第七話 徳川征伐


 家康殿の放った刺客に鶴松が襲撃され。殺害されそうになった、暗殺計画が実行されたという知らせは瞬く間に広がった。もちろん真田の組織ぐるみで行った情報拡散の成果である。実際に仕向けたのが家康殿でなかったとしても、もう広まってしまったものはどうしようもない。情報戦の勝利と言う事だ。大義名分を得た者が優位なのはいつの時代でも同じだろう。

 諜報活動に従事した真田の忍者は虚無僧、山伏、商人、旅芸人などに扮して各地を訪れて、情報の収集拡散活動に従事していた。扮する商人なども多くは各地を巡る行商人だった。商売をするふりをして、さまざまな情報を聞き出し言いふらしていたのである。


「幸村」

「はい」

「次は家康殿に書状を送ろう」

「分かりました」


 だが、やはりというか、大阪城に来て釈明をするようにとの書簡は無視された。

 豊臣との戦を覚悟しただろう家康殿が大阪からの要請を無視した為、叛意があることは明確であるとしておれは徳川征伐を宣言した。

 ここに江戸出征は公儀が謀反人の家康殿を討つという形となり、豊臣恩顧の大名たちにこの戦に加わるよう促す書簡を送った。


「幸村」

「はっ」

「わが軍はどれほどの規模になる」

「出陣は五万で留守居として二万を残せばいいかと存じます」

「五万、少なくはないか?」


 しかし、福島正則、加藤清正、池田輝政、細川忠興、浅野幸長、加藤嘉明、黒田長政など武闘派と言われている大名達の他、島津、長曾我部殿など遠方からの参加を考えると、これで十分ではないかと言う。


 七百万石の領地を有する豊臣秀吉の最大兵力動員数一七万五千に対して、徳川家康は四百万石で十万人という計算があります。

 それでも農耕の季節に一兵卒となる農民たちを動員する事はできない。だから戦国時代の戦はほとんどが晩秋に行われる。稲の刈り入れが終わった時に動員令などは出てくるが、実際は刈り取った稲を逆さにして日に干す稲木干しまでの重労働の末やっと戦場に行く事が出来る。

 豊臣領内に点在する農村集落にはおのおの領主がいた。幸村にはその領主たちとの連絡を密にさせて、成年男子の人数を調べさせていた。

 おれは土佐国の長宗我部氏が行っていた政策をまねた。下級の在郷家臣らが自らも農事をしながら側に槍を立てそこに具足や刀も置き、城からの陣触れがあると、その場で具足を着て刀や槍を携えて城に駆けつけるのだ。もちろん訓練でもその仕組みを活用した。信長の常備軍とまではいかなくとも、それに近いシステムは作れるはずだ。前もって協力者には給金を出すと約束をし、信頼関係を築く努力を重ねておいた。


「おっかあ、給金が出たぞ!」

「あんた」


 動員された農民兵士はその場で編成移動の訓練を行い、帰りには必ず日当を支給したのだ。この半日あっちこっちと移動をするだけで金が手に入るとの話が伝わると、我も我もと成人男子の皆が協力を申し出てきた。

 またのぼり旗等で士気が上がるという点も重要視した。イスラム教は同じ時間、同じ方角に向かって同じポーズで祈る。軍の規律や高いモチベーションを保つにはそのような工夫が必要なのである。人は制服を身に着ければ変わる。穏やかな一市民が軍服を着たとたん兵士に変身するのである。

 武将や兵士全員が背中にのぼり旗を差すことで、同じものを身に着け鬨の声を上げる。これで軍のモチベーションは上がり永続する。宗教の力が強いのも似たようなものなのだ。


 おれは幸村の意見を了承した。


「よし、では三成を大坂に残そう」

「分かりました」


 そしてついに豊臣軍は伏見城に向かい進軍を開始した。後からは弾薬や豊富な食料を運ぶ輜重隊が続いた。さらに別な食糧を外から見えるように満載した輜重隊を道横にずらっと並べて、その側を行軍させた。これで否が応でもその山のような食糧が兵士達の目に入って来る訳だ。これは安心するだろう。

 一方豊臣軍の兵士達には進軍先での乱取り、略奪は言うに及ばず、婦女子への乱暴狼藉を働いた者はその場で切り捨てると明言した。そこに暮らす人々はいずれ豊臣の領民になる者達なのだからと。

 豊臣軍の行く先では、絶対に一般民衆に危害を加えない事を徹底させたのだ。その為に、食糧を豊富に輸送して、さらに規律を守った兵士らへの報酬を必ず払う事にした。他の領地からも信頼される豊臣軍をアピールする。それがいずれ豊臣家に帰ってくるはずだ。


 またこの進軍には金瘡医も多数従軍させている。刀や槍などによる傷を手当てする外科医だ。戦国時代の足軽たちは、仲間の身体に矢が刺さったりすると、力任せに引き抜いたと言うではないか。乱暴にもほどがある。勿論破傷風だの感染症だのと言った知識は無かっただろう。豊臣軍では負傷兵を運ぶ専門の部隊も編成された。身分の高い武士だけでなく、足軽も分け隔てなく運べと指示する。負傷した兵士に気をとられていては、他の者が戦に集中出来無いのだ。


 おれは今回の出陣にあたり大坂城の守りとして二万の軍と石田三成を置き、約五万の軍勢を率いて出立した。そして後から加わる大名たちを待つまでもなく、家康殿の重臣・鳥居元忠が守る伏見城を攻めようとした。大阪城と対峙するこの城は最初にどうしても落とさなくてはならない。その伏見城は北東に四十キロほど行った場所に在るのだが、守備兵は二千余りとの報告だ。


「嘉明、そなたに兵五千を預ける、包囲せよ」

「はい」

「ただし無理な力攻めはするな。出て来るまで待って討て」

「はっ」

「ひと月待って出てこぬ時は三成に連絡して、おぬしは我らと合流せよ」

「分かりました」



 第一次世界大戦では、実用化され始めた戦車や航空機などをどのように効率よく運用したらいいのかの理論が確立されておらず、塹壕に籠って無為に消耗戦を続けるという結果を招いている。そこで考え出されたのが、高度な指揮能力を持つ機械化部隊を敵前線のただ一点に集中させて一気に攻撃し、その後砲兵と歩兵により敵を全て駆逐して行くという電撃的な作戦である。ヒットラーはこの作戦に掛けて勝利した。それはスピードの勝利と言う事でもあった。ナポレオンも敵の二倍のスピードで移動すれば、勝利する確率は二倍になると考えていた。さらに秀吉は明智光秀を討つため、中国路を京に向けて全軍を取って返した約十日間にわたる軍団大移動で、無意識の内にもスピードの勝利をものにしている。

 戦国時代の時間の流れはとにかく遅い、攻城戦では月単位での戦闘期間が当たり前の時代だ。時には年単位にもなる。敵が動くよりも早く動くという意識を徹底させるのだ。



 さらに幸村の手の者に伏見城の内応工作をさせ。豊臣軍主力は先を急いだ。

 だがその伏見城では内応を蹴った籠城側が打って出てきた。主君家康に戦を仕掛ける軍が目の前を通過しようとしているのだ。父は岡崎譜代で、元忠自身も家康がまだ竹千代と呼ばれて今川氏の人質だった頃からの側近である。そんな実直で無二の忠臣として知られる元忠が黙って見過ごすはずはなかった。

