第19話

 五十嵐弁護士から荒川あてに連絡があったのは翌日の夕方だった。

「私も御社の案件をたくさん扱ってきて、裁判では相手方から相当な恨みを買ったこともある。しかしこんな人は初めてだ。まだ争いになったわけでもないのに」

 ミサちゃんだった。

 まず電話口で、イニンって何なのよ、悪徳弁護士があたしのお金を横取りしようとしているんでしょう、とヒステリックに喚き散らしたという。その後、本人と数人の若い男性が事務所に乗り込んできて、応接室とその前の廊下に一時間ほど居座った。威力業務妨害だと警察を呼んだところ、いったんは出て行ったが、すぐにまた戻ってきて同じことをした。その間じゅう訳のわからないことを喚いていた。

「そのとき私は外出していたのだが、彼女が連れてきた若い男たちが、どこでどう調べてきたのか、わたしの家族のことを中傷するような話を事務員たちにしていったらしい。後でその話を聞いた私は電話で、脅しのつもりかと言ってやった。すると若い男が出てきて、よう、おっさん、わけのわかんねえことしてるとどうなっても知らねえぞ、と始めた」

 折衝委任の弁護士に受取人決定の権限などない、文句なら妙な書類を残して死んだ息子に言えと、何べん言っても聞く耳を持たない。どうやら意味や状況を理解せず、とにかくいやがらせをしろと言われた若い連中が、うるせえこの野郎、と繰り返しているように思えたという。

「私はこの手の話には慣れているから別にどうということもないのだが、さすがに事務所まで乗り込んでくる輩ははじめてだ。事務員がすっかりおびえてしまって困っている。これ以上ひどくなったら、警察に本気でやってもらうことになるが、東西生命さんはそれでかまわないだろうね」

 もちろんです、と荒川は答えた。

 その日の夜、原田は帰宅途中で、五人の男たちに囲まれた。

 自宅マンションまでもう少しのところだった。フィットネス・ジムを出たあたりから背後に妙な気配を感じてはいた。住宅街の細い道。人通りが途絶えた瞬間、いきなり肩に手をかけられ、そのまま近くの路地まで引きずられた。

「何だ、おまえら」

 振りほどいて顔を見ようとしたが、みなマスクをしていて顔立ちや表情がわからない。三人が原田の背後から両腕と首回りを抑え、一人が見張りに立った。

「放せ。くそ」

 誰もしゃべらず、無駄な動きがない。かなり場馴れした集団のようだ。くそ。油断した。こういう事態は、あってももう少し先だと思っていた。

 ――たっくんか、弟の債権者か――

 リーダー格らしき男が原田の顔の上に身を乗り出した。

「母親に払え。いいな。今日は何もしないが、この次は指だ。後は腕、足、目といくぞ」

 何もしないと聞いて気がゆるんだ瞬間、男のこぶしが原田のわき腹に刺さっていた。

「……ぐっ」

「こんなもん、何かしたうちに入らねえからな」

 男たちは一斉に立ち去った。原田はあまりの苦痛に、しばらくその場で悶絶していた。何とか立ち上がれるようになるまで、通行人は一人も通らなかった。


 幸い骨折などはなかった。頭を打ったわけでもないし、面倒なので病院には行かなかった。翌日は昼頃に出社した。課長には自宅の前で転んだので遅れると報告していた。席につくと荒川が言った。

「大丈夫か」

「ああ」

「本当に転んだのか。そうは見えないが」

「打ったのは腹だからな」

「腹でも、通常は腕か手のひらに擦過傷が残るものだが」

「残らないこともある」

 荒川に事実を告げたらまず間違いなく警察に届けろと言うだろう。そうなると時間を取られて面倒だ。大した怪我じゃないし、暴力沙汰に巻き込まれたという噂でも流れたら転職活動に影響が出る。多勢に無勢とはいえ簡単にやられてしまったのも癪だ。

 課長から呼ばれ、本当に自分で転んだんだなと念を押された。こちらは酔ってけんかでもしたんじゃないだろうな、と自分の管理責任を心配している。

 ――まず部下の体を気遣えっていうんだ――

 不機嫌な顔をしていると、笹口佳奈子が寄ってきて小声で言った。

「あの、原田さん。お話があるんですけど」

「何」

 原田は警戒しながら答えた。小娘のなりをした疫病神。こいつが関わるとろくなことがない。なにしろ今後は腕の一本くらいは心配しなきゃならないんだから……。

「ちょっと喫茶室に行きませんか」

「ここじゃ駄目なの」

「ええ、ちょっと……」

 目を伏せ、そっと左右に視線をやる。その素振りにかすかな女を感じて、原田はちょっとどきりとした。生意気そうな口元は角度によってはコケティッシュにも見える。

 五分後、原田は喫茶室で笹口佳奈子と向かい合っていた。気がつくとペットボトルのミネラルウォーターをおごらされていた。

「で、何」

「今朝は大丈夫だったんですか。転んだって聞きましたけど」

「ああ、大したことない」

「ほんとですか、よかったぁ」

 眉間に寄せたしわをぱっと開いて笑顔になった。気をつけろ。何か企んでいるぞ。

「君な、ちょっと……」

 昨日のことを注意しようとすると、それにかぶせるように、

「みんな心配してたんです」

「え。――って、誰が」

「じつは原田さんのこと、一般職の間で噂になってるんですよ。ちょっとイケてるって」

 ミネラルウォーターを吹き出しそうになった。

「女子だけじゃなくて、若手の男子にも原田さんのファンは多いんです。同期の合田くんなんか、自分も将来は原田さんみたいに法人営業をばりばりやりたいって言ってます。私もそう思います。荒川さんは別だけど、他の上の人たちはみんな事なかれ主義っていうか課長や部長の言いなりで全然覇気がないのに、原田さんは上司を上司とも思わないというか、一本筋が通っているというか、そういうところがあります」

 周囲にどう見えているかなんて今の部署に来てからは考えたこともなかった。上に媚びたりする気はさらさらないが、そんなことを言われたって別にうれしくもない。

「用ってのはそれ?」

「違います。一つお願いがあるんです」

 思いつめたような眼差し。

「じつは私の友だちが趣味で小説を書いてるんです。ブログで」

「しょうせつ」

 こくん、とうなずく。

「推理小説です。あの子の書くお話、面白いんです。犯人が全然わからなくて」

「ふうん……」

「それで、原田さんに登場人物として出てほしいんです」

「は?」

「その子が次に書こうとしているお話が、社内の人間関係のもつれから起こる殺人事件なんです。その登場人物の一人が原田さんそっくりのキャラなんです。スタバでその子の話を聞いているうちに、原田さんの顔が浮かんじゃって。友だちに話したらモデルになってほしいって。お願いです。今度いっぺん、その子の取材に応じてもらえませんか」

 ぺこりと頭を下げる。

 ――ふうむ。おれは昨夜暴漢に襲われた。ケンちゃんは今頃、命がけの金策に走り回っている。今こいつが話しているのは若いOLが趣味で書いている推理小説――

 妙な脱力感。別に不快というわけではない。この落差が世の中ってことだ。

「まあ、いいよ」

「やったぁ。ありがとうございます」

 周囲の視線を集めるほどの喜びようだ。疫病神の笑顔。

「条件がある」

 笹口佳奈子の表情がちょっと不安気になる。

「何でしょう」

「いい男に書くこと」

 再び笑顔になった。

「わかりました。伝えておきます」

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