第十話 「この後はどうなさるおつもりですか?」

 おれは大坂城に戻ると、一人になる時間を見計らってまた声を掛けてみた。


「トキ、何処にいるんだ。出て来てくれないか」

「なあに」

「あ、出てくれた。ありがとう」


 こんなとこを他人に見られたらおかしな人と思われるだろうな。

 今おれは誰も居ない空間に向かって話をしている。


「ねえトキ」

「なあに、殿」

「…………」


 いたずら好きそうな女の子の声、それ以上に相変わらず色っぽいトキだ。


「あの、前にも話した事なんだけど」

「…………」

「元の世界に戻るのって簡単なのかなあ」

「戻りたいの?」

「いやちょっと気になったから」


 豊臣家には秀頼も生まれたんだし、家康殿との問題が解決したら帰ってもいいかなと思い始めていた。

 元の世界に帰るとなると、どんな状態になるのか、前もって知っておこうと思ったのだ。なにしろ例のパラレルワールドの問題がある。それに過去に行って先祖を亡くしてしまうような事をすると自分自身が危うくなりかねない。様々なパラドックスに関する心配がおれの頭を支配している。

 最新の研究によると、物理法則に反することなくタイムトラベルを行うことが可能だという。しかしタイムトラベラーは過去を変えることは出来ないだろうと研究者らは述べている。未来は変わらないと。

 長い間、物理学者たちはタイムパラドックスについて考察し、議論してきた。もし我々が過去に遡って歴史を変える事になったら、未来はどうなるだろうかと。ところが一部の研究者が答えを提示している。「何も起こらない」と。パラドックスを引き起こす可能性のあるものの周辺を再調整するイベントが起こるだろうから、結果的にパラドックスは発生しないだろうというのである。


「じゃあ、本当の事を言うわね」

「えっ!」


 まさか、驚愕の事実が明かされるとかじゃないだろうな。だからあの時、来る前に聞いておきたかったんだよ。それを気の早いトキが……


「完全に元来た世界に戻るという事は、今いるこの世界での記憶が無くなるという事なの。この戦国時代に居た事が無かった状態になるわ」

「――――!」

「そうでない未来なら今の世界での行動が影響してくるから、元居た世界とは違った社会になっている。どんな感じかは、行ってみなければ私でも分からないからリスクがあるの」

「あ、の!」

「どちらの世界に戻りたいか、また今いるこの戦乱の時代に留まる事も可能なのだから、あなた次第よ」

「…………」


 おれはしばらく次の言葉が出てこなかった。

 この世界での記憶が無くなるって、それじゃあ、今のおれが無くなるみたいなもんじゃあないか!


「つまり今の記憶を無くして、あの汚れたパソコンを触っていた瞬間に戻るって事だ」

「そうよ」

「じゃあ幸村との出会いも、江戸城攻撃もなにもかも無かったって事に?」

「そう」

「…………」


 やっぱり驚愕の事実だった。元の世界に帰って、何も考えずに毎日を過ごすただのフリーターに戻るのか、それとも、おれの判断次第で日本の未来が変わるかもしれないこの世界に留まるのか。

 今にして思えばフリーターになって以来、これまでおれはどんな生活を送っていたんだ。ネットサーフィンやゲームで時間を無駄に過ごしていただけじゃあなかったのか。

 だけどまてよ、


「トキ」

「なあに」

「おれが元の世界に戻る時に、何故記憶が無くなったり無くならなかったりするんだ?」


 トキの話では記憶を無くして元の世界に戻るか、記憶がそのままで変化した世界に戻るのかと言うが、その辺がいまいちピンとこない。


「ユイトはパラドックスって知ってるでしょ」

「勿論だ」

「過去に行った者がその両親とか関係者に関わると、因果関係からタイムトラベラーは存在自体が危うくなるの」

「…………」


 タイムトラベルの矛盾は多くの科学者が指摘しているが、パラドックスの謎はいまだに解明出来ていない。


「人は過去に戻る事は出来ない。だからユイトも過去に旅して戦国時代の鶴松さんには転生出来ないのよ」

「えっ、だけどおれは現に――」

「ここはユイトが居た世界とは違う、異次元の平行世界なの」

「…………」


 つまりおれが転生したのは新たな世界で、元居た世界の横に平行した別の世界が生まれたと言うような事らしい。現代物理学においても、過去へのタイムトラベルの方が未来へのタイムトラベルよりも難しいと考えられている。時間はもともと未来へと流れていくものであるとすれば、逆行する方がより不自然な流れとなるのだという。


