第21話
週明けの月曜、午前十時半頃に、また五十嵐弁護士から荒川に電話があった。
「間もなく御社に警察から連絡があると思います」
事情を聞けば、今朝もたっくんの子分による嫌がらせがあり、警察に通報したところ逮捕者が出たという。チンピラみたいな若造が二人、事務所の前でうろうろして、出入りする従業員や顧客に絡んできたとのことだ。注意してもやめようとしないので、五十嵐弁護士は警察に通報した。警察が来るぞと告げると、逆上した二人は事務所に乗り込んできて、入口付近の調度品を倒して壊したり、自動ドアを蹴って故障させたりしたらしい。
「威力業務妨害、住居侵入、器物破損です。今どきそんなことをするやつらがいるとはね。こいつらはプロじゃない。頭も悪い。逆に怖いですよ。何をしてくるかわからない」
警察からの連絡は一時間も経たないうちにあった。五十嵐弁護士に聞いていた通りだった。代表から転送されてきた電話を取ったときの課長の顔は見ものだった。赤くなって蒼くなって、最後に白くなった。
その翌日には、ダイちゃんが再び会社を訪ねてきて受付から電話を寄越した。
「何度言わせるんだ。弁護士のところへ行けって」
「そう言わずに見てくれよ。原田さんに見て欲しいんだよ。今度こそ本物だよ。こないだのは間違いだったけど」
ダイちゃんは弁護士が嫌いなのだ。五十嵐弁護士によれば、例の福祉施設の理事長は青木省吾という人物のことなどまったく知らなかった。どうやら振込先に指定する口座の名義のために施設名を拝借しただけのようだ。杜撰というか幼稚というか……。しかも、それを告げてもダイちゃんは悪びれた様子もなかった。
「おれのせいじゃないよ。兄貴が紛らわしい書類を残すからいけないんだ」
――子どもの寝言――
借金と結婚で切羽詰まっているのは確かなのだろうが、やりかたがあまりにも稚拙だ。こんな申し出に応じられるわけがない。どうしてそれが分からないのだろう。
「じゃあな。弁護士には電話しとてやるよ」
「あ、待ってくれって」
警備に連絡してつまみ出してもらった。しかし、ほっとしたのもつかの間、今度は外線でかけてくるようになった。ほぼ三十分おきだ。やめろと言っても聞かない。原田の席の直通ではなくコールセンターにかけてきて原田につなげと言う。止めようがない。
「何とかしてください」
二時間後にはオペレータに泣きつかれた。非通知でかけてくるからダイちゃんの電話を識別する方法もなく、結局は原田に回してもらっていい加減にしろと怒鳴るしかない。
「無駄な電話応対で業務に支障が出始めている。威力業務妨害といえるだろう。明日以降も続くようだったら、かかってきた時刻と応対にかかった時間を記録しておいてくれ」
「面倒くせえな」
「仕事だ」
その後もダイちゃんは、何枚も「遺書」を持ってくることになったが、どれも五十嵐弁護士が鼻で笑うものでしかなかった。
警備がダイちゃんをつまみ出した二日後のことだった。雨の中、原田が帰宅すると自宅マンション前で声をかけられた。
「原田さん……ですよね」
傘をさしたまま身構えた。たっくんか。警察にやられたのにまだ懲りないのか。
――女?
「どちらさん」
「サカキヒロミといいます」
ヒロミちゃん? マンションのエントランスから漏れ出る灯りは強くないが、女が透明なビニール傘を後ろに傾けると、顔が見えた。ショートヘアで細身。ジーンズにカジュアルなジャケットを羽織っている。化粧っ気はなく幼い印象だが、真っすぐな視線には力があった。
――あのダメダメ弟くんにはもったいない感じ――
それはともかく予想外の展開だ。
「どうしてここが」
「すみません。彼からお顔を教えてもらって、昨日の夜、会社から後をつけました」
ぺこりと頭を下げる。くそ、全然気づかなかった。
「帰ったほうがいい。こんなこと何の意味もない。事態を混乱させるだけだ」
相手はひるまない。
「彼は知りません。私が独断で来たんです」
「同じことだ。彼の利益は君の利益だ。結婚するんだろう」
ヒロミちゃんは大きくうなずいた。
「彼、原田さんにいろいろ言われて落ち込んでました。原田さんはすごいって言ってました。一瞬で全部見抜かれちゃったって。ひょっとするとお兄さんよりすごいかもって」
虫ケラは人を見る目もないようだ。
「あの人、本当はわかってるんです。デキる男に憧れているけれど、実際の自分は駄目な人間だって。ギャンブルで手に負えないような借金こさえたり、気が弱いくせに突っ張って失敗したり。でもいいところもあるんです。正直で嘘がつけないところとか、お兄さんのことを心から尊敬していたこととか」
どうやら原田のことを押さえつけて腹に一発、が目的ではないらしい。
「近くにファミレスがある。そこで話そうか」
ヒロミちゃんは首を振った。
「すぐに帰ります。ただ、分かって欲しかったんです。あの人がお金を欲しがっているのは、自分のためじゃないんです。私とおなかの子のためなんです」
腹部を押さえる。まだ目立ってはいない。
「この子、病気なんです。とても治りづらい、ちゃんと生まれてくるかもわからない難病だってことがもう分かっているんです。生まれてきても何歳まで生きられるかわからないんです。生きていくには大変なお金がいるんです。でも、私はどうしても産みたいって言ったんです。あの人は堕ろせって言ったんですけど、私が産むって言ったんです」
ヒロミちゃんは瞳だけが泣きそうな顔をしていた。雨の音が周囲ですこし強くなる。
「彼は、最初は困ったような顔をしていたけど、最後は、わかった二人で頑張ろうって言ってくれたんです。私は三人だよって言いました。不器用だけど優しい人なんです。そのことを分かってあげてほしいんです。お願いします」
