第22話
週が明けて四日ほど、母親のミサちゃんはおとなしくしている。たっくんの手下連中から弁護士へのいやがらせも影を潜めている。警察の威力はさすがというところか。妹のユミちゃんは、バーテンの証言を内容証明で送りつけてやったらそれきり黙った。弟のダイちゃんも婚約者が現れた夜以降はコールセンターへの迷惑電話をぴたりと止めている。
父親のケンちゃんだけは、連絡がないのが――木下の細長い腕にからめとられた様子が思い出されて――少し気になるが、かといってこちらから安否確認などしない。たとえ何かされていたとしても、どうせ気の毒に思ってやるくらいしかできない。言ってみれば自業自得。好転見込みのない町工場などさっさとたたんで自己破産してしまえばよかったのだ。経営判断を誤って人生を棒に振った、哀れで時代遅れの零細企業経営者……。
静けさが逆に不気味だという気もするが、とにかくここへきて当初の原田案――放っておくこと――が図らずも実現している。ああよかった。ところが荒川は非常によくない状態だという。
「どうして」
「支払えない状態が長期化すれば、遅延利息が発生するかもしれないからだ」
遅延利息とは、請求を受けてから保険金の支払いまでの期間が通常より長くかかった場合に、保険金に上乗せして支払われる利息である。事務サービスが遅れたという認定がなされるわけで、担当部門としては不名誉な事態と言える。社内ルールではそこそこ大きな事務ミスにカウントされる。
「遅れてるのは客のせいだろうが」
「見方によってはそうだが、別の見方をすれば、名義変更手続きに関する会社の判断が遅れているのだとも言える。書類に不備はないのだから」
「そんな無茶な」
「裁判になったら、裁判官が遅延損害金も支払うべきと判断する可能性もある」
加えてロビーの一件以来、部長が早く片付けろとうるさい。毎週、長期の苦情をトレースする会議があって、資料の中でこの案件はひときわ目立っているらしい。
「全員を呼び出して話し合いの場を持とう」
と荒川は言う。原田は反対した。
「机と椅子が飛び交うぞ。血を見るぞ」
「ではどうすればいい」
「放っとこうぜ」
荒川は冷たい視線で原田を一瞥すると、無言で課長席に向かった。冗談だってのに。
課長席で何やら話しこむ二人に、原田は椅子をくるりと回して背を向けた。ふと先日疑問に感じたことを思い起こした。
――青木省吾ってのは一体どんな男だったんだろう――
自分とおそらく同学年。親より先に死んでしまった。
父親によれば、幼い頃から言うことを聞かず、勝手に外国に飛び出すような親不孝者。母親によれば、成績はいいが何を考えているかわからない薄気味悪いガキ。妹によれば非常識で傲慢な社会不適応者。弟によれば文武両道、超優秀で弟思いの優しい兄。
そしてアメリカでの成功と転落、帰国と死。華麗にしてあっけない、ジェットコースターのような三十二年。
――兄は何のために保険になんて入ったのかしら――
ユミちゃんの疑問ももっともだ。謎である。保険とは基本的に貧乏人のものだ。高額の医療費も老後の資金も心配しなくていい程度に金があるやつには保険など必要ない。当時のショーちゃんのようなケタ違いの高給取りで、しかも独身の変人がなぜ保険になんか入ろうと思ったのか。
何を考えていたのかを想像するには、その人となりを知る必要があるが、遺族による人物評はバラバラで今一つはっきりしない。ただしモージャ系の印象はない。どちらかというと金には無頓着で、浮世離れした男のイメージが浮かぶ。
金にこだわる常識人だったら、帰国して今にも潰れそうな町工場なんかに就職したりしないだろう。きっと渡米前にいた大手に出戻るか、同じような規模の有名企業に入社していただろう。なにしろ天才なのだ。彼を欲しがる会社はいくつもあったに違いない。
――どうもしっくりこない――
改めて資料を見る。彼が加入していたのは一時払いの終身保険だ。金利が高い時期だったら長期の資産運用にもなりえただろうが、低金利の今は加入して何年経とうがほぼ増えない。つまり掛け金である保険料は、一億円と大差ない金額なのである。それをショーちゃんは加入時にいっぺんに払い込んでいる。
