第24話
原田が七階フロアに戻ると、荒川が言った。
「ぼくはさっき、裁判で解決してほしいと話したが、おそらくそれは無理だ」
「うん? どうして」
「法務の江川さんから電話をもらった。裁判で何を争うのかが明確ではないと指摘された」
「争うのって、誰が受取人なのかだろう」
荒川は首を振った。
「四人のうち三人が保険金目当てに嘘をついたり、不正を働いているならともかく、この件ではそんな証拠はない。解決のために確かめるべきは契約者の真意だが、契約者が死亡している以上、確認のしようがない。裁判を起こしたところで誰も何も証明できないのだから、おそらく裁判所は提訴を受け付けないだろうと言われた。その通りだとぼくも思う。ぼくは彼らに誤った説明をしてしまった。訂正しなければ」
原田は、受話器を取ろうとする荒川を制した。
「そんな話、しなくていいよ。やつらの神経を逆なでするだけだろうが。おまえはただ、ちょっとばかり大げさに言ってみただけだろう。どうせ誰も裁判なんて起こしやしないって。勝てると確信のあるやつはいないんだから」
「それはそうだが」
「それより次の手を考えるんじゃないのかよ。――そうだ、さっき小笠原弁護士から電話があったぞ。調子はどうだって訊いてきたから、あんたが情報をくれないから全然進んでないよって言ってやった」
「小笠原弁護士か……」
荒川はあごに指をあてた。
「そうだよ。あの弁護士をもういっぺん攻めてみりゃいい。うちの顧問弁護士の中に弁護士会の大物とかいないのか。そいつから圧力かけてもらうとかしてさ」
「適切な方法とは言えない」
「このままじゃ進まねえぞ。どうするんだ」
――ま、おれは転職しちゃうから、もう関係ないんだけどね――
しばしの沈黙ののち、荒川は言った。
「思いつかない」
「へっ」
意外な回答。
「代表受取人を決めてもらうしかないのに、あの調子ではまとまらないだろう。だが説得する方法を思いつかない」
荒川の無表情な顔に苦悩があふれている。具体的に言うと、眉間に縦じわが、いつもより一本多く刻まれている。
「それってつまり……」
「打つ手がない。――何年かかるか見当もつかない」
荒川にしてはめずらしく大きなため息を吐いた。
ケンちゃんが倒れた。
六月十四日、日曜の夜遅くだった。誰もいない自社工場の作業場で、彼は心臓の発作を起こした。急性心筋梗塞。当然ながらその時間に従業員はおらず、家庭内別居中の妻もまた自室で眠っていて、夫の異変など知る由もなかった。
深夜の仕事場にいた理由については、社長であり自宅に隣接する自社工場なのだから、とくに不自然というわけでもない。最近はその資金繰りのために夜となく昼となく奔走する毎日だったし……。
医者によれば、一一九番に電話してきたのは父親自身だそうだ。おそらく彼は、すさまじい痛みに襲われながら必死にスマホを操作したのだろうという。救急車が到着したとき彼は意識を失っていた。長男が入院したのと同じ病院に搬送されて、緊急手術は成功したものの、月曜の朝になっても意識は戻っていない。
後で判明したが、父親は数年前にも一度同じような発作を起こしており、二度目があったら危ないと医者に忠告されていた。しかし工場の資金繰りをめぐってストレスを幾重にも溜めこんでおり、酒量も増えていた。
そのことは月曜の朝イチにユミちゃんが原田に電話で知らせてきた。実の父親のことだというのにじつに落ち着いた声だった。原田はその裏に秘かな期待の響きを感じ取った。
「手術は成功したのか」
「そうらしい。ユミちゃん、惜しかったな」
「彼女がそう思っている可能性を否定はしないが、そういう想像をすることにあまり意味はないと思う」
「おっかねえ一家だってことは否定しないんだな。さて、どうするよ」
「本件の解決に向けてということであれば、何もしない。というよりできない。このことによって父親が妥協案に賛成しづらくなったと考えれば、事態は悪化したとも言える」
手術から約二十四時間後、ケンちゃんは目を覚ました。
相談した結果、見舞いに行ってみることにした。が、面会は医者に止められた。
患者はまだ話のできる状態ではない、もともと小柄だったのが手術後はさらに痩せ、外見は十歳も老けてしまったという。うつろな目で病室の天井を見つめているそうだ。
ときどき発する声は小さく、がさがさとしわがれて、とても聞きづらいという。
「法律行為に関する意思表示はできるでしょうか」
むずかしいでしょうね、と医師は眉根を寄せた。
「かなりの大手術だったんですよ。ご高齢ですし、まだ治ったわけじゃない。患者を興奮させるような話題は、ひと月は控えていただかないと」
病院を出たところで、
「予想通り、事態は悪化した」
