第18話

 似たもの夫婦じゃなく、似たもの親子というのもあるのだろうか。午後には何とミサちゃんがやってきた。弁護士委任の通知が届くひまもない。

 昨日、今日の午前に続いて、またしても「アポなしの青木さま」が、「保険金部の原田と荒川」を訪ねてやってきたというので、受付嬢の声は明らかにおびえていた。ロビー階に降りていったとき、原田と荒川は、緊張した面持ちの警備員と受付嬢をなだめながら、応接室に入った。

 夫が前日に警察に連行されたというのに、ミサちゃんは落ち着いたものだ。悠然として、頬に笑みさえ浮かべていた。前回と同じような数年前のスーツだが、モデルの印象は今日のほうが格段に若々しい。メイクの効果もあるのだろうが、やはり金の力ってのはすごい。想像だけで女を十歳も若返らせるんだから。

「こんにちは。連絡が遅くなってごめんなさいね。例の件、子どもたちとようやく話がついたから、それを伝えに来たの。さあ、書類をちょうだい」

 原田と荒川は無言で視線を交わした。ミサちゃんは、こちらが二人と会ったことを知らない。子どもたちと合意したという演技をしている。

「まったく苦労したわよ。二人とも分け前はちゃんともらえるんだろうなって、そればっかり何度も何度も繰り返して。意地汚いったらありゃしない。でも母親のあたしが保証するって言ったら二人とも納得したわ」

 しらじらしいが、想定された事態だ。だいじょうぶ、切り返しは用意してある。むしろこれ以外の回答はもはやできない。

「じつは省吾さんの保険金の件は、弁護士委任することが決まりました。今後のご連絡は、会社ではなく当社の顧問弁護士のほうへお願いします」

 荒川が言うと、ミサちゃんが眉間にしわを寄せた。

「弁護士?」

「ご主――健吾さんの事件で、当社はこのご契約の手続きに関しては、従業員の安全を確保する必要があると判断し、弁護士への折衝委任を行うことにしました」

「あんな騒ぎを起こしてごめんなさいね。帰ってきたときに、あたしがきちんと言い聞かせておいたからもうだいじょうぶよ。もちろんお金はあげない」

「健吾さんに受け取りの権利がないのはおっしゃるとおりです。私どももそのように認識しています。しかしお支払いが完了するまで、本件に関する連絡等は、お母さまも弁護士を通していただくことになります」

 ミサちゃんは気色ばんだ。

「ちょっと待ってよ。あんたたちが子どもたちと話をつけてこいって言ったからつけてきたのに、今さら弁護士のところへ行けっていうの」

「昨日のご主人の事件で状況が変わったのです。この弁護士です。連絡先を――」

 荒川が差し出した名刺を、ミサちゃんはひったくるように受け取った。

「うるさいわね。わかったわよ。書類を用意したら弁護士のところに持って行くわ。さあ、早く書類を出して」

「では――」

 荒川は用意していた書類を渡した。

「ここにお子さまたちのご住所とお電話番号、お名前、実印をお願いします。提出時には、発行後三カ月以内の印鑑証明書を添えてください」

「面倒ね。手間賃を請求しようかしら」

「応じかねます」

「お金はいつになるの」

「所定の確認作業の後、振り込みの処理をします。お子さまたちと連絡を取り、意思確認ができてから三営業日以内に……」

 ミサちゃんの顔色が変わった。

「ちょっと待ってよ。あんたらが子どもたちに連絡するの」

「はい」

 目に見える狼狽ぶり。

「話が違うじゃない。書類を用意すればいいって……」

「手続きに書類が必要とは申しましたが、当社からお子さまたちに連絡をしないとは申しておりません。連絡してはまずい事情がおありになるんでしょうか」

「そ、そうじゃないわよ。……そんなこと聞いてないって言っているの。そんなに後からいろんなことを言われたら、こっちは全然わからないじゃないの。それじゃ手続きなんか進まないわ。あの子たちも忙しいのに、そんなに何回も何回も面倒なことばかり言って、あんたたち、あたしを馬鹿にしてるんじゃないの」

「高額の保険金をお支払いする場合の所定の手続きです。同意書類をご提出いただいた後、当社から直接、お二人の同意確認をしてからの支払いとなります」

 ミサちゃんの顔は、あっという間にこのあいだのひび割れた般若に戻った。

「もう一度たっくんに言うわ。あの子は怒ったら怖いのよ。信頼できる仲間もたくさんいるんだから。あんたたち、どうなったって知らないから」

 ミサちゃんはヒステリックな捨てぜりふを残し、先ほどのダイちゃんと同じように、応接室から出て行った。今度は原田も嫌な予感がした。


 元気なのかい、母親は電話口でそう言った。

 プールから上がったフィットネス・ジムのロッカールームだった。

 留守電にメッセージが入っていた。二日ほどおいてかけてみた。

 母は二年前に地元の公立中学校の教頭という肩書で定年を迎えた。それからは顔の広さと社交的な性格を買われて、地域のボランティア団体の代表を務めている。図書館の前を掃除したり、市主催のフリーマーケットの運営委員になったり、大学病院の末期患者病棟で患者の話し相手になったりしているという。とくに病院での活動には力を入れており、週に二回は欠かさずに通っているらしい。