たしか家族に内緒で一時帰国して大阪にいた時期の加入だと言っていた。アメリカの会社が訴訟で倒産する前のショーちゃんは金持ちだったから、大した負担ではなかったのだろうが、一体何のためだったんだ。
――ただの気まぐれか――
案外そんなところかもしれない。天才ってのは変人と紙一重だから……。
荒川が課長席から戻ってきた。
「青木さんの件は、やはり全員に集まってもらう。これから法務部に相談に行く」
「法務部?」
「君も来てくれ」
「どうしよっかなあ」
椅子をくるりと回してあちらを向いた原田の正面に回り込んで、荒川は仁王立ちした。
「何度も言わせないでくれ。担当は君だ」
法務部には江川という審議役がいる。保険金がらみのややこしい案件はだいたいこの人が捌いているという。総合職員として入社してから司法試験に通ったという変わり種だ。年次は高そうだが背筋はぴんと伸びていて、声がでかい。
「厄介な案件だな、荒川ちゃんよ」
江戸前の落語みたいな口調で話す。
「お手数かけます」
頭を下げる荒川に、
「いいって。あんたの案件はいっつも面白えからな。こんなこと遺族には言えねえが」
ガハハと笑う。
「資料を読んだが、こいつァもう超法規的措置しかねぇな。それが法務の見解だ」
法務が超法規的措置、と原田が思わず言うと、
「原田さん、だったっけな」
ジロリという感じで見られた。
「そうですが」
「あんたはもうちっと、手ぇかけて仕事した方がいいな。じゃねえと逆の目が出るぞ。仕事で手ぇ抜いたしっぺ返しは怖えぞ」
――そんなことはわかっている――
そう思いながらも、ちょっとどきりとした。気圧された。
「まあ、そっちはおいといて。とにかくこの件は、今のまま客側に任しといちゃあまとまんねぇよ。もうストレートは駄目だ。変化球でいこう」
「変化球?」
「法的なもんは二の次にして、全員が納得するようにするってこと。例えばこうだ」
説明を聞いて原田はうなずいた。
面接アポは土曜の午後だった。
梅雨どきらしく雨で、やや蒸し暑かった。
USライフの面接官は二人だった。一人は小柄で地味な印象の男でおそらく日本人。ひと言もしゃべらず、面接の間じゅうパソコンに何かを打ち込んでいた。もう一人は自信に満ちた物腰で流ちょうな日本語を操るアメリカ人。やりとりは主にこちらと行った。
マウスウォッシュのCMのようにさわやかな印象だが、ときおり酷薄そうに口元を歪める。口調は快活でも目は笑っていない。ふふん。原田は一種の好感をもった。
――外国から来ているんだから、そのくらいでないとね――
面接は二十分もかからなかった。言わされたのは簡単な職歴と希望の報酬だけで、ありきたりの自己PRとか志望動機などは訊かれなかった。どうやら最初から結論は決まっていたようだ。
「わたくしたちは日本市場ではまだ新参者です。先行組のような知名度もシェアもありません。しかし商品やサービスには自信があります。わたくしたちが求めているのは、あなたのような、ビジネスを一気に拡げてくださる優秀なセールスです」
前回の会社とはだいぶ方針が違うようだ。
「ありがとうございます。しかし私が優秀かどうかはまだわからないと思いますが」
「あなたは業界では有名人です。お噂は聞こえてきますよ」
それじゃ、と言いかけてやめた。先方はおれの処分のことを知っている。承知の上で採用するといっている。不利を承知の後発組。多少荒っぽい募集でも目をつぶってやるから、シェアを伸ばして会社に貢献しろということだ。
「ご期待にこたえるよう全力を尽くします」
「結果については追ってご連絡いたします」
相手は握手を求めてきた。
「よし」
ビルを出ると雨は止み、晴れ間が出ていた。
原田は小さくガッツポーズをした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます