第20話

 次はユミちゃんの番だ。金曜の午後にかかってきた電話を荒川がとった。

「この間のホテルの喫茶店に午後七時に来てくれと言われた」

「また遅い時間だな。弁護士委任の件は伝えたんだろう」

「別件だ。生命保険に加入したいそうだ」

 原田は鼻で笑った。

「支社を紹介してやれよ。おれたちが募集したって成績にならない」

「彼女は、君のような優秀なセールスから説明を受けたいと言っている」

「おれの経歴を知ってるのか」

 ――興信所か。妹もなりふり構ってはいられなくなってきたか――

 行きたいわけがない。が、断ったらそれを口実に苦情にしてやろうという魂胆かもしれない。こいつを行かせるか。いや、それは妙案とは言えない。二人きりなんていくら何でも――ユミちゃんが気の毒だ。

「どういう意味だ」

「冗談だよ」

 結局、二人で行くことにした。ヤバそうな苦情対応のセオリーだ。荒川は直前に他社との会合があるというので、十分ほど前に現地で合流することにした。

 ところが原田が着いてみると、約束の喫茶店にはユミちゃんも荒川も見当たらない。ロビーフロアを探してみると、奥のバーカウンターにユミちゃんだけがいた。

「原田さん。お待ちしていたわ」

 不自然なほど明るい声。この前よりも少しばかりメイクが濃く、頬も上気している。

「どうも」

 近くまで行ってわかった。酔っている。胸元のえぐれた黄色のワンピース。体の線が出るデザインだ。

 ――よくねえな――

 長居は無用だ。原田は辺りを見回した。

「荒川はまだ来ていませんか」

「来たわよ。でも忘れ物をしたからいったん会社に戻るって」

「そうですか。――ちょっと失礼」

 原田が確認しようと携帯を取り出すとユミちゃんがそれを制した。

「いいから座って」

 原田は隣りの椅子に腰を下ろした。やや距離を保って……。

 たとえば電車の中で痴漢でつかまる。冤罪だとしても問題になった時点でほぼ間違いなくすべてを失う。社会生活を営む男性、特に生命保険のような堅い業界のサラリーマンにとって下半身のスキャンダルは致命傷に近い。

 バーテンが寄ってきたが、原田は無言で首を振った。

「まずはちょっと飲みましょう」

「仕事中ですから」

「もう七時よ」

「お断りします」

「いいじゃない。ねえ、ちょっと。ビールを頂戴」

 バーテンを呼んで勝手に注文してしまう。

 グラスが運ばれてくると、ユミちゃんは乾杯、と言って自分のグラスをそれに当てた。 客の立場を利用した強引なやりかたに原田は怒りを覚えた。このまま席を立ってしまう手もあるが……この店にいる限りバーテンの目はあるな。

 ――よし、少しつきあってやるか――

「どうしたの。飲まないの」

 原田はわざと正面からにらむようにして言った。

「言ったでしょう。仕事中ですから」

「真面目なのねえ、原田さんは」

 ユミちゃんはふう、とため息をついた。酔いのせいか先日よりも色気が出ている。

 ――タイプじゃねえけどな――

「それでは、さっそく始めましょうか。私もこの後、予定がありますので。あなたのような責任あるポジションの方にお勧めなのは……」

 原田が広げたパンフレットを、ユミちゃんは横へどけた。

「そんなの後でいいわ」

「弊社へのご加入を検討中とうかがったんですが」

「原田さんにだったら入ってもいいんだけど、今日の本題はその話じゃないの。例の一億の件よ。原田さんだけには、本当のことを話しておこうと思って」

「本当のこと」

 ユミちゃんはうなずき、じっと原田の顔を見た。その瞳がうるんでいる。

「私に払ってほしいの」

 そらきた。

「その件はすでにお話しした通り……」

 ユミちゃんは緩慢な動作でかぶりを振った。

「わかってるわよ。弁護士にも話すわ。でも、その前に原田さんに話しておきたかったの。あの二人、全然お話にならないの。母はああいう人でしょう、私が代表として受け取って、それから三人で分けるというやり方を、どうしても承知してくれないの」

 そりゃそうだろう。

「私に相談されても困ります。弊社が仲介をすることはありません」

「でも、それじゃ解決しないわよ。兄の意思は私に残すことなんだから」

「その根拠は」

 ユミちゃんはそれには答えず、カウンターの奥の酒びんの群れを眺めながら続けた。

「私のお店には共同経営者がいるの。話したわよね。大学時代の友人で、事業を始めたいということで話が合った。いつも二人で夢を語りあったわ。卒業して、私はいったん就職したけれど、夢は変わらなかった。お店は、彼女と二人だからできたこと」

「そうですか」

「不景気だったけど、資金をつくるために株や為替のことを必死で勉強した。二十六歳のときにちょっとした儲けが出た。それを元手にしてあのお店を出したの」

 グラスの赤いカクテルを一口飲む。

「二人で手を取り合って喜んだわ。これで人生が開けると思った。兄を見返してやれると思った。だって、どんなに優秀だとしても、兄はしょせん自分で事業なんかできやしない。でも私はできる。そのことを証明してやったのよ」

 ユミちゃんから見ればそういうことだ。

「お店は順調だった。シェフは南イタリア帰りのちょっとイケメンをスカウトしてきて、ファッション雑誌に勤めている大学のOGの伝手をたどって、メディアでの紹介もしてもらった。たまたま近所に人気のモデルが住んでいて、気に入ってくれたこともあって、うまくいったわ。お客さんはどんどん増えた。ぜんぶ私の企画、私のアイディアだった」

