横切っている武田軍を前に、やってやろうじゃないかと家臣達の反対を押し切ってまで飛び出して行った。ちょっと軽いけど、忍の一字より絵になっていると思うのですが。
遠州平野は天竜川が長い年月をかけて形成したデルタ地帯である。その遠州の地で徳川軍と豊臣軍は対峙した。戦闘の始まりは寝返った駿府や掛川の隊が、家康殿に戦意を見せようと一番に撃って出たからのようだ。
すぐ右翼を守備していた盛親隊が増田長盛、池田輝政隊らと戦闘状態に入ったとの知らせを受ける。それなら敵二隊の兵力は合わせて九千だろう。
増田、池田隊らが率いる兵の一部が、偵察を兼ねて前進したとされるが、後から続く軍勢はそのまま長曾我部隊に襲い掛かった。これにより豊臣対徳川勢の一大決戦が幕を切って落とされたのだった。
「才蔵」
「はっ」
「行長に隊を分けさせ、三千で盛親隊を支援するように伝令を出せ。それから忠興隊は戦場を大きく迂回して増田隊、池田隊らの背後を突くようにと伝えろ」
「分かりました!」
細川忠興は兵五千を率いて本陣右翼から出陣した。
次は幸村と黒田長政の隊が、前進して来た伊達隊と戦闘に入るとの知らせが来る。
「伊達隊の兵力は?」
「一万五千から二万ほどかと」
「左近」
「はっ」
「五千を率いて幸村らの背後で待機し、苦戦が見えたら支援せよ」
「分かりました」
幸村と黒田長政の隊は伊達隊と激しい銃撃戦になったようだ。その後は、すさまじい乱戦に突入した。
島左近は豊臣本隊六万七千から五千の兵を連れて、幸村、黒田隊の支援に向かうべく出陣した。
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