第15話

 その日の午後、原田は外出した。フランス系の保険会社の面接に行くためだ。長田先輩の紹介とは別口で、ネットの転職業者を通じて応募したものだ。

 もちろん会社には無断である。就業時間中に転職の面接に行ってきますなどと言えるわけがない。しかし、割り当てられた書類を全部片づけてしまった後で、ロッカーからこっそり上着を取り、トイレにでも行くふりをしてフロアを出てしまえば、誰も原田が外出したことに気づかないだろう。

 アポは六本木で二時だから、新宿のオフィスを一時過ぎに出発して、遅くても三時半までには戻れると計算した。図体のでかい保険金部のことだ。たった一人の姿が数時間見えなくてもどうってことはない。唯一の気がかりは荒川だが、あいつは午後ずっと他部との打ち合わせだと言っていた。席にはいないはずだ。

 そうやって出かけてきたのだが、いざ目的のビルに着き、受付で面接官が来るのを待っていると、さすがに気持ちがざわついた。ケンちゃんが応接室を出たときの様子が目に焼きついている。

 ずぶ濡れの子犬のようにしおれた老社長の背中を、派手な指輪をはめた木下の細い手がぽんぽんと叩いていた。まるで手足の長い蜘蛛が獲物を抱え込んでいるみたいだった。

 ――ケンちゃんは今頃どうしているのか――

 すでに体は相当ガタが来ているだろう。生命保険は解約済みだとミサちゃんが言っていた。あの年寄りを肉体的、精神的に痛めつけても木下にメリットはないはずだ。損害保険はあるかもしれないが、このタイミングで、たとえばケンちゃんが交通事故に遭ったりすれば、保険会社は間違いなく故意を疑うだろう。木下はおれたちに顔を見せている。あの種の男がそんなリスクを冒すとはとても――

「ちっ」

 両頬をパンと叩く。他人の心配をしている場合じゃない。自分だって明日をかけた転職の面接に来ているのだ。こんな暗い顔をしていちゃいけない。明るくさわやかに。仕事の実績はあるのだから、自信を持ってゆっくりと話せば大丈夫だ。

 案内係がやってきた。

「どうぞ、こちらへ」

「ありがとうございます」

 後について歩き出す。ビルは近代的なデザインで、勤務地・執務環境とも申し分ない。ロビーも通路も天井が高く、ガラス張りで明るい。営業職なのだから日中は外出しているし、原田が配属となるのはどこかの営業所だろうから、採用されてもこのビルに勤務するわけではない。

 しかし本社ビルの立地や外観、設備は重要である。相手企業の担当者をここに呼ぶことだってあるかもしれない。とくに相手が女性の場合、トイレが清潔でおしゃれだというだけで交渉がうまく運んだりする。オフィスの外観や設備は意外と大きく業績を左右する。

 通された応接室は、来客を圧倒することが目的であるかのような重厚な内装だった。案内係の女性が出て行き、やがて面接官が入ってきた。二人、やせ型と小太り。

 原田は立ち上がって、深々と一礼した。

「本日は、お忙しいところをありがとうございます。どうかよろしくお願――」

 するといきなりやせ型が言った。

「――たいへん申し訳ないのですが、連絡の手違いがあったようです」

「はい?」

「じつは、あなたの面接はキャンセルさせていただくことになり、昨日人事のほうからご連絡を差し上げるはずだったのですが、当社の担当者がそれを漏らしていたようなのです」

 頭がうまく回らない。

「おっしゃる意味が……よくわかりませんが」

「あなたを採用する予定はない、ということですよ」

 小太りが高飛車な横やりを入れた。

「内定者が定員に達したということですか」

「理由をお伝えする必要はないと思います」

 やせ型が気の毒そうに、しかしこれが最終結論だという口調で言った。

「しかし……私は今の仕事を休んで来ていますし、御社の応募要領に記載されていた条件をすべて問題なくクリアしています。私は自分のスキルと実績に自信を持っています。面接すらしていただけないというのは、どうにも納得がいきません」

