崩れた夏と再生の秋
鈴ノ木 鈴ノ子
くずれたなつとさいせいのあき
「耐え…難きを…耐え…」
ラジオから流れてくる陛下のお声に、伯爵令嬢の美咲様は直立不動の姿勢のままで、はらはらと涙を溢しておりました。供回りであり女中の私は前年に満州に出征した夫を亡くしておりましたので、主人の前でありながら身を床に投げ出す様にして、今考えましたら見苦しく大声で泣いておりました。
昭和20年8月15日、大日本帝国は連合国に対し、無条件降伏を受け入れることを、内外に通知したのでございました。
3年の月日が過ぎ去り、人々が敗戦の後遺症に悩まされておりました。無論、元伯爵令嬢もご多分に漏れず、身分と資産を没収され斜陽族よりも一段下の困窮を味わっておりました。
当主、正親様が陸軍少将で憲兵とも繋がりがあったことによる裁判の判決が災いしたもので、接収のために邸内に入り込んできた進駐軍の輩に、英語を話せる美咲様は抵抗をされたのですが、なす術なく、資産と純潔までを接収にきた兵士達に蹂躙される始末でごさいました。
接収に際して、美咲様が最後まで抵抗し、兵士達に身を委ねることに繋がった一つのものがございました。
荒い作りで素人目にも工芸品などとは言えぬ、粗末な木製の3センチほどの円形のペンダントを、美咲様はどんな時も肌身離さず身につけておいでで、ペンダントの裏には彫刻刀で文字が刻まれておりました。
深愛、宗茂
傷ついた身を穢れたベッドに横たえたまま、美咲様はそれをしっかりと握りしめて今先程まで降りかかった理不尽な暴力を耐え忍んでおりました。
宗茂は伯爵家に仕えていた給仕でございます。幼少期に親に捨てられて伯爵様に拾われるまで、宗茂は地獄の様な生活を過ごしておりました。
伯爵様は軍人でございましたが、慈善事業を良くご理解されており、助けられる者は庇護を与える方でごさいましたので、所有しておりました土地にそれらを住まわせては、生活を営ませておりました。口さがないものは、したためることすら憚ることを言っておりましたが、生活を営む者達にとりましては、感謝こそすれ、憎むことなどはございませんでした。
宗茂が奉公に上りましたのは、8歳であったと思います。美咲様は12歳でございました。弟の様に可愛がり、また、宗茂の育ちによります破天荒な振る舞いに、引っ込み思案であった美咲様は多少驚きながらも健やかに過ごされておられました。
前年に伯爵夫人、お母様を肺の病で亡くされた美咲様にとって、良き給仕となり、卑しい身分ながらによき友のようにもなる宗茂の存在はとても大切になっておりました。屋敷に勤めます私達も時より諌めながら温かく見守っておりましたのよ。
10年の歳月に戦火が迫りきてもなお、軍務に忙殺されます伯爵様に変わり、美咲様は事業を継承され、拙いながら堅実な運営を行なっておりました。
無論、それをよく思わぬ不定の輩もおりまして、陸軍、海軍の石頭の馬鹿どもが押しかけては、事業を辞める様に美咲様に迫り、また、中には貴族院に親族をようします太々しいものは自らと婚姻を結ぶ様にせがんだのでございます。
それを入り口まで丁重に対応しお帰り頂くことをしておりましたのが宗茂でございました。姉を慕う弟の様に、いえ、あの頃には惹かれあっておられたのかもしれませんけれど、好青年となりたくましい体つきの宗茂に凄まれては、権威を傘に着る餓鬼など恐る恐るには足りませんでした。
あ、餓鬼などとひどい言葉を使いまして申し訳ございません。美咲様は餓鬼と言う言葉が大嫌いでございますのに。
やがて事業は焼け出されて家を追われた子供達を救済する事業にも手をつけられ、憲兵の目と伯爵様の目を盗んでは、私達に伝言とお資金を持たせて、保護した子供と共に長野県にあります駒ヶ根の山麓にありました集落に移住させたのでございます。なぜ駒ヶ根かと申しますれば、駒ヶ根署の警察署長様が執事でありました、山野辺さまのご親戚でありまして、署長ご自身もまた美咲様の事業に大変関心と興味を持たれて、帝都内では難しくなりました事業を手伝いたいとお申し出になられたのです。