若き妊婦はそう言うと、傘を両手で握りしめたまま、深々と頭を下げた。雨粒が傘の上で跳ねまわった。
ミサちゃんが警察に連行された。
五十嵐弁護士事務所での暴力沙汰の首謀者と判断されたのだ。逆恨みの可能性に配慮した五十嵐弁護士の意向もあり、即日釈放されたようだが、毀損した家具や調度品の賠償は求められることとなった。
「余計な出費になっちまったな、ミサちゃん」
こんな金をホストが負担してくれるわけがない。結局、ミサちゃんは自分の経済状態を悪化させただけだ。
「たっくんがあきらめて手を引いてくれるといいんだがね」
「ぼくの見方は否定的だ」
「今度はダンナみたいに、何か武器をもって乗り込んでくるかもね」
午後、課長が荒川と原田を呼んだ。見れば怒りの表情だ。会議室に連れていかれた。
「青木由美氏から書状が届いた。社長あてに」
「ユミちゃ――妹さんから?」
「原田。おまえ一体何をやらかした」
課長は、怒鳴りつけたいのを抑えている感じだ。荒川は――普段と少しも変わらない。
「その内容は本当なのか」
ばさり、と目の前のデスクに投げられた。手紙のコピーだ。書いてあったのは予想していたより少しオーバーな内容だった。原田は面倒くさそうに顔を上げた。
「やっぱり来ましたか。嘘ですよ、こんなの。ただの嫌がらせだ」
「本当だろうな」
「決まってるじゃないですか。荒川、おまえからも何か言ってくれよ」
手紙には、ユミちゃんが原田にセクハラを受けたと書いてあった。保険金査定担当として便宜を図るから、一晩つきあえと迫ったと。
それ以外にも、ストーカーまがいの行為で自宅までつけられたり、よく立ち寄る店を調べて待ち伏せされたりしたという。不愉快だったが、保険金の支払いが済むまでと思って我慢していたのだそうだ。
そのうち、どうやって調べたのかレストランの共同経営者に対しても同じような行動をとるぞと脅してきた。さすがにもう我慢ができなくなったので、会社に対応を求めることにした。止めさせたうえで本人に謝罪させてほしい。そうでなければ法的手段も検討する……そういう内容だった。
――幼稚な――
こんなことで事態が好転すると思っているのだろうか。濡れ衣を着せられそうになった相手がどう感じるか想像もできないのか。
「内容はおおよそ真実味に欠けています。ただ、すべてを肯定も否定もできません」
「な。おまえ」
「彼のプライベートな時間やホテルでの件について、ぼくは責任あるコメントができません。常に彼の行動を監視しているわけではありませんから」
「おまえが来なかったからあんなことになったんだろうが」
「彼女からアポはキャンセルだと連絡が入った」
「簡単に騙されやがって。おれに確認すりゃすぐにわかったのに」
「君こそぼくの不在に不審を覚えなかったのか」
「思ったさ。でもおれはあのとき顧客対応をしてたんだ。保険に入りたいって言って来た以上はユミちゃんだって客だ。確認の電話なんてする時間はなかった」
「お互いに事情があったということだ」
「そうじゃない。こういうときは原田に限ってそんなことはないとか言えってんだよ」
「そこまで深く君のことを知らない」
「この――」
「ただし課長、ぼくの心証としては、彼はそんなことはしないと思います」
「確かか」
「あくまでもぼくの心証です。彼は冷静な判断能力と先を読む目を持っています。長い目で見て自分に不利となるような愚かな行為はしないでしょう。それよりも由美さんから誘われそうになったという彼の証言のほうが信憑性は高いと感じます。彼女は例の一億円の受取人候補ですから、彼を誘惑して自分の側に取り込めば、代表受取人の選定が有利になると考えても不思議ではありません。実際にはまったく影響はありませんが」
「最初っからそう言やいいんだ」
「わかった。不支払いに腹を立てた受取人からのこの手の怪文書はよくあるからな。しかし、こんなものを出されるなんて脇が甘いんじゃないか」
カチンときた。
「客の逆ギレまで止められませんよ」
「顧客との信頼関係が構築できていないからこういうことになるんだ」
「しんらいかんけい。こんなのと。無理です」
「とにかくこれが嘘ならそれを証明しろ」
「信じるんですか。無視すりゃいい」
「社長あてだ。つぶしておく必要がある」
「そんなのは時間の――そうだ。証人がいます」
バーテンはこちらの質問にきちんと答えてくれた。意外なことに、必要であればこちらの上司に話をしてもいいとまで言ってくれた。
「助かります。しかし……」
あの夜はとくに意識もしなかったが、よく見るとまだ若い男だ。しゃべり方は落ち着いているがおそらく二十代。口ひげを生やしているのは若く見られるのが嫌なのか。
「どうしてそこまでするのか、ですか?」
「あなたには厄介ごとでしかないはずだ。彼女に逆恨みされるかもしれない」
「じつはあの方、私を買収しようとしたんですよ。あの夜、あなたが来られる前にね」
ふむ。考えられるな。
「ちょっとした額でしたが、お断りしました」
「どうして」
「目先の金のための嘘なんてたいていろくなことになりませんから。バーテンダーっていうのは、こう見えて信用が大事なんです」
原田は改めて礼を言った。
「また来ますよ」
「ごひいきに」
この件が片づいたら、あらためて飲みに来てみようかと原田は思った。荒川も誘ってやるか。この男とは気が合うかもしれない。
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