「不手際はお詫びします。またご気分を害されるのも無理はありません。本当に申し訳ないことです。今日の交通費は当社が負担しましょう」

 電車賃なんかの問題じゃない。

「しかし、それではあまりにも……」

「あなたの適性ですよ」

 小太りがさっきよりさらに高圧的に言った。――くそ、たった二言、三言なのに、こいつのしゃべり方は何だってこんなにおれを苛つかせるんだ。

「私たちも人事のプロフェッショナルとして仕事をやっている以上、他社の人材に関する情報も、多少は持っています。あなたは業界では有名人でいらっしゃる。お噂は私どものところまで聞こえていますよ。東西生命さんのコンサルティング営業推進部のエースでいらっしゃったとか」

 きんきんと響いて頭の中をかき回されるような気がする。

「東西にいることが不採用の理由なのですか」

「誤解なさらないでください。私どもは、あなたの営業手腕を高く評価しています。感嘆すべきものです。会社収益への貢献という点では申し分ない。しかしあなたの、お仕事に対する姿勢というか、募集のスタイルは、当社の方針とは合わないように感じられます」

 ゆっくりと、胃袋を引っ張られるような感覚。

「それは……どういう」

「情報ルートはいろいろとあるということですよ」

 ふん、という音がかすかに聞こえた。小太りの鼻の穴から漏れたものだ……すると原田は無性に腹が立ってきた。こいつは本社の官僚だ。えらそうにしているが、現場のことは何も知らない温室育ちの軟弱野郎だ。営業の実態を知らないこんなやつに鼻先であしらわれる覚えはない。

「それは単なる噂でしょう。どのような噂をお聞きになったのか知りませんが、それだけで評価されるのは心外です。一度、面接のチャンスだけでもいただければ……」

「春先の一件はまずかったですね。三千万とはいくら何でもやりすぎだ」

 小太りが言った。その瞬間、イライラの原因がわかった。

「その節はお世話になりましたね。あれは私の母親なんですよ」


 都心部とはいえ、公園にはまだたくさんの緑が残っている。その緑に、真夏のような強い日差しが照りつけている。その攻撃的な日差しを避けるように、冷房の効いた喫茶店で二時間ほどつぶした。たばこが止まらないのが、おまえはこの程度のストレスもコントロールできないのかと言われているようで腹立たしい。

 五時前に、もう帰っちまおうと携帯を取り出した。

 いや、参りましたよ。急にむかしのお客さんに呼び出されちゃいましてね。いろいろ話し込まれて、今終わったんですけど、異動の緊張と疲れがどっと出たみたいです。寒気がするので今日はもう……。

 まるっきり嘘じゃねえぞ。むかしの客の家族と話をして気分が悪いんだ、などと考えていると、呼び出し音が途切れて笹口佳奈子が出た。あーあ、またこいつかよ。

「悪いけどさ、体調が……」

 言いかけると、笹口佳奈子は興奮した口調でまくし立てた。

「ああ、原田さん。探してたんですよ。今どこにいるんですか。早く戻ってください。荒川課長代理がたいへんなことになっちゃって」

 泣きそうな声。もう騙されねえぞ。

「そうかい。ところでおれさ、今日はちょっと気分が……」

「さっき、朝の、あの一億のお客さまがまた来られて」

 ――ケンちゃんが?

「それで?」

「ロビーでゴルフクラブを振り回して、大騒ぎになっちゃったんです。警備員と揉めているところへ降りて行った荒川さんが怪我をして、それから警察が来て……」

 原田が会社に着くと、大通りに面したガラス張りの正面エントランスには、普段この時間には下ろされることのない金属製のシャッターが下ろされていた。

 ビルの周囲に野次馬がいないところを見ると、騒ぎそのものは収まってしばらく経っているようだ。ビルの側面にある職員通用口からロビーに入ると、オープン応接セットのうちの一つのガラステーブルが粉々に砕かれ、職員が数人で床にモップかけをしているのが目に入った。

