第16話
荒川が簡潔に経緯を説明すると、
「――なるほど、事情はわかりました。しかし警察は困りますねえ。今はまだ不支払い問題がくすぶっているデリケートな時期なんですから。不支払いに不満を抱いた契約者が保険会社の本社ビルで暴れるなんて、マスコミの恰好のネタじゃないですか」
武田は尊大な口調で言った。
「第三者が根拠のない苦情を申し立ててきたので、正当な取扱いを説明しただけだ。これ以外の対応はあり得なかった。当社側に落ち度はない」
「落ち度がない? 実際にトラブルになっているじゃないですか」
武田は皮肉っぽく言った。おまえが苦情対応をやってみろ、と原田は言いたくなった。そもそもこっちを呼びつけておいて、何であちらはこんな若造一人なんだ。
荒川が反論した。
「不特定多数の個人顧客を相手に事業を行っている大企業が、苦情とまったく無縁でいることは事実上不可能だ。それに今日の件は不支払い問題とは関係ない。そもそもマスコミに採り上げられることを、そんなにおそれる必要はないだろう。不適切な報道をされたら、指摘して訂正させればいい。損害を受けたら賠償請求をすればいい」
「保険金部は当社のマスコミ対応方針を理解してないんですか。不正確な報道はできる限り事前に抑えるのが原則なんですよ。いったん出たら、訂正なんか読者は見ませんからね。今日の騒ぎだって、いっぺん報道されてしまえば、世間は単に東西生命がまた不支払いで問題を起こしたと思うだけです。広報が火消しにどれだけ苦労するかわかってるんですか」
「消費者はそれほど愚かではない。問題は事実を隠そうとしたり、伝えるべきことをきちんと伝えないことだ。誤ったことが報道されたら、堂々と謝罪や訂正を求めればいい。消費者によく見える形でやればいいだけだ。新聞が間違っていれば最後はあちらが恥をかく。それなのに、記事を事前にもみ消そうとしたり、内容を変えさせようとするのは、かえって相手に弱みを見せることになる。マスコミに対しては中立的に毅然とした態度をとるべきで、顔色をうかがったりするべきではない」
武田はやれやれ、といった顔をしている。
「荒川さんは相変わらず理想主義者ですね。まあ、いいでしょう。今回は犯人が危険な道具を持っていて、しかも酔っていたということですから、新聞にはその点もきっちり書くよう言っておきますよ。あまり大きな扱いにはしないようにもね。たぶんだいじょうぶでしょう。うちの部は日頃から新聞各社と良好な関係を保っていますから」
しゃべりかたは生意気だが言っていることは正しい。荒川が言うことのほうが青臭い正論だ。レピュテーションリスクなど取らないですめばそれに越したことはないだろう。荒川は消費者を買いかぶりすぎている。
「マスコミと親密すぎるのは問題だ。事前の情報操作などやるべきではないと思う」
「操作なんかじゃありませんよ。詳細を伝えてやるだけです。より正確な報道をしてもらうためにね。じゃあ今日はこれで結構です。この件は、うちのラインから社長まで報告を上げておきます。明日には社長から保険金部長に、再発防止をどうするのか照会が入ると思いますから、今日中に対応策を作っておいてください」
武田は返事を待たずに立ち上がると、会議室を出て行こうとした。おれのことは最後まで無視か。原田は思わず尖った声を出した。
「おい、君」
武田は、今はじめて原田の存在に気づいたような顔で答えた。
「何ですか。原田さんでしたね。こないだコンサル営推から飛……異動になった」
「おれのことを知っているのか」
「有名人じゃないですか。セールス枠から事務枠への異動なんて聞いたことがない。発表されたときはびっくりしましたよ。で、何か」
口調がこっちを見下している。頭に血が昇る。
「もう少し口のきき方に気をつけた方がいいんじゃないか。荒川は君より年次も役職も上だろう。呼びつけて言いたい放題言ったあげくに、時間がなくなったからもう帰れはないと思うがね」
すると武田はうんざりしたような顔で言った。
「年次ですか……。すみませんが原田さん、ぼくたち管理部門の人間は、営業現場とは違って、上下関係に縛られていては仕事なんかできないんですよ。人事部の職員が他部門の課長や部長に気を使っていたら、公正な人事なんかできないでしょう。広報はマスコミを相手にしてるんです。品性下劣で覗き見趣味で、大企業のスキャンダルを常に狙っている連中の意地悪な質問に答え、抑えこまなきゃなきゃならないんです。だらだらと時間をかけずにね。ですから相手が誰だろうと事実確認に手加減なんかしてられません。その辺の事情は、荒川さんはよくご存じだと思いますがね」
「それにしてもだな――」
「そうそう、たとえば営業が不正募集をやらかして、怒った被害者が週刊誌にタレ込んだりしたら、記事が出ないように抑え込むのもぼくたちなんですよ」
原田は言葉に詰まった。
「じゃ、もういいですか。次の打ち合わせが始まってしまうので」
武田は会釈もせずに出て行った。さして急いでいるふうには見えなかった。
荒川と原田も部屋を出た。エレベーターホールへと歩きながら原田は悪態を突いた。