宗茂は戦局悪化が著しくなりましたおり、赤紙により戦地へと赴くことになってしまいました。後から知ったことでございますが、追いやりましたる餓鬼の手によりまして、海軍さんに入隊となり、最終年に大戦艦大和に随伴する駆逐艦に乗艦したそうでございまして、その後の行方はいくら調べましても要として知る事ができませんでした。
出征のおり美咲様と宗茂は2人で隠れて契りを結んだそうでございます。ああ、心のでございますよ。今と違いまして純潔はとても大切なものでございましたからね。
後々にお伺いして知ったことでごさいますが、ペンダントに互いの名前を刻み、肌身離さず持ち歩くことで婚姻の証と取り決めたと、泣きながらに話しておいででした。行けば必定、戦死とならん。の風雲急を告げ終える直前の戦局でしたから、そうお覚悟を決められても、なんらおかしくはないことでございました。
美咲様はあの事件以来、お体を悪くされ、あのどんな時も揺るがぬ立派な伯爵令嬢としてのお心をも崩されてしまい、私は美咲様の手を取り夜逃げの様に引き渡しの日前に屋敷の者と密かに隠しておりました資金を携え屋敷を飛びてまして、復員と買い出しで溢れかえる三等車の片隅で2人、駒ヶ根へと向かいました。
美咲様に酷い身なりをさせたことに今でも心が痛みますが、美咲様は崩されたお心を隠すようにして、健気に気遣ってくださり、道中におきましても、我が身を顧みず、袖擦りあった子供達に、食料をどうにか見繕っては分け与えておりました。
胸元で汗に滲んだ白木のペンダントが、時より鈍く光りましては共に歩んでいる様にも見えたのが印象的でごさいました。
到着した集落でも、分け隔てなく、尽くす様は私達や子供達にどれほど勇気を与えてくれたことでごさいましょう。苦難の生活が続きましたが、美咲様は笑顔を絶やすことなく、集落で子供達のために尽くしておられました。その陰でお休み前にペンダントを摩り胸元に抱いては静かに啜り泣く姿をお見かけした事もございました。私はそれを目にするたびに同じように涙を落としながら、宗茂が早くここにくれば良いのにと神様に願ったものでございます。
日本が独立を得て吉田首相がサンフランシスコでの調印を済ませた年の秋に、美咲様はお母様と同じように肺病を患ってしまいました。美咲様を慕う町医者の権田先生が往診に何度となく訪れては、信州大学病院への入院をお勧めしましたが、もう、その頃には手立てが尽きていることは明白でございました。何度となく血を吐きながらも、心配して窓際にくる子供達に笑顔を見せて手を振りました姿は今も思い出すと涙が溢れて参ります。
秋の終わりに美咲様はその命を終えられました。
綺麗な紅葉を窓から楽しまれ、その終わりを待つかのように、ゆっくりと眠るようにお休みになられたのです。葬儀は厳かにそしてひっそりとまるで密葬のように行われました。それが美咲様の最後の願いであったためでございます。ですが、何年過ぎても、戦前から美咲様がお世話をされて立派に育たれた紳士淑女やその子供達が慕い尋ねにきては仏前に近況をお伝えしましたり、新しくできましたる家族を紹介する様を見るたびに、遺影のお顔が朗らかに笑みを湛えるように見えましたのは間違いないことでございましょう。
30代に美咲様と共にこの駒ヶ根の地で過ごして参りました私も、今日で70歳を迎えるまでになりましたが、数ヶ月前に驚くようなことがございました。
晩夏が終わり初秋を迎えようとした頃のことでございます。