 ユミちゃんは昔を懐かしむ表情になっている。原田は思った。これは一種の現実逃避、ケンちゃんが工場の事務所で見せた表情と一緒だ。ということは。

 ――ユミちゃん自身も、店はもう駄目だとわかっている――

 しかしまだ信じたくない。そういうことだ。彼女も崖っぷちの中小企業の経営者だ。ナイフの切っ先が心臓に達するまで、コートの内側でどくどくと溢れ出している血は誰にも見せないつもりだ。

「お店が順調なら、お金はお父さんに譲ってあげたらいかがですか。あるいは弟さんに」

「駄目よ」ユミちゃんの目が敵意に光った。「あんな工場、いくらお金を回したってどうせすぐに潰れるわ。そもそも仕事がないんだから。父は早く工場をたたんで、どこかの施設にでも入ったらいいのよ。弟はもっと無駄。大金を持たせたらあっという間にまたわけのわからない女とギャンブルに使ってしまうわ。あの子は典型的な馬鹿よ。何とか生きているみたいだけど、これ以上あの子に関わるのは人生の無駄。甘やかすことはない。母親は論外だし――もう、みんなどこか遠くへ行って、私の目の前から消えて欲しい」

 最後のほうはヒステリックに震えていた。

「みなさん、あなたの成功をうらやんでいるだけではありませんか」

「成功? ふふ、そうかもね。でも――」ぎろりと原田をにらんでくる。「――成功者でもお金は要るのよ」

「しかしお父さんの工場に比べたら……」

「彩花が手を引くと言い出したのよ」

「――はい?」

「あの子は私と違っていいとこのお嬢さま。実家は大病院の経営者で大金持ちなのよ。行く行くは医者と結婚してそこを継ぐの。レストラン経営なんてひまつぶしのお遊び。でも一千万を超える損が出るとなれば、さすがにお父さんが黙っていないわ。本当はお父さんのお金なんだから。資金を引き揚げると言いだした。これ以上利益が出ないなら手を引くって。あの子はもうお店に対する興味を、半分なくしかけてる」

 声に怒りが滲んでいる。

「私は違う。これは遊びじゃないのよ。最初は単にあの家から出るための手段だったけど、今はもう私のすべてなの。私にはうまくやる自信がある。でも出資額はあの子のほうが多いから、意見が違うときは彼女の言い分が通ってしまう。内装やメニューや音楽なんか、半年前から趣味が悪くなったのはあの子のせいなのよ。それまでは立地の割にうまくいっていた。食器や食材だってもっといいものを使っていたのに、あの子の顔を立てて仕入れ先を変えた。そんなことをしたらお客さんが減るのがわかっていたのに。さんざんそう言ったのに、あの子は『じゃ、やめちゃおっかな』って私を脅して……。案の定、店の評判は落ちた。常連客も減った。全部あの子のせいなのよ。それを私のせいにして。店を切り盛りしてきたのは私だからって。自分は何一つ貢献なんかしていないのに」

 ユミちゃんの目に涙が浮かんできた。

「それでも、あの子のほうがルックスはよかったから、雑誌やテレビの取材にはあの子を優先的に出すようにしてた。ちやほやされるのに慣れているから受け答えもそつがなくて、記事には華があった。私じゃああはいかなかった。でもあの子はそれだけなのよ。実際に経営をしているのは私なの。それなのに」

 カウンターをどん、と叩く。――ヤバいな。うまくあしらう自信がなくなってきた。

「わかるでしょう、原田さん。この先お店を続けるには、私が彩花の持ち分を買い取るしかないのよ。そうすればまた繁盛する。でもそのためには五千万要るの。また株で貯めようとしたけど、今回は前と違って相場が悪くて、なかなかうまくいかなくて、儲けるどころか三百万くらいの損が出てる。麻布のマンションだってとっくに売却済みだし、株を買うための資金を信金から借りるのに、彩花に内緒でお店の預金を担保にして……。ねえ、原田さん」

 ユミちゃんが上気した頬を寄せてくる。原田は身を引きながら、

「酔っているときに大事なお話はしないほうがいい。私は帰ります」

「待って。本題はこれからなの。わかったでしょう。お金が要るのよ。担保のことが彩花にばれたら私はおしまい。絶対に活きたお金にするから。私が使うのがお金にとっても一番幸福なのよ。――兄が残したかったのは、私なんだから」

「何か証拠があるんですか」

「あるわ――部屋に」ユミちゃんは天井を指差した。スツールから降りようとして傾いた体を、原田は支えた。

「大丈夫ですか」

 ユミちゃんは原田の手を握り、体を寄せてきた。切羽詰まった視線で、

「一緒に来て」

 原田は首を振った。

「できません。証拠とはどんなものですか」

「だから……部屋に来たら見せてあげる」

「困ります」

「いいから来て」

 原田は手を払いのけた。

「きゃっ」

 支えを失ったユミちゃんが床に倒れ込んだ。原田はあえて手を貸さない。他の客たちの視線を感じる中、原田は彼らにも聞こえるように言った。

「お部屋までご一緒することはできません。ここでお待ちしていますから、お一人で取ってきてください」

「何よ、紳士づらして。こっちはこんなに必死で。決心して……。もういい。……絶対に許さないから」

 ふらふらと立ちあがったユミちゃんは、涙目で原田をにらみつけると、バッグをひっつかんでバーを出て行った。後ろ姿で目元を拭く仕草が見えた。

「十五分だけお待ちします」

 原田は背中にせりふを投げた。三十分待ったがユミちゃんは戻ってこなかった。

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