第23話
翌週の六月十日の水曜日、空はどんよりと雲っていた。
青木家の四人が一堂に会する日だ。
場所は東西生命本社ビルの二階にある二〇九来客用会議室。手でつかんで投げられそうな調度品が一番少ない部屋だ。念のために壁の風景絵画も一時的に撤去し、部屋の前に警備員を二人立たせた。
参加者は客側四人のほか、会社側が荒川と原田、あと法務部とお客さまサービス部の担当者が一人ずつ。合計八人。五十嵐弁護士はあいにく大阪で裁判があり来られない。
約束の午後二時の前に、まずミサちゃん、次いでユミちゃんが姿を見せた。二人は目も合わさず、十六人用の楕円形の会議机のほぼ対角線上に座った。お互いに相手の長所も弱点も知り尽くしているはずだ。黙っていても緊張感が伝わってくる。
少し遅れてダイちゃんが到着した。何を思ったのか紺のスーツ姿だ。サイズが大きすぎて、見る者が苛々するほど似合っていない。緊張した面持ちで部屋に入り、二人の女を見た途端、びくりと体を硬直させた。そのまま一番入口に近い席にそーっと腰を下ろす様子を、二人の女がにらみつけるようにじっと見据えている。
最後に父親が到着した。無事だったか……と思ったら、左腕を首から吊っている。
「そのお怪我は」
「何でもない」
それだけ言うと、仏頂面で席に着いた。
「それでは――」
荒川が始めようとすると、母親が口を開いた。
「ちょっと待って。なんでそいつがいるのよ」
父親を指さしている。
「あんたにはもう関係ないの。とっとと帰んなさい」
「そんなことおれは認めていない」
「馬鹿らしい。こんな状態でまともな話し合いなんかできない。あたし帰る」
席を立とうとするミサちゃんに、荒川が言った。
「ご主人をお呼びしたのは私どもです。今後の手続きがスムーズに進められるように」
「勝手なことしないでよ。減らさなきゃならないのに、増やしてどうすんのよ」
「では、対応は弊社に一任いただくということでよろしいですね」
荒川が言うと母親は目を剥いた。興奮したせいか、甘い香水の匂いが部屋中を舞った。
「そんなこと言ってないでしょうが」
「でしたらお座りください。このままではいつまで経っても手続きができません」
ミサちゃんは渋々腰を下ろした。
「とにかく、せっかくのお金を工場に使うなんてありえないから。どぶに捨てるようなものよ。このお金は、あたしが人生をやり直すための資金にする」
すると次にユミちゃんが口を開いた。セクハラ投書のことなどすっかり忘れたような顔をしている。
「正気とは思えない。あんたに大金を渡したら一晩で歌舞伎町に捨てちゃうでしょう。落ち目の工場に使うよりナンセンス。どっちも無駄。お金の使い方を一番知っているのは明らかに私。ちょうど今、お店の共同経営者から経営権を買い取る話がある。そのお金は私がもらってお店の拡大に使わせてもらう。生きた使い方ができるのは私だけよ。すぐに倍に増やしてやるわ。あの非常識な兄にはさんざん迷惑をかけられてきたんだから、私にはもらう権利がある」
弟くんは圧倒されまくりながらも虚勢を張って発言した。
「みんな、い、今になって都合のいいことばっかり。兄貴のことを嫌っていたくせに。自分はみんなに嫌われているって兄貴は寂しそうに言ってたぞ。おれだけに言ったんだ。兄貴のことを理解していたのはおれだけだ。そんなおれに兄貴は金を残してくれたんだ」
「ガキは黙ってなさい」と、母。
「おまえもだ、この色ボケ女」
「何ですってこの無能経営者」
「その工場のおかげでぜいたくができたんだろうが」
「やめてよ。みっともない」と、妹。
「うるさい。だいたいおまえは自分の店があるんだろう。金はこっちへ回さんか」
罵声の応酬が激しくなっていく。法務部とお客さまサービス部の二人は目を白黒させながら固まっている。無理もない。こんな修羅場、滅多に見られるもんじゃない。
そのとき、思いがけない音量で荒川が場を制した。
「お静かに願います。状況はわかりました。失礼ながらこちらの予想した通りです。先日個別にお話ししたときから何も進展していない。このままではいつまで経っても代表受取人の選定はできないでしょう。そこで一つ提案があります」
視線が一斉に荒川に注がれた。
「前提として、この方法は全員の、事前の完全な同意を必要とします。完全な同意です。後になってやっぱり認めないと言い出す方がおられるようですと成り立ちません」
「何。何よ」と、母親。
「どういう方法なんだ」と、父親。
「名義変更の請求書三枚のうち、最後に書かれたものを有効とするというものです」
「どういうこと」と、妹。荒川は説明した。
「すでにご説明した通り、名義変更は契約者の意向によって契約の有効期間中なら何回でもできる手続きです。本件の請求書は三通とも同日付であるために混乱が生じていますが、それでも作成された順番があるはずです。最後に作成された請求書にお名前を書かれた方を代表受取人とするという案です。この考え方にみなさんの同意をいただきたい」
「そんなの、どうやって調べるのよ」と、妹。
「日付は入院中のものですので、病院に確認します」と、荒川。
「わかるのか」と、弟。
「訊いてみないとわかりません」
「駄目」母親が声を上げた。「そんなときは親の分から先に書くに決まってるじゃないの。あたしが不利。そんなの絶対認められない」
「そうとは限らないだろう」と、弟。