駒ヶ根駅から1台のタクシーが集落の私どもの施設へ参りました。降りてきた高齢の男性は外国人の方でキリスト教の神父様の服を着ておられましたから、職員も驚きまして来訪目的をお尋ねしたところ、美咲様のお名前をお言いになられたのです。美咲様の仏前までご案内を申し上げ、詳しくご事情をお伺いしたところ鞄から一つの木箱を取り出されたのでございます。
その箱の中には美咲様と対をなすペンダントが柔らかな布地の上で身を休めるかのように横たわっておりました。震える手でそれを取り出し裏面を向けますとそこには確かに彫刻刀で刻まれた文字がございました。
深愛 美咲
まごう事なき美咲様の文字を見て、その場で恥も外聞も気にせず大声を上げて泣き腫らしたのでございます。やがてこの委細につきましては、私が落ち着きました頃合いにお伺いすることができました。神父様は戦時中、空母艦載機の搭乗員であったそうでございます。対空砲火を受けて不時着しました海上で浮いていたおり、遠くから板切れに捕まって流されてくる日本海軍兵を見つけました。これが宗茂でございました。もはや助かる見込みのない深傷を負っておりました宗茂は、ポケットに入れておりましたこのペンダントを取り出しますと、息も絶え絶えな英語で神父様に頼み込んだそうでございます。これを日本長野県…と言ったところで宗茂はついぞ力尽きまして深い海中へとその身を没したそうでございます。兵士であっても心優しい神父様であったのでしょう、もしかすると宗茂の乗った軍艦を攻撃したのかもしれません、ですが、神父様はその後、日本に行く度となく来日されては、宗茂の日本長野県とペンダント裏の美咲の文字を頼りに必死になって探し回ってくださったそうでした。やがて、諦め掛けていた頃に美咲様がお世話をした子供の1人がアメリカ留学の折に美咲様のペンダントの話をしたそうで、話を聞いた途端にご高齢にも関わらず手に取るものもそこそこに飛行機に飛び乗ってこちらまでお越しになられたとのことでした。美咲様が何をなされてきたかをお尋ねになりましたので、今までの事柄を全てお伝えいたしますと、神父様は涙を流されてお話を聞いてくださいました。そして、あの憎い兵士達の行いを深く深くお詫びくださったのでございます。
その夜はお疲れの神父様にゆっくりとお休み頂き、翌日、施設や集落を見たいと仰るのでご案内をいたしました。美咲様の行為に思いを馳せておられましたが、美咲様が生前によく言っておられました言葉をお聞きになると染み染みと感じ入るように頷かれておられました。
紡いでいくこの子達のために未来を育てましょう。
美咲様のペンダントはご遺体と一緒にと思ったのですが、美咲様のご遺言により、もし宗茂が帰ってきた場合にペンダントを渡すようにと事付かっておりましたので、御位牌の横にお納めしておりましたから、それをそっと取り出しまして互いに重ね合わせるように致しましてから、互いの紐を抱き合わせるようにしっかりと巻いたのでございます。もう、2度と離れることなどないようにと優しくでございますが、しっかりと結び合わせました。
そして美咲様が最後に眺めていた窓辺近くにお飾りしまして、秋の気配が漂う山々や集落を見渡せるように致しました。
もう身分制度もない世の中でございますから、美咲様も宗茂と一緒に過ごされている事でしょう。もうしばらくしましたら参りますから3人でまた昔のように過ごせたらと夢見ております。
ですが、最後の最後まで、宗茂に様をつけることはできないようでございます。
伯爵家にお仕えしました私の矜持が、それを許すことができませんので、美咲様、それはご容赦くださいね。
崩れた夏と再生の秋 鈴ノ木 鈴ノ子 @suzunokisuzunoki
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