 もともとおしゃべりで世話好きだった。先生然としたしゃべり方が、患者に若い頃を思い出させるようで、評判はいいのだという。原田に言わせれば、人生の終わり近くになってまで、誰かにあれこれ指図されたいなんて気が知れない。

「元気だよ。何か用?」

「トマト送ったから食べなさいね」

「またかよ。料理するひまなんかないって」

「トマトなんだからそのまま食べればいいでしょ。家で育てた無農薬よ。甘いんだから」

「これでも忙しいの」

「お母さんだって忙しいわよ。でもちゃんと料理してる。たまには帰ってきなさい。お父さんもさびしがってるわよ」

 父とは三年以上、まともに話をしていない。

「そのうちな」

「意地はってないで。お父さん、近頃すっかり小っちゃくなっちゃったわよ。定年後は何もせずに家にいてばっかりだから」

 父は私立高校の歴史の教師だった。教頭にはならなかった。定年後は好きな古文書を見て過ごしていると思っていたのに。

「どっか……悪いの」

「肝臓がね。こないだの健康診断で言われて。それでちょっと落ち込んじゃってるの。あたしは年齢相応じゃないって言ってるんだけど」

 語尾がかすかに揺れる。それが少し気になる。

「歳とりゃ多少は何かあるだろ」

「大腸に小さなポリープも見つかって。良性だから心配ないって言うんだけど」

「手術とかすんの」

「来月ね。最近のは簡単よ。切らないの」

 父親は教師の威厳を周囲に押しつけるタイプだった。原田は幼いころ、父といると窮屈な思いをした。かといって、特段はげしい親子の対立や確執があったわけではない。人並みに反抗期はあったが、思春期を過ぎてからはふつうに話をし、酒も飲んだ。名古屋に就職先を決めたときは頑張れと励ましてくれた。業界はまるで違ったが、仕事を始めてみて父親の苦労を想像できるようになった。社会人の先輩として素直に尊敬もした。ありきたりの親子関係だったと思う。

 それがこじれたのは、原田が二度目の転職を実家に無断で決めたときだ。東西生命の社名を聞いて父親は猛反対した。めずらしく叱責、罵倒に近いはげしさだった。怒りの理由を説明しようとしない父親の態度に原田は反発し、それきり父子の会話はなくなった。

 事情は後で母親から聞いた。父方の祖父は商売人だったが、亡くなったときに加入していた生命保険金が支払われず、遺族、とりわけ祖母が余分な苦労を味わったという。

 今なら不支払いとなった理由も想像できないではない。加入時の告知に意図せぬ不備があったとか、約款上微妙な非該当であるとか、保険に詳しくない人には不当に思えてしまう免責事由ではないか。契約上は逆恨みに近いのだが、感情的になった受取人には保険会社は巨悪に見えるだろう。そのときの保険会社が東西生命だった。

 ――知るかよ――

 正直、うかつだったと思った。しかし口に出した悪態はもう消せなかった。

「わかった。近々いっぺん帰るわ」

「早目にね。来る前に連絡しなさい。ほんとによ。じゃあね」

 原田にきょうだいはいない。親は老いたら長男だけが頼りなのだ。そう思うと、急に母親が健気に見えてくる。

 良性だと言っていたが、息子を心配させないための嘘ではないか。あるいは悪性が隠れている可能性はないのか。父に万一のことがあれば母は一人になってしまう。そんなケースは仕事で数限りなく見てきた。生命保険の存在意義はこういうところにあるのだと、会社で繰り返し研修を受けるテーマでもある。

 セールスの現場では、こういう逸話を聞かせて顧客の関心をひいたり決断を促したりする。資料にして顧客にさりげなく読ませる。それと同じことなのに、自分の身に起きるとなると、やはり意味合いはまるで違ってくる。

 ――そういえば、親父は保険に入っているのか――

 母親には成績が苦しいときに一件加入してもらった。しかし父親の保険がどうなっているのか、原田は知らない。

 ――親父も白い紙になって空を飛ぶのか――

 思えば、魂が飛んで行くイメージは父親の本棚で得たものだ。絵本などあるはずもないから画集のようなものだったか。幼い自分が想像で作り上げた夕焼け空を、父親が飛んで行く光景を想像した。母親も。いずれは自分も。

 仕事柄、保険には入りすぎるほど入っている。しかしこのまま独り身を貫いたら、残る金は誰のためか。そんな金に意味はあるのか。その頃には父も母もいないだろうに。

 おれは天涯孤独の年寄りとなり、さびしく都会の片隅で……。

 ――やめておけ。

 三十代。これは突きつめて考えなくてもいいことだ。少なくとも、今はまだ。

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