 その隣りで、ビル警備員と当社の職員が何人か、深刻な顔で何やら話し合っている。原田は、モップを操っている若手を捕まえて訊いてみた。

「何があった」

「酔っ払いですよ。不支払いがよほど頭に来たんでしょうね。酒飲んで、ドライバー持って乗り込んで来たんです」

 ガラステーブルはさぞいい音がしただろう。

「怪我人は」

「いませんよ。ご覧の通り、壁とかちょっとやられましたけど」

「保険金のやつが殴られたって聞いたぞ」

「そうなんですか? 気づかなかったな。何しろ犯人はひどく酔っていて、足元も手元もふらふらだったらしいですからね。壁とテーブルをぶっ叩いた後は、すぐに警備員に取り押さえられたそうですよ。警察が来るまでがまたたいへんだったらしいですけど。喚いて暴れて」

 もうケンちゃんは容疑者だ。

「その客は警察に?」

 若いのはうなずき、面倒くさそうにため息をついた。

「これ、たぶん明日の新聞に出ますよ。きっとまた叩かれる。保険金部にはもっとしっかり顧客対策をやってもらわないとなあ」

「悪かったな。おれも保険金だ」

 しまった、という表情の若造を置いて、原田はエレベータに乗り込んだ。自席に戻ると、ちょうど荒川も戻ってくるところだった。

「おまえ、怪我は」

「怪我。何のことだ」

「おまえがケンちゃんに殴られて病院に運ばれたって聞いたぞ」

「それは正しくない。ぼくは席を外していて、青木社長が来たことを知らなかった。騒ぎが収まった後に受付が電話をくれて、彼が君かぼくに会わせろと言っていたと聞いたので、様子を見にロビーへ降りて行っただけだ。ああ、そのとき受付のカウンターにちょっと腕をぶつけたが」

「そのことを笹口に言ったか」

「笹口さんがどうした」

「言ったんだな」

 ――あの女――

 文句を言ってやろうと見回すと、今日はもう退社したらしく姿が見えない。

「そういえば昼間はどこへ行っていたんだ。長く席を空けていたようだが」

 用意していた言い訳を告げると、荒川は「そうか」と言っただけで、とくに疑う素振りは見せなかった。

「以前の顧客を無視できないのもわかるが、今は保険金部の所属なのだから、就業時間中に所在がわからなくなるのは困る。今後は、外出の際は行き先を誰かに伝言して行ってくれ。ぼくにメールを入れておいてくれてもいい。万が一、その間に災害などがあって、従業員の安否や所在を確認する必要が生じたりしたら……」

「――ああ、わかったって」

「君の携帯番号も聞いておく必要があるな」

「プライバシーは教えたくねえなあ」

「業務上必要だ」

 原田がしぶしぶ番号を告げると、

「課内の緊急連絡網に追加しておこう」

 今後、会社からの電話は着信拒否だ。

「そういうおまえはどこ行ってたんだよ」

「課長と一緒に常務への報告だ。それから法務部に行って訴訟になった場合の対応方針の打合せをしてきた。この件はまだかかりそうだからな」

 上司への報告やその意向を気にするのは、決裁ラインの中で生きている生え抜きだけだ。一匹狼のセールスはそんなもの意識しない。

「上は何だって」

「うまく収めろと」

「で、おまえは何て答えた」

「努力はするが確約はできないと」

「だろうな」

 荒川の電話が鳴った。

「はい、そうです。――今から? わかりました」

 荒川は原田に向かって言った。

「君も一緒に来てくれ。広報に説明を求められた」

「広報?」

「マスコミ対応の部署だ。この件は明日の新聞に載るだろう。広報は事前に把握しておく必要がある」

 これまた組織の海を泳いでいるやつらの領分だ。まあ、見物してやるか。原田は広報部のある二十階フロアまでついて行った。会議室で待っていると、広報課の武田と名乗る主任が入ってきた。あからさまに迷惑そうな顔をしている。

 主任といえばまだ入社五、六年目の若手のはずだが、顔立ちはひねた子どもみたいだ。「どうも」、その無愛想な態度にたちまち原田は嫌悪を覚えた。

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