「リスクが大きすぎるわ。医師や看護師に、いい加減な記憶で証言されたらどうするの。誰かが医者や看護師に嘘の証言をさせようとするかもしれないし」と、妹。
「そんなやり方じゃおれが最初から外れてしまうじゃないか。それじゃ意味がない。東西生命がやらなきゃいけないのは、名義変更請求がでたらめだと証明することだろうが。おまえら三人がグルになっておれの金を横取りするためにインチキの名義変更をでっち上げたんだろう」
父親のそのひと言で、またしても怒号が飛び交い出し、議論にならなくなった。江川審議役ご提案の、書類作成の順番作戦はあっけなく瓦解した。荒川が再び場を制す。
「お静かに願います。それではもう一つの方法をご提案します。これが最後です」
「どんな方法よ」と、母親が吐き捨てるように言った。荒川をにらみつけ、肩で息をしている。他の三人も期待と敵意の混ざった視線を荒川に注ぐ。
「保険金を四等分するのです」
室内に落胆の空気が流れた。
「だから、それじゃ足りないのよ」妹が言った。
「一時しのぎじゃ駄目なんだ」父親も言った。
「一億って約束なのに」母親が続く。
「子どもの命がかかってるんだぞ」弟も叫んだ。
また轟轟となり、荒川が声を張る。
「やはり話し合いでの合意はむずかしいようですね。たいへん残念ですが、弊社としてこれ以上できることはありません。このうえは裁判で決着をつけていただきましょう」
「裁判?」弟が情けない声を出した。
「当事者間で解決できない争いは司法に判断してもらうしかありません。どなたが正当な受取人なのか、みなさんそれぞれご自分で弁護士にご相談のうえ、法廷で主張ください。訴訟にむけた手続き、諸費用、弁護士報酬などもすべてみなさんご自身の負担となります。期間は長ければ数年かかるでしょう」
「馬鹿言ってんじゃないわよ。負けたらどうすんのよ。責任とってくれるの」と、母親。
「弊社が裁判の結果に責任をもつことはありません」これは荒川。
「だったらそんなの駄目よ」と、母親。
「数年なんて無理。店は生き物、今すぐにでも受け取りたいくらいなのに」
「おれも子どもが生まれちまう」
「返済の期日は月末だぞ」
「では、四等分するしかありません」
堂々巡りの怒鳴り合いは陽が落ちるまで続いた。
この日は結局、何も合意に至らなかった。
夜七時半、ようやく長時間の会合が終わった。法務部とお客さまサービス部の二人が消耗しきった様子で自所属へ戻って行った。
「あーあ、疲れた。今日はもう帰ろうぜ」
「その前に課長に報告だ」
「もういねえよ。明日でいいだろ」
「携帯に報告すると伝えてある」
「おまえ電話しといて」
「本件のメイン担当は君だ。もう少し自覚してくれ」
「今日はちょっと体調が悪くてさ」
「声に張りもあるし発言内容も論理的だ。課長にもその調子で話せばいい」
「いたたた、急に腹が……」
「すぐに君から電話で報告をするんだ。仮病の腹痛など論外、これは仕事だ」
「わかったよ」
ちっ。思わず舌打ちが出た。まったく面倒くせえ。
「済んだらすぐにフロアに戻ってくれ。ぼくは先に行っている」
「ええ? まだやんの」
「話し合いは決裂した。今後の方針を検討する必要がある」
原田はうんざりした。弁護士に対応を委任したはずなのに、どうしてこっちへ戻ってきやがるんだ。まったく筋の悪い案件ってのはとことん筋が悪い。
荒川がエレベータで七階へ戻った後、原田は課長の携帯に報告を入れた。幸いにも留守電だったので、話し合いはまとまりませんでした、とだけ告げて切った。
と、ちょうどそのときスマホが震えた。着信だ。見るとアドレスブックの登録名ではなく番号が表示されている。迷惑電話の類なら無視するのだが、見覚えがあるような気もする。一瞬迷ったが出てみた。すると、
「先日伺った弁護士の小笠原と申します」
あの若い弁護士だ。答えを知っているのに教えやがらない、さわやかケチ男。こいつのおかげでこっちはえらい目に遭っている。
「小笠原先生。何でしょう」
――答えを教える気になったか――
「遅い時間に恐縮ですが、例の件はいかがでしょう。検討は進んでいますか」
「先生は省吾さんのご遺族がどんな人たちかご存じですか。ご存じならおわかりでしょうが、まともに話し合いができる人たちじゃない。じつは今日、全員に集まってもらったんですがね、怒鳴り合いのけなし合いが延々五時間ですよ。そんなわけで、まだしばらくかかりそうです。先生は契約者の本心をご存じなんでしょう。それを、ほんのちょっとだけ私たちに教えてもらえれば、すぐにでも解決するんですけどねえ。このままじゃ、ずーっとまとまらないかもしれませんよ。先生が教えてくれないせいで」
弁護士は原田の嫌味を意に介さず、
「進展なしと……。わかりました。では引き続き一日も早いご連絡をお待ちします」
プツン。
「あ、先生。―――くっそ。切りやがった」
よりによってこのタイミングで嫌味な電話。何なんだよ。
――もういっぺん、この弁護士をつついてみるか――
次の一手をどうするか荒川先生も悩んでいらっしゃるようだしな。小笠原本人をつついても駄目なら、同じ弁護士事務所の上のほうの伝手を探るか。上のほうを抱き込んで、いくつか仕事を回してやるとか言って……。
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