「今あなたは二人居るのよ」

「えっ」

「元の世界と今鶴松さんとなっているこの世界のユイト」


 さあ話がややっこしくなってきたぞ。


「じゃあおれが記憶を無くして元の世界に戻ると言うのは――」

「記憶を無くすというのはちょっと違うわね。ユイトが私と出会う前の状態に戻るわけだから、記憶も何も無いの」

「それだとすると、帰った後、おれが転生した鶴松はどうなってしまうんだ?」

「それは私にも分からないわ」

「…………」


 おれの選択肢にはあと一つ、記憶をそのままで未来に戻ると言うのがある。


「それでは記憶を残したまま未来に行くのはどういう事?」

「この新しい平行世界の未来よ。あなたはこの世界で全く新しい登場人物だからパラドックスも関係ないの。ユイトの行動は全て未来に引き継がれるわ」


 おれはこの新しい世界の未来から来たわけではないから、親殺しとかのパラドックスは発生しないと言う理屈だった。論理的には連続した同一時間軸において「存在すること」と「存在しないこと」の両立は有り得ないのである。

 だけど元の世界に帰る選択をした場合、一つだけ特に気になる事が有った。


「あの、あの」

「なあに?」

「その、もう一つだけ聞いていいかな?」

「いいわよ」


 おれは何もない空間に向かって話をしているだけなのだが、あたかもそこにトキが見えているような錯覚に襲われている。


「もしも記憶を無くして元の世界に戻ったとしてだよ、そしたらもう君とは会えないのか?」

「…………」


 トキの返事は無かった。だから少し考えさせてくれと言って別れた。





 大坂城に戻ると、やはり心配していた問題はすぐ表ざたになった。

 家康殿を江戸城まで追い詰めておきながらの撤退に、家臣達や多くの大名が改めて不満の声を上げたのだ。幸村、秀家らも口には出さないが不満気な様子であった。たとえ駿府や掛川、浜松などの諸城を手に入れたとはいえ納得いかないようなのだった。

 しかし十五万の豊臣軍と、離脱した者がいるとはいっても、まだ多くの軍勢を抱えているだろう徳川軍が最後までやりあったら、無残な結果になるのは目に見えている。

 秀吉の鳥取城で行われた飢え殺しと言われる城攻めでは、馬はもちろん、草や壁土の藁を食い、最後は死人の肉、骨髄、脳みそ、さらには負傷者を殺してまで食ったと言うではないか。多くの婦女子も家康殿一人のため犠牲になるのだ。そんな悲惨な目に遭わせるのはなんとしても避けたかった。

 これからゆっくり考えていけばよい方法が見つかるだろう、急ぐことはないと……

 だがそんなおれの考えは甘かったという現実をすぐ思い知ることになる。


 大阪城では豊臣の主だった重臣達が広間に集まった。

 もちろん、ただ一人家康殿の姿はない。


「この後はどうなさるおつもりですか?」


 体調不良もあって、今回の戦では大阪城にとどまっていた前田利家殿が聞いてきた。自らの膝を掴んだ両手がぶるぶると小刻みに震え、顔のしわも心なしか増えているように見える。


「他の皆も一番聞きたがっている、家康殿の処遇です」


 下を向いている者から目をつぶっている者など、利家殿の見回す皆が一様に思いつめた顔をしている。


「この戦国の世に、そこまで追い詰めておきながらの撤退など、断じて納得のいくものではありません。やらなければ次はこちらがやられるのかもしれないのですぞ」


 利家は苦虫を口にどんぶり一杯も放り込んだような顔をして、泡を吹かんばかりの勢いで言い続けている。おれはゆっくり周囲の顔を眺めた。言葉には出さずとも、皆同じ意見のようだった。言い訳をしても仕方がない。おれは重い口を開き短く、


「皆さんの気持ちはもっともだと思います。ただ、もう少し時間を下さい」


 と言ってはみたが、おれにもなかなかいい案が浮かんではこない。ただあそこで悲惨な殺戮戦だけは避けたかった、それだけなのだ。一同はおれの顔を穴のあくほど見つめている。


「家康殿には書状を出しましょう。大阪への出頭と謝罪です」

「それは無理だ、あの古だぬきが応じる訳など無いでは御座りませぬか」


 おれの言葉にがっかりした様子の利家殿は、首を落とし、口の周りのつばをぬぐいながらつぶやいた。


「とにかく今はそれ以上の事はしないつもりです。皆さんも心得ておいて下さい」


 おれは言い切った。今は耐えるしかない。


「殿がそう仰られるのなら、仕方ありません」


 重鎮利家殿の声に、皆仕方なく引き下がるのだった。


「これまで何度も異才を感じた若君だったが、やはりあの若さでは無理なのか」


 それが皆の偽らざる意見だったようだ。

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