第26話
六月二十七日、土曜日。午後一時四十五分にユミちゃんが本社にやってきた。
電話口で取り乱した無様な印象はすっかり消えていた。こざっぱりとした紺のスーツと自信たっぷりの表情。原田は警戒した。これは人生を失って失意の底にいる顔ではない。何があった。そうか。
――独り占めする気だ――
彼女は四等分するつもりなんかないのだ。代表受取人として一億を受け取った途端に姿をくらましてしまう。あるいはいつまで経っても分け前を与えない。三人がだまされたと思っても、両親は当面何もできないし、弟はどうとでも言いくるめられる。詐欺だと言って騒がれても、払わないとは言ってないじゃない、ほんの少し待ってもらってるだけ、そう言い張れば少なくとも刑事にはならない。
先日と同じ来客用会議室の楕円形のデスク。ユミちゃんは席についた。
――どうする――
三人に忠告してやるか。両親は興奮して病状が悪化するかもしれない。悪化しなくても仁義なき終わりなき泥仕合に逆戻りだ。それは勘弁してほしい。それに……万々が一、ユミちゃんがそんなことを企んでいなかったら? せっかくまとまった話をおれがぶち壊すことになる。最悪だ。荒川はともかく、あの課長に貶されるのは我慢できない。そもそもこれは一秒でも早く終わらせてしまいたい案件だ。
よし、決めた。黙っておく。
――けんかは店の外でやってもらおう――
支払ってしまえば会社は一切関係なくなる。どうせおれはもうすぐ辞めてしまうのだからどうなろうが知ったことではないが、これだけ奇妙な案件の顛末は、同業社間の勉強会か何かで情報共有されるかもしれない。それが転職先にまで聞こえてこないとも限らない。鮮やかに片づけた担当者が誰だったのかという情報と一緒に。
――事務にも強いトップセールスか。悪くないんじゃねえの――
荒川はユミちゃんの変化に気づいているだろうか。視線をやるといつもの無表情だ。外見からは何も読み取れない。
やがてダイちゃんも到着した。今日はどうしたことか、最初からばつが悪そうな猫背姿勢での登場だ。白いシャツにジーンズという普段着姿は、吊るしのスーツよりは似合っているが、染めムラのある金髪とあいまって、まるで田舎の高校生みたいだ。
やがて車椅子の両親が別々のタクシーで到着した。それぞれに看護師がついてきた。父親は、主治医が言っていたようにすっかり痩せ、目から生気が消えていた。
最初に聞いた話では、ケンちゃんの手形の期日は先月末だったはずだ。工場がまだ生きているのだからそこは乗り切ったのだろう。ということはどこかで金を調達したのだろうが、まともな先であるはずがない。限りなく黒い借金と重い病を背負った哀れな零細経営者……。
母親は、女性には残酷な単語でしか表現できないような――皺と白髪が一気に増え、肌はくすみ、目は落ちくぼんで、ゆがんだ唇の右端から垂れるよだれを看護師が拭いてやっている――様子だった。二十歳も老け込んだ。金まみれの恋でも失えば失恋。当人には夢だったのだ。
病身のお二人にそこまでしてお越しいただいて、もし会社で何かあったら大迷わ――一大事だが、手続きがいっぺんに済むのは助かる。それに同席したいというのはご本人たちの強いご希望だ。彼らのことだからきっと娘のことを信用できず、出席させろと医師を恫喝したのだろう。いずれにせよ外出許可を出したのは医師であって会社じゃない。
小笠原弁護士は直前のアポが長引いて少し遅れると連絡が入った。隅っこの薄暗いスペースにカクカク揺れるパイプ椅子を用意してやった。
この日は手続きだけなので、会社側は荒川と原田の二人である。
弁護士を除いて全員が揃い、看護師による二つの車椅子の固定も済んだ。今日は休日で受付が閉まっているので、あらかじめ各席にはペットボトルのお茶が置いてある。ダイちゃんだけがそれを手に取り、一口飲んだ。
部屋に入ってから誰も口を開かない。張りつめたような、それでいて諦めたような気だるい緊張感で室内が満たされている。病人特有の匂いも漂っている。
荒川が立ちあがった。
「みなさま、本日はお集まりいただきありがとうございます。とくに健吾さま、美佐江さまには、お体の調子が万全ではない中ですので、なるべくスムーズに、お体にご負担をかけないよう進めたいと思います。ご協力をよろしくお願――」
「いいから早く書類をちょうだい」
ユミちゃんが荒川を遮った。