「そうだね。困っちゃったね」
荒川は原田をじろりと見た。
母親は脳梗塞だった。
何だかんだ言って二人は絆で固く結ばれているに違いない、そう原田は痛感した。彼女は夫が倒れた三日後の正午近く、近所のスーパーで買い物中に倒れた。救急車で例の病院に運ばれ、例の医師に命を救われた。できるドクターだ。
ただ、後遺症が残った。軽い言語障害と顔面の神経の麻痺である。医師が言うには、くちびるをしっかり閉じることができないため、ベッドに横たわってよだれを垂らし続けているそうだ。
「法律行為の……」
「三か月は無理です」
二人は雨の中、無言でオフィスに戻ってきた。
「あの二人なしじゃ話し合いなんかしたって意味がない。しばらくは塩漬けだな」
「やむを得ない。二人が回復して折衝に耐えられるようになるまで保留としよう」
ところが、この方針にユミちゃんが異議を申し立てた。
「駄目。これ以上は待てない。――わかったわ、仕方ない。均等でいいから払って。ああ何てこと。お店はいったん諦めるしかない。ちくしょうっ。彩花っ」
彼女は電話口で、共同経営者の離脱が決定したことを告げた。株価もひどいことになっていると言い、長い嗚咽の後、彼女は低い声でこう述べた。
「――父と母を説得する時間を頂戴」
まるで夜叉の声であった。父と母を呪う時間を、と原田には聞こえた。
「大吾さんは」
「あいつに文句なんて言わせないわ」
これが金曜の午後のことだった。ユミちゃんはそれから病床の両親と対決し、説得に成功した。父親に三分、母親に五日かかったという。弟くんが文句を言うことはなかった。
「最初に母に話したときはものすごい剣幕で抵抗されたわ。ベッドの上で体の動く箇所を全部使って「れったいにゆるさない、かねはたれにもわらさない」ってよだれを垂らして暴れた。でもその三日後にもう一度行ったときには、うつろな表情であっさりといいわよって。別人みたいに老け込んで。一体何があったのかしら」
失恋だろうと原田は思った。おそらくたっくんは、一億が聞いていたほど簡単に取れる金じゃないと気づいたのだ。だから諦めた。少なくとも一歩引いた。金が入らないのならこんな婆さんの相手をしているのは時間の無駄でしかない……。
こうして遺族四人の合意が成った。
同意書の調印手続きは翌週土曜の午後二時と決まった。代表受取は故人の妹、青木由美氏とする。会社は四人から、彼女が代表して満額を受け取ることの同意書をもらう。四人の間では彼女が満額を受領後に責任をもって三人に四分の一ずつを支払うという同意書を交わす。
荒川と原田は休日出勤だ。念のための警備の応援も依頼した。
――これでよし――
前代未聞の多重名義案件に、ようやく決着が見えてきた。原田は小笠原弁護士に電話してやった。あやうく忘れるところだったが、査定の結果を報告して了承を得る必要がある。ひと通り説明し、
「どうです。これ以上の決着はないでしょう。書類はこれから整えるんですけど、この方法での支払いをお許しいただけるとありがたいんですがね」
自分でもどうかと思うほどの嫌味口調で言ってやると、弁護士はこう返した。
「ご連絡ありがとうございます。先日のお話では、まだかかりそうだということでしたが、急にまとまったのですね。そうですか。ご両親が」
「支払いOKですね」
「御社の査定結果と保険金支払い許可の要求は承りました。ひとまずお疲れさまでした。内容を検討し、追って回答いたします。お手数ですが指示書にある通り、書面にしていただけますか」
「堅いこと言わずに、今OKって言ってくださいよ」
「故人から頼まれているちょっとした準備があるのです。ご心配なく、何日もかかるものではありません。差し支えなければ土曜の場に私も同席させていただけませんか。回答はその場で差し上げましょう」
断る理由が見つからないので了承したが、原田は何となく引っかかった。
さわやかな青年弁護士は初対面のときから悪印象だったが、今回も「ちょっとした準備」などともったいつけるのが気に入らない。せっかくクソみたいな案件が片付くというのだから、さっさと協力しやがれってんだ。
ユミちゃんが電話口で絶望の叫びを上げた金曜日、原田の父親の手術は成功した。
原田はそのことを母親からの留守電メッセージで知った。オイスターバーで夕食を取っている間にかかってきていたが、家に着くまで気づかなかった。母親の声は少しだけ鼻をすすっているようにも聞こえた。震えているのかもしれないと思った。
原田が折り返すと、今度は母親が留守電だった。原田はメッセージを残した。
――来週末、帰るよ。
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