「くそ生意気な。何年目だ、あいつ」
「五年目。広報課のホープだよ」
「広報じゃあんなのが評価されるのか」
「広報だけじゃない。役員会を仕切る経営総務課や予算を統括する経理課あたりにはああいう若手が多い。彼らに言わせれば、上を上とも思わないくらいでないと仕事はできないそうだ。ぼくは必ずしもそうは思わないが」
「下のやつにあんな口のききかたをされて、おまえ腹が立たないのか」
「彼の言う通り、仕事は年次や年齢でするものじゃない。意見は合わないが、ぼくは彼の仕事は認めているし、広報部の人手の少なさも認識している。だからこそこちらから報告に来たんだ」
「でも敬語も満足に使えないじゃねえか。営業に出たらすぐに潰されるぞ」
「ぼくは常々感じているんだが、日本語の美徳とされている敬語は、ときとして健全なコミュニケーションを阻害する要因になる」
「何だいきなり」
「敬語は当事者間の上下関係に基づく言語表現だ。本来は上下関係があるから敬語が使われるわけだが、逆に敬語を使うために力関係が規定されてしまうことがある」
「どういうこと」
「後輩は先輩に敬語を使う。時間が経ち、後輩のほうが上司になっても、多くの場合、後輩は先輩に対し敬語を使い続ける。最初の人間関係が心理的に尊重されるからだ。敬語を使って相手を叱責するのはむずかしい。その結果、上司が部下に命令しづらい雰囲気が生まれる。指揮命令系統が十分に機能しないのは組織にとって致命的な欠陥だ」
「まあ、そういうことあるな」
「日本に契約の概念が定着しないのも、ぼくは敬語のせいだと思っている」
「どうして」
ここでエレベーターが来た。二人は乗り込んで会話を続けた。
「契約とは、当事者の権利と義務を規定した約束であり、両者の関係は本来対等だ。しかし企業と個人顧客が契約を結んでいるとき、敬語を使うのはたいてい企業側だけだ。それによって顧客側の心理的優位が堅固になっていく」
「実態は『買ってもらっている』んだから、そんなのふつうのことじゃねえの」
荒川はそうだ、ただし、とつけ加えた。
「日本語の敬語は過剰なんだ。複雑で重層的な敬語表現が存在するためだ。あらゆる表現は時間とともに陳腐化するから、敬語も過激になっていく。たとえば、『資料を送ります』と言っていたものが、時間が経つと『お送りいたします』になり、『送らせていただきます』になる。企業側はどんどんへりくだり、逆に顧客側が持ち上げられていく。契約上は何の根拠もない心理的な上下関係が拡大し、固定化される。その結果、企業側は顧客に無茶をいわれても反論しづらくなり、義務のないサービスまで提供しなくてはならなくなる。つまり日本の市場は、その敬語の特性によって、もともと顧客側が甘やかされやすい環境にあるんだ。だから自立した消費者が育ちにくい」
「ふうん」
エレベーターが止まり、ドアが開いた。フロアに向かう廊下を進む。
「欧米の言語では敬語表現はそこまで極端ではない。たとえば英語では、セールスも顧客もお互いをユーで呼びあう。これなら対等な関係を築きやすい。日本の敬語環境下で、欧米並みの自己責任原則を徹底するのは無理だとぼくは思っている」
「わかったような、わかんないような」
「別に君に理解してもらう必要はない」
「小むずかしく言うからだろうが。そんだけ頭がいいんだったら、馬鹿にもわかるように、もっと簡単に言えよ」
「物事には単純化できるものとできないものがある。本質的に複雑なものは複雑なものとして理解するしかない。単純化した説明しか受け容れようとしない現代の風潮は、情報の受け手側の怠慢だと思う。自分で考える努力を放棄している」
「まったく、面倒くせえやつだな」
「厳密であろうとしているだけだ」
「そういう屁理屈は嫌われるぞ」
「その意見には同意しかねるが、今、これ以上この議論を続けることにはあまり意味がないように思う。どうだろう。もうやめないか」
「おまえが始めたんだろうが」
「そうだった。では問題ないな。やめよう」
やっぱり疲れる……。
フロアに戻ると七時を過ぎていた。今日は受付であんな事件があったというのに課のメンバーはみな帰ってしまっている。課長もいない。荒川につられて、つい原田も自席に腰を下ろした。
「おまえ、さっき武田を認めてるって言ったな。おまえも社会人にとって年功序列とか世間の常識なんか意味がないって思ってるのか。おまえは規則とか秩序を重んじるタイプだと思っていたが」
「秩序を重んじない社会人というのは概念的に矛盾している」
「――どっちなんだよ」
「組織の規則や秩序は当然、尊重されるべきだ。ただし秩序と敬語は別のものだ。敬語など使わなくても、必要な仕組みがあり、きちんと情報が伝われば、組織は動く。目上の者に敬語を使うべしという規定は法律にも社内規則にもない」
「もういいや」
原田は立ち上がり、ロッカーからスーツを取り出して、かばんを肩に担いだ。
「帰るわ」
と言ったものの、荒川が壁のキャビネに行ってファイルを二冊取り出してきたのを見て、足を止めた。