「かしこまりました。ではみなさま、今からお配りする書面をよくお読みになり、日付記入とご署名、実印の押印をお願いします」
――おお、二か月の長きにわたり前王の財宝を争った四人の勇者たちよ、今こそ秘められた黄金がその姿を現すとき。さあ、みなで分かち合うのじゃ――って感じかね。そんな冗談を胸の内でつぶやきながら、原田が同意書を配って回った。車椅子の二人も署名は問題なくできると確認してある。
四人が同時にペンをとる。
父親はぶすっとしたまま、弟は不貞腐れた顔で、署名と押印をした。母親は、流れるよだれを看護師に拭き取らせつつ、呂律の回らない小声でぶつぶつと悪態を突きながら、向かいの席に座っている原田から見てもわかるほど強い筆圧で、下手くそな名前を書き、のろのろとした動作で押印した。妹は頬を上気させ、期待を込めた手つきで、たったいま押印した自らの勝利宣言書を手に取って見つめていた。
――終わった――
原田は息を大きく吐いた。今後、妹の企みによってどんな騒動が起ころうと、おれの知ったこっちゃない。
「それでは、これから回しゅ……」
荒川が言いかけたとき、ドアが開いた。
遅くなってすみませんと言いながら、黒いアタッシェケースを抱えた小笠原弁護士が入ってきた。ドアのすぐ内側で深々と一礼し、こう言った。
「弁護士の小笠原です。間に合ってよかった。本日はみなさんにあることをお伝えするために参りました。非常に重要なことです」
「あ」と声を上げたのはユミちゃんだった。「あなたは……」
他の三人も驚いたような顔をした。特に両親は目を丸くして何か言いたげな素振りを見せたが、弁護士はそれらを無視して会議机まで進んだ。
「小笠原さん、ちょうど今、みなさんが同意書に署名と押印を終えたところです。あなたには保険金支払いの許可をお願いします」
そう荒川が言うと、弁護士は、
「ご家族のみなさんは様々な思いがあると思いますし、ご両親におかれては一日も早い回復をお祈りいたします。また、東西生命のお二人は今日までのご対応、誠にお疲れさまでした。御社の結論、代表受取人を決めて支払い、一億円は四人で均等に分け合うとの結論については、確かに報告を受領いたしました。そこで――ようやく私の出番です」
と言ってアタッシェケースを机の上に置き、パチンパチンと開けると、中から一枚の書類を取り出した。
四枚目の名義変更請求書であった。
「ご家族の間で合意がなされたら提出するようにと故人から預かっていたものです。日付はあの三枚の翌日なので、これが一番新しい請求書ということになります。これに書かれている人物こそ本当の受取人です」
室内がにわかに殺気立った。書かれている名前は、
――青木エリカ――
みな顔を見合わせた。誰だ。弁護士は続柄の欄を指した。
――妻――
は?「兄は独身」「間違いだ」「謄本で確認したじゃないか」、四人の怒気を含んだ声が部屋にあふれた。小笠原弁護士はさらに二通の書類を取り出した。死亡保険金請求書と何やら戸籍の書類だ。請求書には青木エリカの署名があった。弁護士はこう説明した。
「故人は死の直前にアメリカ人女性と婚姻したのです。死亡直後の戸籍謄本に記載がなかったのは、アメリカでの結婚を日本の戸籍に反映するのに時間がかかったからです。ここにお二人の婚姻が日本でも証明されました。名義変更請求書も故人が生前に作成したものですから有効のはずです。したがって保険金は全額、アメリカにいる奥様にお支払いいただくことになります。故人の指示に従って、奥様への支払いを許可いたします。以上です。それでは失礼します」
弁護士は軽く一礼すると、そのまま部屋を出て行ってしまった。
一瞬の沈黙。
「ふ」最初に叫んだのは母親だった。「――ふらけるんやないわよ」、顔を真っ赤にして、よだれを周囲にまき散らし、車椅子から転げ落ちた。看護師があわてて助け起こした。
それを合図に、妹は激しく取り乱し、原田の襟元を掴んで何の冗談よ、あんなの認められるわけないでしょうと喚いた。弟は何が起こったのかわからないという顔で固まっている。騒ぎを聞いて飛び込んできた警備員が倒れた車椅子につまづいて、父親を支えようとする看護師に覆いかぶさった。「痛っ」「す、すみません」――騒ぎはしばらく収まらなかった。窓ガラスの一部が破損したが、幸い怪我人は出なかった。
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