 仕方なく攻め手が鉄砲を打ちかけ、築山を築いてそこに大筒を設置したり、堀を埋めるなどするが城は容易に落ちない。

 伏見城は小高い木幡山に築いた堅固な城郭であり、いかに兵力差が有ろうと力攻めは容易ではない。しかも守備隊の士気は高いようである。しかしここで伏見城の籠城に加わっていた甲賀衆が寝返り、火を放って西軍の大手門突破を許したのだ。 伊賀、甲賀、雑賀などの傭兵たちは横のつながりが強いという。籠城戦の最中にも城の内外で連絡を取り合ったようだが、もちろん陰で暗躍する者たちである。そんな事情を記した物など残ってはいない。戦乱の世に農民から育ってきた忍びの者たちは、主君に忠節を尽くす武士とは違う、伊賀だろうと甲賀だろうと同士討ちのような事態は避けたい。共に生き延びたいというしたたかさは持っているのだ。一般的には伊賀と甲賀は宿敵同士というイメージがあるが、これは誤解であり、一つ山を挟んだ隣人、いわば隣部落の者たちである。争い合っても何の得も無い。むしろ、伊賀と甲賀の人々は協力関係にあり、どちらかの土地に敵が攻め込んだ場合は互いに助け合う事もあった。

 松ノ丸に火の手が上がり、城の守りがついに破られたと悟った元忠は、本丸の総門を開き、守備兵は槍を揃えて西軍と壮絶な戦いを演じ、元忠は鉄砲の流れ弾に当たり戦死、他の武将ら数百人が討ち死に城は炎上した。伏見城攻防戦を制したのは、伊賀・甲賀・雑賀ら底辺で暗躍する者たちのネットワークでもあった。




「殿」

「ん?」

「伏見城は抵抗が激しく交戦して落城させましたが、浜松や掛川城などの戦意は低いとの知らせが御座いました」

「分かった」


 徳川が秀吉の嫡男を暗殺しようと企んで失敗した挙句での戦だ。家康殿は豊臣政権に盾突いた反逆者であると烙印を押された結果なのである。

 そして幸村の指示による城内への様々な諜報活動の成果が出てきた。なにしろ家康が指示したと噂される暗殺計画により、なんら大義名分の無い徳川方諸城の戦意は低いと知った。内応も功を奏して浜松、掛川城は瞬く間に攻略される。同様に駿府城も内通者が城門を開いたため、包囲二か月で落城した。

 勢いに乗る豊臣軍は小田原、鎌倉をへて江戸に着いた。

 途中から加わり最も南の端から出陣した島津忠恒殿らの大名を合わせると、豊臣方の軍は十五万近くにまで膨れ上がっていた。


「幸村」

「はっ」

「もう一度触れを出せ」

「…………」

「豊臣方兵はいかなる略奪、乱暴、狼藉をも禁ずるとな。さらに乱取りが発覚した時は関わった者全員をその場で打ち首とする」


 戦国時代の戦で足軽など農民から徴兵された兵士は、食糧や装備も不足分は自身で用意しなければならない。

 しかし戦闘の期間は予測がつかず携行できる食料にも限りがある。結果として現地調達という名目の略奪行為に頼るという状況を生み出していた。また人身売買目的での誘拐は人取り乱暴取と呼ばれ横行していた。ただし兵農分離を行い、足軽に俸禄をもって経済的報酬を与えていた織田信長、豊臣秀吉などは乱暴取りの取り締まりを厳罰によって徹底させることもあったようだ。

 だが戦場で負けた側の者たちは女子供に至るまで、自由に扱って良いというのは、戦国時代にあっては当たり前の事であった。殺そうが奴隷として売り払おうが自由であったのだ。なんの咎めも受けないから、戦場では二度の地獄を見ることになるのだ。今はウクライナでそれが行われている。無抵抗の一般市民の手足を縛り屈辱を与えて殺している。戦場は人間を変える。誰もが簡単に人を殺してしまう世界であるのだ。


「ただし触れを守った者どもにはたっぷり金を払う。それは豊臣家が保証しよう」

「分かりました」


 戦場での秀吉の評判はあまり良いものでないものもある。だがそれは非情の戦闘を数多く体験してきた戦士ならではの経緯ではないのか。戦国の世にあってはやむをえないものである。だがおれは現代の人間だ。やはりそんな非情な事は出来ない。ましてや無抵抗な女子供にまで危害を加えるのは言語道断である。たとえ戦場であったとしても無駄な殺戮は何としても避けたいのだ。

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