「おまえ、まだやんの」
「今日中に再発防止策の案をまとめる」
そういえば武田が言ってたっけ。
一応の担当者としては、少しばかり気がとがめないわけではないが、何をどうすればいいかわからない。荒川も手伝えとは言わない。一人でやれると踏んでいるのだろう。だったらお任せしようか。
しかし昼間の面接のことを思い出すと気が滅入る。このまま一人になるのは何となく嫌だった。それは決してこいつと仕事をしたいということではなかったのだが、
「……何か手伝おっか」
気がつくとそう言ってしまっていた。荒川は無表情のまま言った。
「ではこの資料のコピーを頼む」
結局、帰るタイミングを逃して、午後十時すぎまで残業する羽目になった。
とはいえ、案の作成と書類化の作業は、ほとんど荒川が一人で黙々とこなしたので、原田は、途中から時々ファイルを取りに行ったり、インターネットを眺めているだけだった。
――どうせむしゃくしゃして飲みに行くくらいだから、別にいいんだけどさ――
ヤフー・ジャパンのエンタメニュースをぼんやりと眺めながら、昼間のことを考えた。
こんなはずじゃなかった。自分の輝かしい業績をちらつかせれば、どの会社の人事担当者も揉み手ですり寄ってくると思っていたのに……。
目ぼしい外資系生保はほぼ回ってしまった。あと残っているのは、長田先輩の紹介待ちを除けば後発の中小くらいだ。規模や知名度が落ちれば、それだけ待遇も落ちるだろう。いや、そこだってあやしいものだ。生命保険は肌に合っていると感じていたが、あきらめなければならないかも知れない。そう原田は思い始めていた。
理由は昼間の面接官のせりふだ。あのデブは会社独自の情報源があるのだと言っていた。母親のことがあったのだからおれを採用するわけはないが、それがなくてもおれは排除されていたのではないか。他社も同様のネットワークを持っているのではないのか。生保の人事担当者どうしの秘密の連携。だとしたら、東西で重い処分を受けたおれの市場価値は相当に下落していると思ったほうがいいのかもしれない。内定が出ないのは、じつはそういうことなんじゃないか。くそ、へこむじゃねえか。
――おれこそが自分を買いかぶっていたというのか――
「なあ、おまえさ」
原田は何となく荒川に話しかけた。
「何だ」
荒川はパソコンに向かって指を動かしながら答えた。
「転職って考えたことあるか」
「ある」
意外にも即答だ。
「そうなのか」原田は身を乗り出した。「いつだ。何故しなかった」
「常に考えている。これまではしないほうがよいと考えたからしなかった」
またよくわからないことを……。
「つまり、話はあったけど条件が悪かったってことか」
「人生の岐路に立ったとき、人は自分がより幸福になれると信じるほうを選ぶべきだ」
「そうだろうな」
「オファーされた条件はよかったが、会社の将来性に疑問を感じた。その会社はその後まもなく破たんした」
「へえ。ラッキーだったな」
「別にラッキーじゃない。財務状況や業績推移、商品戦略などを見れば、破たん間近は明らかだった。ぼくは先方の採用担当者にも忠告をしたが、彼は耳を貸そうとしなかった。逆に腹を立てていた」
「その調子で言われりゃな」
聞くんじゃなかった。やっぱりこいつの話なんか参考にならない。
「転職するのか」
内心、ちょっとどきりとした。が、つまらない端末画面を眺めているふりをした。行き先も決まっていないのに転職するつもりだなどと会社のやつに言えるものか。
「そんなこと言ってないだろ。百年に一度の不景気だってのに、ネットには転職情報ばっかだなって思ってさ」
「君がセールスの仕事を続けたいと希望するのはわかるが、今は転職するには環境が悪い。少し待ったほうがいいと思う」
「だから違うって」
「そうか」
しばらくキーを叩く音だけがフロアに響いた後、今度は荒川が声をかけてきた。
「原田」
「何よ」
「人生の岐路に立ったとき、人は自分がより幸福になれると信じる道を選ぶべきだ。これはぼくの持論だが」
「さっき聞いたよ」
「選ぶべきというのは、権利ではなく義務なんだ。つまり、選ばなくてはならない。今の居場所にさして不満がなく、別の場所に移るのは相当な困難やリスクを伴う場合でも、その先により大きな幸福があると信じたら、人は困難なほうを選ばなくてはならない。それが人生に対する誠実な態度だとぼくは考えている」
いつのまにか荒川は指を止めて、原田のほうを見ている。強い視線に原田は少したじろいだ。
「――何だよ、それ」
「忠告だ。今は転職を考えていなくても、いずれ考えることがあるかもしれない。君のキャリアを考えればむしろそのほうが自然だ」
「だから、考えてないっつーの」
「そうか。ではぼくの勘違いだ」
「まあ、いずれ参考にさせてもらうかもね」
それからまたしばらくカタカタと荒川がキーを叩く音が響いた。やがてプリンタからペーパーが吐き出され、その夜はそれで帰宅した。
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